サブカル 語る。

サブカルチャーなどについての雑談

「火ノ丸相撲」作者は大相撲の暴力問題に挑んだ点で評価すべきである

こんにちは。

 本日の話題は、週刊少年ジャンプで連載中の相撲漫画「火ノ丸相撲」。僕もこの作品大好きで、出勤中の電車でまず最初の方に読むんだけど、先日ジャンプに掲載されたエピソードについてはほぼ同じ時期に横綱日馬富士の暴行が明るみになったため違和感を抱かずにいられませんでした。

 

 

 

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出典:火ノ丸相撲(川田)_集英社

 

 

愛の鞭とは単なる無知の暴力 

 稽古の激しさは各界一といわれる猛稽古で有名な「柴木山(しばきやま)部屋」所属力士「鬼丸(前頭?枚目)」が日馬富士と同じくモンゴル出身の同門「白狼(幕下)」を相撲部屋の名を体現するかのように殴っている風景。場所明けの番付発表にて、先輩の力士が苦節10年を経て十両昇進を果たしたことへの嫉妬と焦りがこの騒動の発端でした。この、鬼丸と白狼の二人は高校時代に全国大会の団体戦で直接対決はなかったものの、優勝をかけて競った仲。ケガなどのハンデを負ったものの幕内力士となったライバルの鬼丸、別の部屋所属の力士になり三役の地位を手にした相撲部の先輩らの華々しい活躍を横目に伸び悩んでいる自分。そんな時に普段見下していた同門の先輩が十両となったら、そりゃおもしろくありません。白狼は「自分の方が才能がある!10年やっていりゃ十両くらいなれる。自分はこんなところでモタついている暇なんてない!」と、周囲が咎めても不貞腐れ続けていたのをずっと見ていた鬼丸が殴り、白狼を諭します。

 

 「諦めるのも諦めないのも簡単ではない。10年という年月は軽くない。それをわからないお前じゃないだろう?」

 

 鬼丸の叱咤に我を取り戻した白狼は涙ぐみ、非を認めて謝罪。これだけを見ていると絵面的にすごくいいエピソードなんだけど、以下のモブのツッコミを見てふと考えちゃいました。

 

「っていうか(鬼丸も)殴ることないのに。昭和じゃないんだから」

 

 和やかな部屋の食事風景で、今回の暴力騒動が談笑交じりにそれこそ鬼丸の優しさ、魅力みたく語られているため微笑ましくも思えるんだけど、コレって言われてみたらそのとおりで、程度こそあれど人が人を諭すという時には暴力なんてやったらだめよ!っていう話だわな。物語の舞台は体育会的な「相撲部屋」なだけに説得力もあり、その鉄拳には自分を含めて読者をスカッとさせる「カタルシス」もある。だけど、この説得力もカタルシスもやっぱり「昭和」っていうか物語だけに許される価値観なんだよな、そこに共感している自分もやっぱり「時代遅れの古い価値観」に支配されているんだな。この爽快さは漫画だから許されるものであり、現実に持ち込んだらダメ。と強く思いました。今回の日馬富士の理不尽なビール瓶殴打事件も、鬼丸の愛情のある鉄拳も力でモノをいわせるという点で同類。力を使って目下の相手にモノを言わせる暴力(物理的、精神的を問わず)を現実に持ち込んだらダメ絶対!

 

体育会系の美談なんて古くさい

 この体育会系的な愛のムチエピソードは現実社会で認められるもんではないからね。この事件の発覚以来、連日続いている「日馬富士の暴行事件」の報道。当事者の日馬富士や、その場に居合わせた横綱白鵬」、その他力士の「ビール瓶で殴ってはいない」という証言に、被害者の高ノ岩が自らSNSで「ビール瓶ではないけど横綱に50発近く殴られた」という証言、診察した医者の診断書に貴乃花親方の相撲協会事情聴取拒否など、なんだかよく分からない話になってきました。もっとも、単なるやじうまの一人である自分がこの事件についてどうのこうのいう資格もありませんけど。ただ「ビール瓶を使った、使ってない」の真偽はともかく、先輩力士による暴力、いわゆる「かわいがり」があったのは事実であったとのこと。この「かわいがり」というフレーズによっていつも思い出す漫画があります。ドラゴンボールのこのコマ。

