サブカル 語る。

サブカルチャーなどについての雑談

僕の風俗初体験について語る

こんにちは。

 本日のテーマはいきなりのド直球「僕の初めて風俗体験」についてです。

 

 

男同士でソープ(風俗)に行きな!(北方謙三

 僕みたく結婚しちゃうと別に女性からモテてもモテなくてもどうでもいい。というのが本音ですが「恋=愛=性欲」みたいな、爆風スランプの名曲「友情≧愛」を連想させる、青春の痛みに溢れる方程式が頭にある時期には女性にモテないということに惨めな思いをさせられる人たちも多くいることでしょう。そんな時の、心の空白をどうやって塞ぐべきか?小説家の北方謙三先生が男性週刊誌「Hot-Dog PRESS(ホットドッグプレス)」で連載をしていた女人禁制のお悩み相談室「試みの地平線」風に言うと「男同士でソープに行きな!」といったところかと思ったりもしています。この「試みの地平線」っていうのは青少年の(どうでもいい)悩みについて北方センセが男気溢れる回答で解決を図る、単純明快な相談コラム。女人禁制と謳うだけあり、清々しい程の男尊女卑なお答えに貴方も膝を打つことでしょう。こりゃダメだなって。

 

ホットドッグ・プレス - Wikipedia

 

 本日のテーマは彼女がいないどころか振り向いてさえも貰えず、常に鬱屈した性欲を風俗で発散させたいけど、お金がないという貧乏学生のための話題。この記事もブログ初期に書いたエピソードのリライトになります。知っている人がいたらごめんなさい。

 

いざ!ソープランドに突入!!

さて本題。

 僕もまた学生時代から36歳になるまで彼女がいない孤独な青年でした。女性の友達はいたけど、恋愛の対象にはみられないっていうありがちなポジションですよ。その頃の僕は彼女もおらず寂しくもあったけど、大学の体育会合気道部の活動ほかゼミの映画づくり、有志を集めての映像作りなど、やることも多くあったのでそれなりのリア充な生活を送っておりました。彼女のいなかったとある同級生には夏休み前半をぜんぶアルバイトで使い、後半で貯めたお金を風俗につぎ込んだ奴もいて、そいつのお誘いを受けたことはあったけど性病が怖かったのと、人間の愛情や感情がからむ行為をお金で清算っていうのがイヤだという想いもあったので、行ったことはありませんでした。今思うと
女性軽視な考えだけど「風俗に行きたがらない」ことで周囲からバカにされたことも少なからずあります。

 

 そんなカマトトぶっている僕ですけど必要に迫られて一度だけソープに行ったことはあります。どんな必要だよ?っていうと「映画制作のため」

 

金のない学生が半額で行けた名案

 物語の演出でソープランドの店内イメージカット映像が必要となり、誰かが店内の風景を撮ってくることになったのだけど貧乏学生な僕らはそういう店で遊ぶお金なんてありません。ロケ地の近くにあったソープランドのネオン看板にデカデカ光る「一時間1万円」の大きな文字。「せめて半額の5000円だったらな。1万円・・・」とみんなで頭を悩ませていた時、ふと、僕の頭に思いついたのです。

 

 「女の子のサービスを受けなけりゃ半額で入れるかな?」

 

  その案を披露したところ、撮影に来ていた仲間全員から「名案!」と思わぬ好反応。その瞬間、正直僕は「こいつらはバカじゃないか?」とマジで思いました。そんでもって実際にその案でいくという話になり、発案者の僕が直接お店のマネージャーと思しきおっさんに直談判。そのおっさんの風貌はヤクザっぽいっていうかヤクザそのものだったのでビビりながら「どうせダメだろうなぁ。すっげぇ怒られるだろうなぁ。怒られるだけだったらいいけどぶん殴られるだろうなぁ」とか思っていたら、そのおっさんは「俺はお前らみたいな目標を持って頑張っている奴らが大好きだ!応援してやる!」とこれまた好反応。その結果、僕は半額の5000円でお店に入れたのでした。

 

 ただ女の子はいないのでなにも楽しいことはありません。狭めの男湯みたいな風呂場を撮影後、余った時間はぬるめのお湯につかるだけ。浴槽の周りにあったぬるぬるするローションも塗ってみたけど、ただベタベタするだけだったのでボディソープで洗ってまたお湯につかって5000円を払って終わり。外で僕を待っていたメンバーから「どうだった?」と質問されたので、僕はこう答えました。

 

「高ぇ風呂だった」

 

 風俗に行きたくてもその勇気がない。そんな人に、このアイディアはオススメ。

  

 

困った女どものくれたバレンタインで困るチョコ

こんにちは。

 本日は皆さんお待ちかねのバレンタインデー。

 

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出典:フルタ製菓CM 

 

 話題に直接絡まないけど、フルタ製菓のチョコのCMに出ていたフルタマンっぽく、呟いてみましょう「やぁみんな、チョコ食べてる?」

 

 このバレンタインデーというのは「菓子メーカーやデパートの販売戦略、過剰な広告に先導されて思考を放り投げ、狂ったように踊り続ける大量消費主義の権化共の大騒ぎ」。いやいや女性が男性に愛を贈る日であります。ただ、この女性が男性に贈る日っていうのもかなり古い価値観っぽい。

 

ヴァレンティノの祝日であるバレンタインデーが、「女性から男性に愛を告白してもよい日」とされたのも、日本独自のものだそうだ。NHK英会話番組のむか~しのテキストには、米国ではむしろ男性から女性にプレゼントを贈る日と書いてあったと、例によってうろ覚えの記憶がある。ああ、google:海外のバレンタインデー で検索すればいいのか。 さらにそれが、「女性が義理チョコを配る日」ということになってしまった。もちろんサプライヤー主導のものであろうが、こんな誰も幸せにしなさそうな習慣が、なんで定着したのかこそが謎だと思う。 しかし近年さらにのさらに、それが「自分にご褒美をあげる日」に自然発生的に変化を遂げているのだとしたら、消費者の自分で考える力を舐めるなバーカバーカくらいの快哉を叫びたい気分である。

いまどきのバレンタインデーは「自分にご褒美をあげる日」になったのかな? - しいたげられたしいたけ

  消費者ナメてました。と素直に反省。

 

www.watto.nagoya

 

 

 

本命チョコなんて妻以外貰ったことない

 別に自慢でもなんでもありませんけれど、僕は生まれてこのかた、本命チョコなんて結婚前の妻以外から貰ったことありません。高校2年生まで女子たちに小学生のいじめみたく「AM菌」と呼ばれたり、大学で石を投げられたりなど女性からはマジで嫌われていたので「女子にモテる」なんていう思い出はありません。だけど女子から石を投げつけられて「側に来んな!」と言われたのは、正直ショックでしたけどね。ただそれも普通の人が味わえない貴重な体験だと思うと美味しくもある。とりあえずその石を投げてきた子に「お前は全共闘か!」とツッコんだ、もう20年前になります。

