サブカル 語る。

サブカルチャーなどについての雑談

亀仙人のカッコよさとドラゴンボールにおける重要性、立場を改めて考える

こんにちは。

 先日は「いま学んでみたいこと」をテーマに漫画の「MASTER KEATON(マスターキートン)」のあるエピソードから「学び」を語ってみました。

  

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 学ぶことは人間の喜びであり、使命である。だからこそ人は学ぶ。けど人間っていうのはとてもワガママなので、いくら使命といえども自らの行動に「目的」がなけりゃ続けることはシンドイ。そこで本日のブログでは、2人の武道の達人のエピソードから「学ぶことの目的」を考えてみました。

 

 

学びの本質は基本の反復である 

 僕らは小学校や中学校を経て、現在大人として生活を営んでいますがたまに「学校の勉強で得た知識なんて、実生活で役立たない!」と自分の経験だけで悟ったふうなことを言う人も少なからず見かけたりもします。確かに数秒先も見通せない現実で起こる、多様で複雑な問題に学校で教えてもらう知識だけで太刀打ちできるはずもありません。だったら学校で学ぶことに何の意味があるのでしょう?
 

 たぶんそれは物事に対して瞬時に動ける身体(頭)づくりのためだと僕は思います。何度も何度も反復することで知識を身体や頭に染み込ませ、いざという時「蓄えた知識」を現実で発生した問題に対応できる「汎用性の高い道具とするためのメソッド」こそ学校の「学習」であり、その学習の先にこそ「物事を知る事=喜び」という真の「学び」の境地があるんじゃないかとストイックなことを考えています。
 

 そう考えると学校の勉強とは武道における稽古とよく似ています。素振りや受け身、延々と続けなくてはいけない基本技の反復。退屈で退屈で長時間やっているとだんだん飽きてイヤになり、みんなやらなくなっていく。だけど飽きても嫌でも続けることで身体に染みこんだ技術や知識こそいざという時に自分の足腰を支える「道具」になっていることはしっかり大人を生きていれば誰でも実感できることでしょう。

 

合気道の開祖である植芝盛平の考えていた「技」 

 武道といえば、合気道開祖として知られている植芝盛平は「技」について人に問われた時「技(という形あるもの)は、もう自分には必要ない。向かい合った相手に対して足を一歩踏み出せば、もうその一歩が自分の技になっている」と語ったそうな。この話が意味しているのは「技」の根幹を反復練習で掴めれば日常動作そのものが「技」になるため、いつどんな時でも怖くない。つまり日常生活そのものが「護身術」となる。という意味です。その「無形の技」を植芝盛平が会得できたように、日常の動作がその人にとっての学びになる「形のない学び」を手にできたら「学びこそ最強の護身術」であるとか言えるようになるんでしょうか。言えたらほんとカッコいいんだけど。

 

亀仙人の語る「技」 

 さて。「学び」=「武道」としたところでもう一人の武道の達人のお話を紹介。その達人の名前は亀仙人ドラゴンボールでは孫悟空の初期の師匠であり、ピッコロ編以降はさほど活躍もありませんが、この亀仙人こそ未熟な悟空を鍛え、常識的なモラルに反しても強くなることを求める天津飯らを諭して導くなど、実は作中でもっとも大人としての役割を果たしたキャラでした。その亀仙人は武道・武術をどう考えていたか?

 

 物語で悟空、クリリンは重さ20kg(後半40kg)の甲羅を背負い、半年間もの間、牛乳配達など日常生活を通じて武術の基礎になる動作を徹底的に反復させられていきます。

 

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出典:ドラゴンボール 鳥山 明

 

 半年後。やっとのことで甲羅を脱ぐ許可を得て身軽になり、これから本格的な技の修行だ!とボルテージも最高潮の悟空とクリリン亀仙人は「お前たちに教えるものはない」と、語った後こう続けます。「徹底的な反復で基礎を心身に染み込ませ、それらを応用させる。武術や拳法の真髄は基本である」と。

 

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出典:ドラゴンボール 鳥山 明

 