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出典:ドラゴンボール鳥山明)_集英社

 「かわいがるといってもアタマをよしよしとなでたり、たかいたかいとかをするんじゃないぞ。いためつけてやるということだ!」

 

 

 このセリフを発している人物は、ドラゴンボールにおける敵キャラの代表格「フリーザ」率いる一味の精鋭部隊「ギニュー特戦隊」の一人、ジース。そのジースがナメック星にドラゴンボールを探しに来たクリリン孫悟飯ベジータたちの居場所を捕捉して、今まさに戦闘が始まらんとする直前の緊迫感溢れる名場面です。なんだけど、この余計なひとことで緊張感がぶちこわし。鳥山明ってこういう描写はほんとにうまい。

 

火ノ丸相撲」の作者は暴力から逃げなかった 

 そんな雑談はここまでにして、そろそろ本題。少年漫画などでありがちな「情を込めた暴力」を交えての相互理解っていうのはとってもわかりやすいだけでなく、読者にも爽快感みたいな感情を与えます。僕も、それを否定する気はありません。ただ、現実社会にはそういった感情から発生していると思われる部活の暴力や会社での「パワハラ」まがいな指導などもまだ多くあるのが実情。この大相撲で発覚した暴力事件を受けて、作品がどんなスタンスをとるのだろう?或いは藪蛇を避けるためにこの問題を扱わずにスルーするかと注目をしていました。

 

 そして数週間後。この問題についての解答が作品の中で示されたのです。先述の十両に昇進したばかりの先輩力士が、相撲巡業で新弟子時代の理不尽ないじめ、しごきから「自分より弱い者、番付が下の者には何をやっても許される」という歪んだ実力主義に陥った小結「蜻蛉切」に再起不能にもなりかねないケガを負わされたことで鬼丸、白狼など柴木山部屋の面々は「蜻蛉切」に並々ならぬ敵意を抱きます。同時に鬼丸は嘗て殴った白狼の前で「自分も根っこの部分は蜻蛉切と変わらないのかも」と呟くのです。それを聞いて驚いた白狼は「鬼関と蜻蛉関は違う。自分はあの時に殴られて当然だったと思っている!」と否定。それを聞いた鬼丸は「殴って黙らせるのは、言って聞かせる力がないと言っているようなもの。僕も昔は自分の受けた指導から荒っぽく弟子を指導していた。今、思えばそれは自分の未熟さだった。白狼がお前の暴力によって諭されたのだと理解していても、それに甘えて殴る側が暴力を正当化してはいけない。力士は力を持っているからこそ誰より強く己を律し続けるべきだ」という師匠、柴木山親方の言葉を思い浮かべながら

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 出典:火ノ丸相撲(川田)_集英社

 

 

「暴力に良いも悪いもない」と言葉を続けます。イヤな見方をすれば、これもまたステレオタイプっぽい回答ではあります。だけど、これだけ作品のテーマ「相撲」が評判を下げるような話題が続けばそれについての言及は避けたい!と思うのが人情ってやつです。余計なことを言わずに騒ぎの収束を待ったり、僕がさっき述べた「フィクションと現実をごっちゃにしたらダメ」と雑誌の裏にある作者のコメントや単行本表紙の著者のことばで述べ、逃げることだってできたでしょう。だけどこの作者はそれをやらなかった。たとえこの主人公のセリフがありきたりな言い回しだとしても「なにがあっても暴力は間違っている」というメッセージを発して、作品を現実の相撲を巡る暴力問題についてコミットさせようとしている点を僕は評価したい。僕は今週号の「火ノ丸相撲」の態度に「物語と社会はお互いにどう関わりあうべきか」という、このブログを通じて僕が考え続けている問いについての答えの一端を見たような気分でした。っていうところで本日のブログはこの辺にて。

  

 

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