 

 

いらない!困った女からもらったバレンタインチョコ

 さて本題。人生において「モテ」とは遠く離れた世界で生きていた僕もバレンタインにチョコや贈り物を貰ったことはあります。どれも「愛情」でなく「義理」と「人情」でコーティングされた挨拶的な意味を持つ儀礼の贈り物」なのでそこから恋に発展する事もなく、それをもらってヘンなカン違いに走るほど僕も馬鹿ではありません。だけどあらためて振り返ると「もらっても困る。寧ろイヤだ」と思わされたチョコを貰ったことがあったので、今日のブログはそれらについて書いてみたく思います。

 

girl.sugoren.com

※結構いるのね、困るチョコを貰った男って。

 

①粉末チョコ

 会社で女性社員が男性社員全員に「義理チョコ」として板チョコを配ってくれた時のこと。その中で僕をひどく嫌っていた女性が僕に手渡してくれたのが銀紙の中でベッキベキのコナゴナに砕いてある板チョコでした。「コレってチョコじゃなくてココア?」って聞きたくなったんだけどそれをいったらめんどくさくなりそうなので僕は何も言わず受け取り、その粉末になったチョコをカップに入れて、ココアを作って飲みました。別に人の好き嫌いにケチをつけるつもりはないんだけど僕の何が気に入らなかったんだろう。ただそういうパフォーマンスを見せるってことは相当僕がキライだったんだろうな。

 

 

②チョコとそれを買った領収書

 コレは何かっていうと話は学生の頃にさかのぼります。話友達の女子から「AMちゃんにチョコあげるよ」と、チョコを手渡されたのです。その子は当時つきあっていた男はいないとのことでしたけどいかにも店頭で売っていたものを、買って手渡しました!という感じの、まったく気合いの入ってない義理チョコに勘違いする要素なんぞありません。僕も「お、ありがと」と普通に受け取ってめでたしめでたしって思っていたけれど、その子はチョコといっしょに「コレも」っていってチョコの領収書を僕に手渡したのでした。

 

 皆さんだったらコレを貰ってどうします?僕はとりあえず、その領収書に書かれていた金額を1000円で払いました。900円前後だったのでお釣りはもらってなかったと記憶しています。その後。その女子からもらったチョコの話を友人たちとしていたら「領収書?そんなの俺たちもらってねぇぞ」という、意外な反応。チョコと領収書を貰ったのは僕だけだったのです。その女子の行動は今でいうところのツンデレだったのか。それとも僕に向けての単なる冗談だったのか。今更どうだっていいけどさ。

 

blog.sapico.net

※こちらは旦那さんにバレンタインデーの贈り物のネタが尽きた!とお悩みのブログ。だったらチョコと一緒に領収書ってのはいかがですか?

 

 

※今さら「バレンタインデー」にときめく年でもないんだけど、10代でそのときめきを味わえなかったのは寂しくもある。 

 

今週のお題「わたしとバレンタインデー」

手作りのチョコでバレンタインデー!簡単で安く、健康的なレシピを紹介!

こんにちは。

 

 先週から今週にかけての三連休。みなさんはゆっくりできましたか?僕は妻と娘とで立川周辺に買い物や食事に出かけたりなどしていました。駅前周辺やデパートのお菓子売り場では、2/14のバレンタインデーに向けて道行く人に爽やかな笑顔を振りまきながら「チョコを売ったるぜ!稼ぎ時じゃー!」という気合いに満ちた店員さんたちの張り切りぶりや、そこに集まる大勢の人を見た捻くれ者の自分は「広告に先導されて主体や思考を放り投げ、狂ったように踊り続ける大量消費主義の権化どもめ!」と、わけのわからぬ上から目線から発する芝居じみた罵声で市井の人たちを揶揄したくなるのを堪えながら、実際に怒鳴ったりしていた20年前の自分と比べて「僕も大人になっちゃったんだなぁ」としみじみしています。

 

 

 

手作りチョコは「おいしい」だけでいいのか?

 さて本題。

 

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先日は2月のイベント「バレンタインデー」に絡んでこんな記事を書いてみました。

 

 

arrow1953.hatenablog.com

 

 

arrow1953.hatenablog.com

 

 

  バレンタインをとことんディスった記事を書きまくっていますけど、でもまぁブログネタにできる時節のイベントなのでどうせだったら自分でもチョコを作ってみよう!と思い、本日はチョコの手作りを実践。そこで「実際に僕たち男が貰って嬉しいチョコはどんなものなのか?」を以下サイトなどを見ながら、深く考えてみました。

www.cotta.jp

 

www.choco-recipe.jp

 

www.lotte.co.jp

 


 これらのサイトで紹介されている「生チョコ」「ガトーショコラ」「トリュフ」等のレシピはどれも手間をかけているだけあり、美味しそうではあります。だけどどのメニューにも明らかに欠けている視点がある。それはなにかというと「健康」。これらチョコは食べて旨いだけではなく食べた人の健康維持、増進にも役立つメニューだとはいえません。高齢化社会への不安が現実のものとなって日本の政治、経済、文化に重くのしかかろうとする現在において、健康で長生きの実践はもはや喫緊の課題。夢もロマンもない話ではありますけれども、今後、日本は毎日の食事が日常の健康に直結することを自覚しているか問われる時代となっていくでしょう。

 

高齢化社会を見据えた「バレンタイン手作りチョコ」 

   そこで今回の手作りチョコのコンセプトは「日本一健康的なバレンタインチョコを作る」。このコンセプトをもとにAM流のバレンタインチョコのレシピを考えてみました。今回バレンタインチョコ作りのベースとなったのはこの4商品!!

 

①ストレス低減の成分を含んだグリコの「GABA」
②健康に良いポリフェノールを含む明治の「チョコレート効果CACAO72%」
③生きた乳酸菌を身体に届けるロッテの「乳酸菌ショコラ」
④脂肪と糖分の吸収を抑えるグリコの「LIBERA

   

 これらを集めて溶かして作ればストレスを軽減できてアンチエイジングに役立つだけでなく、お腹を整えて、且つたくさんの量を食べても太りにくいチョコを作れるのでは?と考えたのです。ちなみにこのアイディアを同僚に話したら「誰も考えないことを考えつくという意味でAMちゃん天才だわ」とのことでした。ではさっそく手作りチョコレートづくり!

