サブカル 語る。

サブカルチャーなどについての雑談

節分になると思い出す「べっかんこおに」の物語

こんにちは

 

 世間はもうそろそろ節分の時期。各地では豆をまいたり、恵方巻を食べたりなどされるご家庭も多い事でしょう。僕が子どもだった頃、メジャーなポジションにある食物とは言えなかったこの恵方巻。この習慣は本来、関西地方のみに伝わるローカルなものでしたけど、コンビニの最大大手であるセブンイレブンが1998年に全国一斉販売キャンペーンを行い、あっという間に全国区に。大学生だった当時、僕もセブンイレブンでバイトをしていましたが、その店のオーナーと担当のプロパーに恵方巻のプロモーションで使うパンフレットを見せてもらった記憶があります。その頃、この食べ物がこんなに広まるとは思っていませんでしたね。正直言って。
 

 最近、そのセブンイレブンは風邪をひいてバイトを休んだ高校生にペナルティと称して給料天引きを行ったといったニュースが世間を騒がせました。

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鬼を追い払い、福を呼ぶ商品を売っていた店のオーナーこそが鬼だったという、笑えない話。
本当に恐ろしいのは怪物か?人間か?

 さて本題。ここから以前も書いた記事のリライトになります。本日、このブログで紹介するのは「鬼」をテーマにした児童文学の「べっかんこおに」。どうしてもこの時期に読者の皆さんに広く知っていただきたい物語なので、以前も読んだという方がいらしたら「おさらい」と思ってお付き合い下さい。あ、ちなみに物語のタイトルにもなっている「べっかんこ」っていうのは今でいう「あっかんべー」のことをいいます。

 

 むかしむかし。あるところに鬼たちの暮らす山がありました。鬼というのは人間たちにとっては「恐怖の象徴」でありながら悪さをした人間を叱る役目を持つ畏怖される存在でありました。その中に鬼のくせしてまったく怖くない間抜けな顔を持ち、気弱で優しい性格の者がおりました。その間抜けで気弱な鬼は仲間たちに「べっかんこおに」と呼ばれて馬鹿にされていました。
 

 そんなある日。べっかんこおには里で暮らす盲目の少女「ゆき」と出会います。ゆきもまた盲目であったがために里のみんなに蔑まれて孤独を味わっていました。べっかんこおにはひょんなことからゆきを山に連れて行くこととなり、二人はいつしか互いを愛しあい、夫婦となりました。
 

 ゆきは自分の愛する夫がどんな顔か見たいと思うようになり、ゆきを不憫に思ったべっかんこおには山の長である「山姥」に妻の目を治してやりたいと相談。山姥はべっかんこおにに谷の中腹にある薬草が、目の病に効くだろう。だがその谷はあまりに険しいため、薬草を手にするのは屈強な鬼でも困難であることを教えます。危険を承知でべっかんこおにはゆきの目を治すために薬草を探しにいき、命がけでその薬草を手にしました。

 

 丁度そのころ。その谷にはゆきの父もいました。娘がいきなりいなくなったのはべっかんこおにがむりやり娘をさらっていったからだと思い込んでいたゆきの父は銃を手に、長年山を探し回っていたのです。そしてゆきの父は薬草を手にゆきのもとへ走っていくべっかんこおにを見つけ、引き金を引きました。
 

 薬草のおかげで目が見えるようになったゆきが最初にみたのは、胸を猟銃で貫かれて血まみれになった夫でした。べっかんこおにはゆきを泣かせまいと自分の顔の醜さを「笑え笑え!」といって笑わせ、ゆきは涙をためながら大笑い。そこへゆきの父が現れて目が見えるようになったゆきに自分が父であると名乗り、里に連れ帰ろうとしますが、ゆきはその父を拒み、私の愛する者を私から奪ったお前は父じゃない!私にとってはお前こそ「鬼」だ!!と叫び、怒りに身を任せて踊り狂っているうちに般若になってしまいました。

 

 この物語を小学校の演劇教室で見た僕はそのあまりにも悲しい結末に呆然。怒りで我を失って般若になり、踊り狂うゆきの姿に号泣しそうになったのを今でも覚えています。この児童文学が読者に訴えているものは姿形が異なる「異形の存在」が鬼なんじゃない。異形の存在に対して、自らの狭い価値観だけで善悪を決めつけて、排除を望む「人間のエゴ」こそが鬼である。という人間社会そのものに向けた警戒です。折しも最近は自由と平等が最大のウリであったある国が外国人の排斥を決め、その国のトップとこの国のトップは今月、ゴルフを楽しむそうな。べつにどうだっていいけど。