 「修行で技の基本を掴めれば日常動作そのものが武術になる」と、亀仙人合気道開祖の植芝盛平と同じことを語り、弟子に諭しているのです。従って「学ぶこと」の目的は僕の考えだとこんなふうになりました。
 

 学ぶことで基礎となる知識を身体に覚えさせ、それをあらゆる局面で自由に扱い、学ぶ事が喜びであるという人材になる事を目指していく。学ぶ事が喜びになった人材はもうその一挙一動が「学び」そのものになる。

 

賢者のいないドラゴンボール

 さて、この学び=護身術である事を指し示した賢人、亀仙人ですが映画「復活のF」では亀仙人も闘いに参戦。年老いてもなお、その強さを発揮する姿に一部のファンは狂喜したとの事。「お前らわかってない!」本編のフリーザ編以降にキャラの強さインフレが激しくなっていき、戦闘力「1億」を超える敵が溢れるほど存在する中で戦闘力「139」亀仙人が闘いで活躍といってみてもそこに説得力なんてありません。

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出典:ドラゴンボール 鳥山 明 

 戦闘力139でそこそこ活躍できちゃうなんて、フリーザの一味は単なる無能の集団。っていうか物語の設定をいじくって整合性をめちゃくちゃにする愚行に怒りさえ感じています。(たとえ原作・原案が鳥山明であっても)

 弟子や敵が強くなり、戦えない老兵となった亀仙人には300を超える寿命から得た経験や知恵で現役の悟空やベジータたちが強敵の出現で窮地に陥った時に説得力のある助言で支える「賢者」「知恵者」的なポジションにつけて活躍をさせていたら基本的に「過酷な修行」で全部のピンチを切り抜けるドラゴンボールの世界を、さらに豊かにできたんじゃないだろうかと思うと非常に勿体無いなぁ、と僕は思います。
 

 例えばマンガ原作のこのシーン。人造人間編でセルとの闘いに備えて1日=365日分の時間が流れる「精神と時の部屋」での修行。

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出典:ドラゴンボール 鳥山 明

 

 決戦前に悟空はパワーを鍛える事に頼った修行で強くなっても敵に勝てない事を悟り、普段から超人状態の超サイヤ人に変身して日常生活を送り、身体を慣れさせていくことで、戦闘時に本来の力を最大限に引き出せる技術を身につける修行にシフト。その修行のおかげで悟空・悟飯たちは超サイヤ人のポテンシャルを最大に引き出して、自らの限界を超えた力を得ます。
 

 これって亀仙人が子ども時代の孫悟空に課した修行に似ています。甲羅を背負わせて日常生活を送り、その中で基本をマスターさせる。「重い甲羅」=「肉体と精神に負担をかける超サイヤ人の変身状態」です。甲羅を外した悟空に亀仙人はこう言います。

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出典:ドラゴンボール 鳥山 明

 

 肉体と精神に負担をかける超サイヤ人での生活を日常とする鍛錬の先にあったのは徹底的に鍛えられた心と身体。物語の中では悟空自らが修行の方向性の誤りに気づいていましたけど、この亀仙人のセリフを回想などで出しておけば戦闘力139で戦えない亀仙人だって、読者に一目置かれるキャラになり得ただろうと思うと非常に残念。また、悟空はこの時に息子の悟飯と一緒に修行しています。悟飯の年齢は10歳前後。悟空が亀仙人と修行していた時代とほぼ同じ。父親となった悟空が息子の修行に付き合っている時に、自分の子ども時代をふと思い出して、上記の亀仙人のセリフが頭をよぎる。とかいう伏線だって貼れたのに。

 

 こういった展開は少年漫画好きには胸が熱くなると僕は思うんだけどもなぁ。 ってか単純に僕が将来こういう「賢者」っぽい匂いを漂わせる老人になりたいっていうだけの話で、その理想を亀仙人に求めているだけかも。

 

 合気道歴30年以上の僕が考える護身術については以下の記事をどうぞ。

 

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※でもやっぱドラゴンボールフリーザ編までかなぁ。