①材料のチョコを湯煎で溶かす

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    まずこの4商品を湯煎でとかす。分量はお好み。僕の場合はスタンダードな甘みの「GABA」「LIBERA」を中心に配合。ビターで苦味のあるCACAO72%を味のアクセント程度に。

 

②溶けたチョコを冷蔵庫に入れて固める 

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    こんなふうに冷蔵庫で固めてできあがり。

 

味の感想とレシピのまとめ

 味は4つのチョコの味がブレンドされたような感じでおいしかった。だけど、本当に健康にいいかについては実際のところ未知数ではあります。ただいえることはどれだけ健康的な成分を含んでいるチョコでも、大量に毎日食べ続ければ糖尿病や肥満の原因になるだろうということ。何事もやり過ぎはやっぱりよくありませんな。ついでにいうとこのチョコの制作費は思ったよりも高く、この二つの手作りチョコのため使っているお金はほぼ1000円。コストに見合うだけのものかどうかも正直微妙だったため「やらない後悔よりやって後悔する方がいいよね!」と世間はよくいうけれど、純粋にコレは金のムダだったと後悔しまくりだった企画になりましたとさ。ってところで本日のブログはこれにて!

 


 

  

今週のお題「わたしとバレンタインデー」

LOFT(ロフト)のバレンタイン広告に漂う「80年代」の異臭

こんにちは。

 本日のテーマは「バレンタイン」。っていっても学生の頃からまったくモテたこともなく、結婚して妻や娘もいる僕にとってはどうだっていいイベントなんですけど、ふとこの広告の話題をツイッターで目にしたので、これについて思うことを書きます。

 

 

 

LOFT(ロフト)のバレンタイン広告で大騒ぎ

今回、メディアで話題になったのはこの広告。

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表向き「仲の良さそうな女子」だけど

出典:Twitterのオピニオン

 

ロフトのバレンタイン広告「女の子って楽しい!」に反響が

 

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私たちの実際の関係はお互い敵!

出典:ねとらぼ

ロフトのバレンタイン広告「女の子って楽しい!」にTwitterユーザー困惑 「どういう意味?」「チョコを売る気はあるのか」 - ねとらぼ

 

 仲のいい5人の女子がキャッキャと映像ではしゃぎまくり「女の子って楽しい!!」みたいなメッセージを発した後、その背後を映してみたら「こんな陰湿な関係」。この広告に困惑した人たちはLOFTに対して不信感をツイッターなどで呟き、これを受けてLOFTも広告を削除してお詫びという騒ぎになりました。

 

以下のリンク先の記事より引用

headlines.yahoo.co.jp

 「女の子って楽しい」ではなく「女同士は陰湿」と言っているように見える。

(中略)

この広告に対し、Twitter上では困惑の声が相次いだ。

 動画が描いている女性像を「こういう女の子像って時代遅れでダサいしリアルじゃない」「『表では仲良さそうだけど裏ではギスギスしてるから女は陰湿』という考えが透けて見える」といったコメントのほか、「意味が分からない」「誰をターゲットにしたいのか分からない」という広告のコンセプト自体が理解できないといった意見が噴出。

 

 

LOFT(ロフト)のバレンタイン広告に漂う匂い

 ネットでも「女性軽視」「時代遅れ」など厳しい声で溢れておりましたが、僕がこの広告を最初に見て抱いた感情は「デジャブっぽい懐かしさ」と「こういうの昔もあったな。という食傷」でした。具体的に言うとおニャン子クラブの「セーラー服を脱がさないで」「おっと!CHIKAN」などの曲が街に溢れていた80年代の空気。淡いパステルカラーの服が若い世代を中心に流行り、「常識や頭のお堅い人たちに舌を出してみた!」みたいな「子どもじみたいたずら心によって、物事を茶化して相対化することがカッコいいとされる文化」が流通していた頃の記憶です。

 

  懐かしさとはいっても僕自身はその空気をひどく嫌っていたので、このLOFTのバレンタイン広告にはイラっとさせられたけどね。引用するのも嫌なのでやらないけど、僕と同年代と思われる男性がブログで「80年代文化に育った僕みたいなおじさんには広告って『アーティスティックな表現』が許される場であり、今回のLOFTの広告への批判に陳腐さを感じる。『女の子はみんな可愛くて仲良し!』みたいな女性に押し付けられているファンタジーを壊すことを目的に作った広告なんだろう。」っていう意見を述べているのを見て「やっぱ俺たち80年代‘sは徹底的な勘違いをしているんだろうな」と、改めて強い危機感を抱きました。

 

複雑な現代で顰蹙を買う80年代の気楽さ

 おそらくこの男性ブログの言うとおり、今回の広告を企画したのは80年代のおふざけ文化に強く染まっており、そこから価値観や感性がアップデートされていないおっさん、おばさんたちなのでしょう。そして、それらはある一定層にとっては「悪気ないいたずら」としておもしろいもというのも事実です。そんな環境に頭を抱えたくなるけど、逆説的なことを言わせて貰えば、それって現実のめんどうくささに気づかずいられる環境で生きていられるという意味では幸せともいえます。

 

 自分やその周囲にいる人たちの「主体」とそれらを繋いでいる「友情」「愛情」などの感情、その感情により成り立っている「親子」「恋人」「友人」などの関係性。どれも一括りにできないほど複雑で、僕らはつねにそれらと通じて「自分」や周囲にいる「他者」に対峙して、考え続けなきゃいけない時代を生きていると思っています。だけどそれってすごくしんどい。疲労感もハンパありません。職場や家族、友人たちとの会話、ツイッターなどによる多くの意見などを読みながら「あーでもないこーでもない」と頭を働かせている時に80年代の空気を引きずった「表裏のある女の友情」みたいな、お気楽でステレオタイプな価値観をいたずら心で表現したらどうなるか?センシティブな人だったらそれに対して「ざけんなボケ!」と怒鳴るでしょう。

 

 今回の騒ぎは女性蔑視っていうよりもそんな多様な価値観の中で試行錯誤を続けている人たちが、能天気でお気楽な80年代的思考を引きずりヘラヘラしている幸せな人達の無神経さにため息をつき、イラ立ちをぶつけたのだろうと僕は思います。それは同時にこの80年代お気楽文化の終わりでもあり、自分もまた複雑な現代を生きるためにできるだけ多くのモノや人、考え方に触れて積極的に価値観のアップデートをしなきゃダメだよね。という想いを抱いた今日この頃。

 

追記:今回の騒ぎって、この価値観に基づいているんだよまさに。

 

arrow1953.hatenablog.com

 

 

 

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中学の英語で習った文法だけでも英会話できるというのはマジだった!

こんにちは。

 今月は寒くなったり、熱くなったりなど気温差が激しくなっておりますが、皆さんはお変わりありませんか?今月は日本各地の大学、高校で入試が行われているため受験生の皆さんにとってはとても大事な時期。健康に気を付けて努力の成果を発揮できるようぜひとも頑張っていただきたいところです。

 

 

 

 

中学英語の文法だけで英会話はできる!

 

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 さて本題。このブログを読んでいる皆さんも小学校から高校、大学と長いこと学校に通ってきたことと思いますけど、そこで身に着けた知識が実社会で役に立ったっていう体験、多かったりしますか?学校の授業のありがたさを生徒に諭すため、よく言われているけれど「それホントなの?」と思わず眉をしかめたくなる説のひとつに「中学英語で基礎を身につけていれば、日常英会話はできる」っていうのがあります。

 

www.lifehacker.jp

 

 

 こういう上記リンクにあるような記事を読むと「ほんとかよ?」といいたくなる人もさぞ多くいることでしょう。結論からいわせてもらうけれども、コレはマジです。「ウソつけ!」って言いたくなった人は「中学生程度の英語の知識を持ち合わせていない、義務教育を真面目に受けてこなかった人。」という自覚をもって猛省してください。

 

 僕の英語のスキルは中3の時にとった英検3級レベル。とはいっても20年以上も昔の事なので、現在の英語レベルは更にその下であることは疑いありません。そんな自分が外国の人に声をかけられてビビったけど、実際に英語を使って意思疎通できたことで「中学英語の基礎知識を消化できれば英会話はどうにかなる」という俗説が本当だったことを実感できたエピソードをこのブログで語ろうと思います。

 

中学英語の知識だけで外人さんともフレンドリーになれる! 

 数年前の夜勤明けの日。中央線の始発で自宅に帰る最中、乗客の少ない電車の中でボリュームを大きめにして「マドンナ」の曲を聞いていました。結構ノリのいい曲だったので、気づいたらそれを声に出して歌っていたみたいなのです。実を言うと僕は声がめっちゃくちゃ高音。電話口で女性に間違われることも多いだけでなく、カラオケでもプリンセス・プリンセス奥居香松任谷由美レベルの音域で歌うことも可能。無意識にマドンナを謳い続ける僕の肩を叩く人が後ろにいたので振り向いてみたら、そこにいたのは外人さん。僕に話しかけてきた時、この人がセイン・カミュかウィッキーさんに見えました。外人さんは僕に「Are you singing madonna? Your Voice is very good!」といっていたので歌を褒めてくれているんだなということはわかりました。そこで照れ笑いや黙りこむのもつまらないので、僕は答えました。

 

「Yes.I am listening and singing madonna.」

訳:あぁ。マドンナの曲を聴きながら歌っているよ。

 

「I know that my voice is pretty.」

訳:私は自分の声がかわいいことを知っている

 

「Everyone say, my voice is very pretty,Like a Virgin!

訳:みんな言うんだ。「僕の声は乙女のように可愛らしいってね」 

 

※ライク・ア・ヴァージンはマドンナの世界的な人気を決定づけた曲 。わざわざ書かなくても知ってるか。

 
 それを聞いた外人さん爆笑。いやーこの冗談伝わって安心した。どうせ間違えていたって恥ずかしかったってだけなので全然平気。私、笑いのためだったら知人だろうが他人だろうが日本人だろうが、外人だろうが今後もガツガツいくぞコノヤロー。たけどもまぁ、中学英語だけでも外国の人と意思の疎通思ができるっていう中学の英語の先生のいっていたことは本当だったことを実感できたっていうのは、大きな収穫でした。皆さんもこんなふうにマドンナを歌えとはいいませんけれど、外国の人に声をかけられたら度胸を出して答えてみたらいかがでしょう。たぶん皆さんが自分で思っているよりイケると思うけどな。中学の英語って意外にバカにできないな。と思う今日、この頃。

 

※あ、ちなみに下記ブログはNHKラジオ「基礎英語1」で英語を勉強している、僕と同い年のおっさんによる英語学習日記。こういうのって偉いなぁ。と感心していたらよく読むと2018年の3月スタートで4月以降の更新が止まっていた。

 

ameblo.jp

 

せめて半年は続けろよな!

 

 

 


 

 ※英語が通じたよりもマドンナのギャグが通じたほうが嬉しかった。

 

「HUGっと!プリキュア」こそ平成の最高傑作アニメだと思う理由

こんにちは。

 娘と会話の手段を探るつもりで見始め、気づいたら家族で僕が最もハマっていた「プリキュア」。今回の「HUGっと!プリキュア」はほぼ欠かさず見続けていたため、先週のラストバトルから数年後を描いた後日譚になる本日のエピローグの余韻に浸ると同時に淋しさを抱いております。

 

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©2018 映画HUGっと!プリキュア製作委員会
©ABC-A・東映アニメーション

 

 原点回帰 / 発展を両立させた「はぐプリ」

 昨年はプリキュアシリーズ放映15周年ということもあり、大々的な初代プリキュアのプロモーションなども含めて注目を集めていた「はぐプリ」。映画でも全シリーズの総勢50人を超えるプリキュア全員が集っただけでなく、作品のメインを務めたのは「はぐプリ」のメンバーと「ふたりはプリキュア」主役のキュアブラック / キュアホワイトの二人でした。最初は二人で一つだったプリキュアも今やスーパー戦隊シリーズみたく5人前後のチーム体制に進化。はぐプリメンバーでも以下の通りチーム体制です。

 

元気のプリキュア
キュアエール

知恵のプリキュア
「キュアアンジュ」

力のプリキュア
「キュアエトワール」

愛のプリキュア
「キュアマシェリ / キュアアムール」

 

 それぞれ「元気」「知恵」「力」の象徴ですが「愛」のプリキュアであるキュアマシェリとキュアアムールだけは二人で一つのプリキュア構成になっており、二人揃っていないと変身できません。これは「愛」が自分だけでなく、相手がいて成り立つものであるからであると同時に、同じく二人がいないと変身ができなかった初代プリキュアへのオマージュなのでしょう。現在のプリキュアのフォーマットである「チーム体制」と原点であるふたりでひとつの「タッグ体制」。この両体制を同居させ、かつチームとしてのプリキュアやメンバー一人一人の物語だけではなく、「キュアマシェリ」と「キュアアムール」二人の友情や互いの衝突、葛藤、和解など初代みたいな「二人で一つのプリキュア」としての物語を描くことで現体制の踏襲のみならずタッグ体制への原点回帰を成立させた構成にはただ唸らざるをえません。さて、そんなはぐプリの物語の本質をそろそろ語っていきましょうか。

 

「はぐプリ」に集まる賛否両論

 今回の「HUGっと!プリキュア」=「はぐプリ」の物語には「老若男女問わずなりたい自分を大事にしよう!そしてそれを互いに尊重しあおう」というテーマが込められており、年齢や性別という壁を超越するシリーズ初のオフィシャルな男の子プリキュア登場など多くの話題を提供して世間を驚かせました。それらの挑戦、冒険は概ね好意的に受け入れられていると認識しています。

www.asahi.com

 

arrow1953.hatenablog.com

  

 これらについては前回の記事で書いているので、今更いうこともありません。今回のブログで取り上げたいのは先週のラストバトル。物語最大の敵「プレジデント・クライ」とプリキュアたちとの戦いから考える「ヒーローとは何か?」ということについてです。

 

ヒーロー=人々のため戦いを強いられる生贄

 このプレジデント・クライはプリキュアのいる現在と離れた未来からやってきており「際限のない欲望や身勝手さを改めない人間の未来に待つものは絶望のみ。だから人間が『幸せ』を味わえている現在で時間を止め、人間から未来を奪うこと」を企んでいました。もちろんプリキュアたちは「未来を奪う権利は誰にもない!私たちは未来を信じている」と反論しますがメンバーの中でも特に強く異議を唱えるキュアエール(野乃はな)にクライは「君が民衆のため戦えば戦うほど傷つくことになる。未来を信じるという理想も人々の嘲笑の的になる」とその戦いの不毛さを語り、プリキュアは人間の欲望や身勝手さの犠牲者とでもいわんばかりの主張を説きます。

 

 それでもキュアエールは「生きることは辛くて思いどおりにならないこともある。だけど自分も含めみんなそうだから、その思いを抱きしめて応援したい。それが私のなりたい『野乃はな』なんだ!」と強い決意をクライに示します。これは最初のエピソードで怪物オシマイダーに狙われている赤ちゃん「はぐたん」を身を挺して守ろうとした時「逃げたらカッコ悪い!そんなの私がなりたい野乃はなじゃない!」と叫んだ少女がなりたい自分を初めて言語化できた瞬間でもありました。

 

 

プリキュアのシリーズは原則的に「異世界から妖精とその妖精を追って怪物が人間のいる世界にやってくる。その騒ぎに巻き込まれた女の子が怪物の手で壊される街、怪物に襲われる妖精や友人、または奪われようとする自分の大切なもの(友だちとの思い出がつまったレコードやケーキなど)のピンチを見過ごせず、妖精から力をもらってプリキュアに変身!っていう物語構成になっています。このHUGっと!プリキュアでも同じく未来からやってきた赤ちゃん「はぐたん」を狙って人間世界で暴れる怪物「オシマイダー」に立ち向かうためプリキュアの変身能力を得るのですがその時、はなは怪物に向かってこう叫びます。 「ここで逃げたらカッコ悪い!そんなの、私がなりたい野乃はなじゃない!」 つまり、はなは怪物から街や妖精(今回については赤ちゃん)を守るだけではなく、こうありたいと考える自分。言い換えると自分自身の生き方、在り方という「自我」そのものを守ろうと立ち上がるのです。ここまで明確に自我を守るため戦うプリキュアってこの作品が最初じゃないか?と思った僕は初代プリキュアから、HUGっと!プリキュアまでの第1話(とくに最初の変身)を全部確認したのですが、「自分の在り方」を守るため戦うことをこんなに明確に言及したプリキュアは、この野乃はなが変身する「キュアエール」だけに思えます。

プリキュアの歴代変身シーンに見た「キュアエール」というキャラの意義 - サブカル 語る。

 

 クライによって止められた時間はキュアエールの想いに呼応して動き出し、はなの家族や人々はプリキュアの戦いを応援。そしてプリキュアへの応援はさらに増幅して世界を包み、人々みんなをプリキュアに変身させます。男も女も。子どもも大人も。世界すべての人がプリキュアになり、全員の手で放った決め技を受けてクライは敗北。この戦いの結末をたぶん誰も想像できなかったと僕は思います。もっと細かく言うと人々の力を合わせて戦うのは想像できたかもしれないけど、世界のみんながプリキュアになるのはたぶん誰も思いつかなかったと思います。

 

英雄をめぐる二つの物語 

 キュアエールとクライ。この二人のセリフのやり取りを見て、僕はふと90年代に発表された二つの物語を思い出しました。それはプレステのRPGワイルドアームズ 2nd IGNITION」と平成初期のウルトラマンウルトラマンティガ」です。

 

ワイルドアームズセカンドイグニッション

ワイルドアームズ セカンドイグニッション - Wikipedia

 

 ワイルドアームズ2のテーマは「英雄」。物語の主人公「アシュレー」は人々を救う力を持つ英雄に憧れており、冒険の中でその力を手にします。人知を超える力で世界のために戦うアシュレーを人々は英雄と称えますが、恋人のマリナはそんなアシュレーと人々を見て「英雄って誰かのため戦うことを強いられる生贄みたい」と、クライと全く同じ疑問をアシュレーに呟きます。その呟きに困惑するアシュレーですが戦い続け、多くの出会いと別れを経てその呟きへの返答を見つけます。

  

 世界を破滅へと導く物語最大の敵を前に、アシュレーは「僕らの世界は『たった一人の英雄』の力で支えられるほど小さくない。多くの生命と想いが溢れる世界だからそれを支えるのはこの世界全ての生命の力だ。英雄のいない世界ではなく、英雄なんていらないんだ!そんなものに守られる世界に価値などない!」と叫び、叫びに呼応する人々の「共に世界を守る」という意思と力がアシュレーの元に集まり、それを束ねてアシュレーは最後の戦いに挑みます。

 

 

 そんでもって次。平成で最初のウルトラシリーズウルトラマンティガ

 

ウルトラマンティガ

ウルトラマンティガ - Wikipedia

 

 この世界ではウルトラマン=ティガとは人々を導き救う「光」であり、その力を受けた「ダイゴ」という青年は怪獣から人々を守るためティガになります。そのティガを待ち受けていたのは3000万年前にいた古代文明を壊滅させた「闇」の象徴ともいうべき怪獣「ガタノゾーア」でした。ティガは果敢に挑むも、ガタノゾーアの力に敗れ石化。その圧倒的な力を前に人々も絶望に陥ります。その時、ティガの力を信じる子どもたちが世界各地で一斉に立ち上がり「ティガ!」と叫ぶと同時に光の粒子に。粒子はティガの元に集まります。人類を導く光ではなく未来を信じる人間たちの意思そのものが「光」であり、その化身こそがウルトラマンだと悟ったティガは復活。光の粒子になった子どもたちもティガの意識と融合しており、互いに連動してパンチとキック、光線技を放つことで怪獣ガタノゾーアを倒します。いってみれば子どもたちとダイゴがひとつになりみんながウルトラマンティガという超人になるのです。

 

90年代ヒーローの課題

 みんなの「元気」を集めて巨大な力に変える、ドラゴンボールの技「元気玉」もそうだけど、この90年代前後は主人公単独の強さよりも「自分だけじゃなく、みんなの力を合わせて強くなるヒーロー」っていうのがやたらクローズアップされていた印象があります。考えてみると、同時期のJ-POPも「ひとりじゃない!」というフレーズが量産されていましたね、そういや。

 

 それはその通りで異論はないんだけど、その「ひとりじゃない物語」を見ていて僕はある違和感も感じていました。これらのみんなの意思(総意)を集めて戦うような物語は主人公との親和性っていうか同調性があり、それは本当に心地いい。だけどそこには「もしその総意が道を誤ったら?」という危なさも潜んでいるようにも思えたのです。ワイルドアームズもティガもフィクションなのでそれはありえない前提だけど、現実社会においてそれは案外重要な問題だったりします。人々の総意によって生み出された英雄がエゴに走って独裁政治体制を作ったり、みんなの国家という総意が暴走した結果が戦争だった。など、僕らの現実世界は時に「みんなの総意」によって狂うことも少なくないのは世界史が証明しているじゃありませんか。

 

 90年代のヒーローをめぐる物語はヒーローと敵だけではなく、ヒーローにより守られる立場の「人々」も物語の当事者として絡めることで、ストーリーに深みと広がりを持たせることに成功してはいます。だけども「ヒーロー」と「それを支える『みんなの力』」、そして「その力を構成する一人ひとりの個性」をどう扱うべきか?という点において先述した課題を残してもいたのです。

 

プリキュア(ヒーロー)になるということ。

 これらの「みんなの総意」という物語の美しさとその背後にある「総意の危なさ」。これをどう両立させるべきなのか?というヒーローたちの背負った課題についてひとつの回答を今回の「HUGっと!プリキュア」は提示してくれたように思います。

 

 世界を守るため戦っているプリキュアの姿を目にした人々が「頑張れ」という声援を送るだけでなく、自らもプリキュア(ヒーロー)になり戦う。これはみんなの力を集めて戦うワイルドアームズのアシュレーや元気玉を放つドラゴンボールの悟空、子どもたちの意識が集まりみんなでウルトラマンになったティガとは明らかに異なります。それぞれの個性が反映されたスーツをまとい、前線で戦うキュアエールたちの元に駆け付けて最後の決め技を共に放つ人々の姿には「自分の未来を人任せにしない」「各々の『個性』を捨てずに力を合わせて困難に挑むんだ」という、行動に責任を持った主体としての姿勢が従来のアニメ作品よりも強く描かれています。

 

 このはぐプリの世界観におけるプリキュアとは世界を救う少女でなくキュアエールのセリフどおり「誰もがプリキュア」。いってみれば「プリキュアとは世界の危機を救うため戦う少女ではなく、こうありたいと思う自分や社会の在り方を実現させるため戦う自立した人物。自分や周囲の『個性』をお互いに認め合い、社会の中で助け合っていこう!という確固たる自我をもった人物」ということなのだろうと思います。

 

女の子も男の子と同じように戦いたいとの発想からスタートしたプリキュアは15年を経て、女の子が凛々しく自分で立つだけではなく「自分と他人の生き方」を尊重して、男女の違いや敵味方を越えて共に未来を歩もう!と訴える強さを持つキュアエール誕生に繋がったといえるのではないか。物語もそろそろ佳境に入るころですが、この「HUGっと!プリキュア」以降の作品がこの先どんな進化を遂げるかに興味を持っている反面、キュアエールたちにも強く愛着を抱く僕はもう少し彼女たちの活躍を見ていたいという二律背反に悩む今日、この頃です。いずれにしても、女の子対象のバトルものアニメから性別、種族を越える「人生そのものの応援歌」に成長を遂げたという点において、このHUGっと!プリキュアは高く評価されるべき。

プリキュアの歴代変身シーンに見た「キュアエール」というキャラの意義 - サブカル 語る。

  

 これは昨年に書いた記事ですが、プリキュアは「女の子のバトルモノ」という枠をとっくに越えただけではなく、みんなの総意とそれを形作る「個性」について答えを示したという意味で僕はこの「はぐプリ」を平成を締めくくるに相応しい最高傑作アニメである。と強く訴えたい。異論も反論もあるだろうけど僕は今後もそう訴え続けます。「誰もがプリキュアだ!」と叫んだキュアエールみたくワイルドアームズ2にも「誰かが英雄になるのなら、誰もが英雄になれる」というセリフがありますが、これは「万能な力を持つ英雄の出現を願ったり縋ったりして世界を変えて貰おうという弱さを捨てろ。世界を変えるために必要なのはオールマイティーな英雄じゃなく力は弱くても責任と勇気をもって信念をつらぬこうとする小さな英雄たちである。」という意味だと僕は思うのです。

 

 


 

 

 

 

HUGっと!プリキュア後の作品に男の子プリキュアはありうるかを考える

こんにちは。

 年明けになり、娘と一緒に観ているうちに家族で僕が最もハマった「HUGっと!プリキュア」もそろそろエピローグ。来月からは次回作「スタートゥインクルプリキュア」放映となります。

www.toei-anim.co.jp

 

 

 

 

HUGっと!プリキュア卒業。そして新たなプリキュア 

 僕の中では来年に東京オリンピックを控えているので、球技や武道、陸上競技などの「スポーツ」をモチーフにしたプリキュアになると予想していたんだけど外れた。そうはいってもこの数日、オリンピック誘致をめぐる賄賂の疑惑でフランスがマジになってJOCの捜査を進めているという報道が世間を賑わせているため、東京オリンピックを思わせるプリキュアなんて作っていたらえらいことになっていたかもしれませんね。もし来年スポーツをモチーフにするなら金に汚いイメージがつきそうなオリンピックではなく、最近土俵外のトラブルで人気がひどく低迷する「相撲」をモチーフに「どす恋っ!プリキュア」なんて作ったら多くのファンの度肝を抜くだけでなく相撲のイメージアップにもつながるんではないかと、そんなくだらねーことを考える今日、この頃。

 

    さて本題。放映中のHUGっと!プリキュアでは以前このブログで指摘させてもらったとおり「人間の主体」を物語のテーマに置いていました。

 

arrow1953.hatenablog.com

 

プリキュアになるとはどういうことか

 男だろうが女だろうが、子どもだろうが大人だろうが人間は誰にでも「なりたい自分」というものがある。それは決して他人や外部が否定できないものであり、もしも、あなたの「なりたい自分」をあざ笑ったり否定するものがあるなら勇気を振り絞って立ち向かえ!というメッセージが込められていたように思えます。そういう括りを越えた物語の先にあったものはプリキュアたちの友人であるフィギュアスケーター「若宮アンリ」くんの変身したシリーズ初のオフィシャルな男の子プリキュア「キュアアンフィニ」登場でした(男性プリキュアで最初なのはキュアゴリラ!とかいうふざけた意見は相手にするな)。

www.huffingtonpost.jp

 

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 キュアアンフィニになる若宮アンリ

HUGっと!プリキュア公式YOUTUBEより

 

 この若宮アンリという少年は将来を嘱望されたフィギュアスケーター。技術だけではなく海外育ちのハーフで中性的な美貌を持っており、女性からの圧倒的な人気を集めている、非の打ち所がないキャラです。ところが成長期になり男性に近づいている自分の身体への戸惑いや、過去のケガのために納得できる演技ができなくなっていることから引退を決意。その最後の大会で不運にも交通事故に巻き込まれてフィギュアスケートそのものが奪われることになり、絶望。そこに付け込んだプリキュアの敵に唆されてダークサイドに陥りそうになるものの、プリキュアたちの声援によりスケートを続けてきた自分自身の過去を肯定。辛い時も迷う時も未来への歩みを止めないプリキュアみたいな人間でありたい。それこそが本当になりたい自分だという想いに気づき、フィギュアスケートができなくても新たな未来を探そうという決意を固めた時、プリキュアの力を一時的に得てアンリは変身。人間の可能性には限界なんてない!という想いから自ら「キュアアンフィニ(フランス語で無限の意味)」を名乗り、磨き続けたスケートの技術を駆使してレギュラーのプリキュアたちと戦います。

 戦いの後、プリキュアの力が解けたアンリは歩けるようになるためのリハビリ生活になりますが、未来を諦めていないアンリに悲壮感はなく寧ろそのアクシデントを乗り越えるという逞しささえ感じられます。フィギュアとの決別はアンリにとってひとつの「青春」の区切りであり、それは確かに悲しいことではあります。だけどフィギュアのテクニックを活かしたプリキュアとなり怪物から人々を救えたのは、競技に青春を捧げ続けてきたアンリにとっては最高の花道であったともいえます。

 

プリキュアになる必然性を持っていたアンリ

 若宮アンリというキャラについてざっくり説明させてもらいましたけれど、ここからどうして彼だけが歴代プリキュアの中でオフィシャルな男の子プリキュアになれたのか考えていきたく思います。ここで、以前書いたこの記事をどうぞ。

 

日本で「魔法少女」をテーマとするアニメやマンガ作品は横山光輝の 「魔法使いサリー」がこの分野の最初であり、この系統は後に「魔女っ子メグちゃん」や「魔女っ子チックル」「魔法少女ララベル」等の系譜で受け継がれていきます。彼女たちは自らの万能な魔法を使って、周囲のトラブルを解決したりするけど、80年代以降にこの万能な魔法を使う女の子は少なくなり、代わりに台頭してきたのは 「魔法のプリンセスミンキーモモ」、上述の「クリィミーマミ」「ペルシャ」「マジカルエミ」などの変身アイテムを使うことで自分が大人の専門職になり、自分自身の職業スキルでトラブル解決にあたるタイプの主人公たちでした。

(中略)

これらのアニメが放映されていた「80年代」の日本はバブルによる好景気。もちろん格差はあっただろうけど男女ともに相応のお金を手にできて、自由に使える環境が整っていた時代でもありました。働くことにより女性もそれなりのお金を手にして自由に生きる=大人になって自立をする。つまりこの時代の女の子にとって万能の力を得るということは自立した大人になること。だからこそいきなり大人になれることが、物語の主人公たちにとって最高の魔法だったのだろうと思うのです。

(中略)

プリキュアセーラームーンたちは地球を狙う悪と戦うヒロインでありながら、変身スタイルはクリィミーマミ達と同じく着せ替えです。ここにプリキュアセーラームーンらが80年代魔法少女の正当な後継者である根拠を見い出すことができます。歴代プリキュアの変身アイテムには女性の化粧道具であるコンパクトやパフュームを模したものが多く、それらを使って着替えや化粧を施す。セーラームーンたちは変身の際に「変身」じゃなく明確に「メイクアップ(化粧)!」と叫んで変身する。これは女の子にとって「闘いを挑む(問題の解決にあたる)」ための手段は「自分にメイクをして大人になること」だということを暗喩していると解釈もできます。ポイントは姿格好の変身によって少女は大人としての自分を獲得して、物語で困難やトラブルに挑むという点にあります。

クリィミーマミたち「魔法少女」はプリキュアの原点 - サブカル 語る。

 つまりプリキュアとは80年代の変身魔法少女の系譜に連なるキャラであり、このように定義できると考えます。

 

プリキュア=思春期の少女が変身する戦うヒロイン=成熟した大人の象徴。

  

 ここ、重要だから読み飛ばさないで下さい。もちろんアンリは男の子なので、先ほど述べたプリキュアの定義に該当しません。ここでもうひとつ。男の子にとっての変身ヒーローとは何か?についても定義しておきます。

 

では男の子はどうでしょう?男の子の場合の変身は「人知を超えた者との融合による超人への変化」です。ウルトラマンと融合したハヤタや仮面ライダーに改造された本郷猛のように。男の子にとって変身は「超自然的な力と自らを融合させる事で超人となる」ことを意味します。

(中略)

本郷が改造手術で「バッタ」の超自然的な力を得て誕生した仮面ライダー。ハヤタが「遠い星の宇宙人」との融合を果たして超人となったのがウルトラマン。このヒーローの誕生の経緯は異なるけれど、両者は人知を越えた力を持つ「超人」という意味では全く同じです。

クリィミーマミたち「魔法少女」はプリキュアの原点 - サブカル 語る。

  作品によりもちろん例外もあるけど、原理原則として男の子にとってのヒーローとはこのように定義できます。

 

男の子にとってのヒーロー=青年が超自然的な力と融合を果たした超人。

 

 アンリはプリキュアの定義にも男の子にとっての変身ヒーローの定義にも該当していないけれどアンリの変身したキュアアンフィニは、丁度この二つを足して2で割った条件を備えたキャラであることがわかると思います。ケガにより夢を奪われながらも未来を信じて歩みを止めないことを決意して大人に近づき、ヒーローとなった(成熟を果たした)アンリ。

 つまりキュアアンフィニとは思春期のアンリが成熟をしたことで変身できたプリキュアであり、若宮アンリとはキュアアンフィニとなり、夢を失っても別の希望を見つけ未来を生きる「大人としての強さ」を示した少年である。といえます。男の子というだけでなく従来のプリキュアが成熟した大人の象徴なのと逆に少年から大人への一歩を踏み出せたからこそ変身できたプリキュアという意味においてもキュアアンフィニはイレギュラーだけど、どちらにせよプリキュアについて考えるには「成熟」「大人」というキーワードが不可欠であることがお分かりいただけるでしょう。

 

梶原一騎を超越した若宮アンリ

 ここまでキュアアンフィニについて長々と書いてきたけど、僕自身アンリがプリキュアになるとは全く考えていませんでした。フィギュアの夢を絶たれた後は敵の組織に唆されて怪物となり、プリキュアに救われる。という展開を想像していたのです。

  怪我によるフィギュア引退から未来に絶望する→怪物化→プリキュアに救われる。という発想はプリキュアの物語の文法っていうより、梶原一騎の描く「スポコン漫画」的文法によるものです。この記事にここまでお付き合いいただいた人はなんで梶原一騎?って思うことでしょう。だけど「スポーツ少年の成熟」というテーマを語るためには、この人物について触れておかなくてはなりません。

意外に多い?大成できない主人公

 「スポーツマンガで大成できない主人公が多い」。コレはどういうことかっていうと梶原一騎原作のスポーツ漫画の主人公って、物語の目標を果たして幸せになるケースが案外少ないんです。巨人の星星飛雄馬は魔球を投げ続けたために左肩を壊して巨人引退。あしたのジョー矢吹丈はチャンピオンのホセに敗れた後で、燃え尽きた。スポーツをテーマとする作品は多くありますが、この梶原一騎的文法は、他の作品にも大きな影響を与えていますのでもし興味あったら、身近にあるスポ根漫画を手に取ってみて下さい。全国大会で優勝して大人になりプロでも活躍!っていう国民的名作スポーツ漫画って僕の知る限り「キャプテン翼」や「ドカベン」ぐらいではないかなと思います。

 目的を果たせなかった主人公、又は大会優勝などの目的と引き換えに何かを犠牲にする主人公が多い理由はおそらく「目的をさせず、主人公の成熟を止めるため」でしょう。つまり主人公らの成長を止めて、永遠の少年でいさせるためです。

悲哀の主人公がウケる理由

 これら名作とされるスポーツ根性漫画は俗にスポーツを通じて主人公が成長していくプロセスを描くビルドゥングスロマンだとされています。

 

※「ビルドゥングスロマンってなに?」という人のためにどうぞ  

教養小説 - Wikipedia

以下はリンク記事を引用(くわしく知りたかったらリンク記事を読め)

 主人公が様々な体験を通して内面的に成長していく過程を描く小説のこと。

 

 これらの物語はキャラたちの成長を追わせることで読者も成長を追体験できることに大きな特徴があります。だけど、現実は物語みたいに甘くありません。夢破れて傷つき、挫折を味わい、それを背負い生きていく。だからこそスポコンの主人公も無傷で目標を達成するキャラより、夢破れて悲哀を背負うキャラに共感が集まるのだろう。と思う。分野は異なるけれど、日本人に道半ばな生涯だった織田信長坂本竜馬新選組ファンが多いのもおそらく同じ理由によるものです。パーフェクトなキャラより挫折キャラの方が多くの共感を得られるし、ドラマもおもしろくなる。若宮アンリは上述した通り、視聴者の物語への共感のため「梶原一騎的な文法」に則り、フィギュアという夢で大成できず挫折する宿命を負ったキャラでした。従ってアンリが意思の力でプリキュアになり挫折を克服するプロセスにはジェンダーだけに留まらず、梶原一騎的な文法の超越という側面もあるのです。

 

男の子のレギュラーはキビしい

 ってな具合にここまで長々と書いてきましたがいいたいことをまとめると「『なりたい自分になろう!それらを阻む力に負けるな!』をメインテーマとする作品において、梶原一騎の悲劇を背負わされながら『ケガを乗り越え、なりたい自分になろう』という境地に達した若宮アンリこそ初の男の子プリキュアにふさわしいキャラだった。また、ケガや性差という大きな障害を乗り越えたキュアアンフィニこそ作品にとってテーマの最大の体現者であり、この『なりたい自分になろう!』というメッセージを強く描くため、公式の男の子プリキュア出現には大きな必然性や意味があったのだ。となります。

 ただ、男の子プリキュアが今後の作品でレギュラーになれるかといったら正直言って、かなりキビしい。男女双方によるヒーローの「変身」についての考え方が上述のように明確に異なっており、「女の子だって暴れたい!」という当初のコンセプトに基づいた全員女の子のチーム体制が主流である現在のプリキュアに、男の子を混ぜる図式を違和感なく受容できる人は大人こども含めてまだ少数では?と思います。そもそもの主体が女の子であることを謳っている物語なのに、そこに男の子をレギュラーメンバーで加えたら物語の基本的コンセプトもブレますからね。

 

男の子のレギュラー化は以下がベスト

 もしも今後も男の子のプリキュアが物語に出るとしたら、当面は今回みたくゲストという形になるしょう。とはいえ、今回のキュアアンフィニが多くのファンやメディアで好意的に受け取られていることを考えるとおそらく東映も男の子プリキュアのレギュラー化を模索していると思います。男の子レギュラーを実際に実現させるとしたら嘗てのタイムボカンシリーズのように男女対等の二人一組タッグ体制にして、男の子のコスチュームをボーイッシュ傾向の強いものにデザイン。二人の能力もダブルライダーの「技の1号 / 力の2号」みたいな差別化を図り、異なる特性でお互いを対等に補って戦えるプリキュアというのが現状ではベストではないでしょうか。まぁ初代プリキュアっぽくなるけど。

 もし東映で男の子プリキュアを本気で考えているというプリキュア関係者の方がこのブログをお読みでしたら、特撮プロデューサー試験で選考漏れになったことを水に流したうえでアドバイザーになり協力させていただくのもやぶさかではありませんので、ぜひご連絡下さいませ(笑)

 

 


 

 

 

※キュアアンフィニがこの物語のテーマそのものの体現だけでなく、その存在が最後の決戦における伏線にもなっていたのは本当に驚いた。コレほんとすげープリキュアだ。テーマをサブカルでなくプリキュアに絞ったブログに変えようかとマジで悩む。