サブカル 語る。

サブカルチャーなどについての雑談

ホリエモン新党も宇崎ちゃんのポスターも根本的に全く同類である

こんにちは。

 

 先日のブログで書いた通り、今月からもう少しまじめにブログ書こうと思います。そんでもって今週は一般の都民として、間近に迫っている7/5の東京都知事選に絡めた話題あたりでも書いてみるかねってっていうことでコレ。ホリエモン新党のお騒がせ選挙ポスター。

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ホリエモン新党 - Wikipedia

 

 

衆目集めに使われ続ける女性の身体

 都知事選の7/5には北区でも都議会議員補選があるそうで、これはその候補者の選挙ポスターとなります。さすがにこのポスターについては地域の住民や多くの識者からも顰蹙を買っているとのことですが、ツイッターなどで読んだ論旨としては「選挙と民主主義の愚弄」「セクハラ」というものが多く寄せられています。

 

 それらもごもっともだけど、僕としてはこのポスターの根本にあるのは何度もこのブログで書いているとおり「女性の肉体を安易な衆目集めのツール」とみなしているこの社会の構造そのものだと考えます。

 

 

それはオタクが「女性の肉体が好き」であり、現実社会においても女性の水着やセミヌードのポスター、グラビアが乱立しまくっていることから『オタクっていうか世間の男は女性の肉体が大好きであり、昔も今も女性の肉体の写真やデフォルメした女性の記号を衆目集めやモノを売るために利用してきた』という身も蓋もない現実」です。

女体だーい好き!こそオタクとこの社会の本音である! - サブカル 語る。

 

 この女性の肉体を記号的に扱い、人の関心を寄せる。というのは古今東西の広告で多く使われてきたメソッドです。古くはビールの水着ポスターや雑誌のセミヌード等、最近はさらにその傾向はアニメや漫画のサブカルチャーにも及び、胸やお尻、足などを強調した「萌え系」イラストを使った地域振興ポスターも多くみられるようになりました。

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その件については何が問題かを以下の通り指摘させてもらっています。

 

こういうポスターを「表現の自由」というフレーズで擁護するオタク共や評論家さんたちにいいたいのは「皆さん、表現の自由がどうこううるさいけれどもこのポスターとかアニメの巨乳キャラたちを通じて表現したいものは何ですかい」という疑問です。

女体だーい好き!こそオタクとこの社会の本音である! - サブカル 語る。

 

 

ホリエモン新党で訴えるべき政策<女性の身体

 この疑問についてはバカなオタクから「表現の自由」云々。というはてぶコメントをもらっています。そのとおり。ポスターに萌えイラストを使うのは表現の自由ですよ。      

 だけど、僕の聞いているのはその自由で「何を伝えたいのか」ということなんですよ。そもそも広告っていうのは「モノを売りこむ」ためのものです。それは町おこしでも選挙でもその原則は変わりません。先述したホリエモン新党の候補ポスターも、その後で引用した地域振興のアニメ絵ポスターも。これらを見ると8割近くは女性の肉体がメインであり、そこから素直に意図を受け取るならポスターで訴えたいのは候補者や各自治体の魅力ではなく「女性の肉体のエロさ」を訴えたい!となります。政策を広く訴える選挙ポスターでこういった文脈に沿ったメソッドを使っているのをみるとその異様さが伝わってこない?

 

訴えるべき言葉<女性の身体

 くどい?ごめんね(笑)だけど日頃から偉そうに表現の自由について能書き垂れているんだったら教えてくれよオタク共。お前らが表現の自由と口にして守りたがっているエロの文法で伝えたい町おこしや選挙候補者の魅力ってなんなんだ?

 

 どーせ答えらえないだろうけどな、お前らバカだからさ。

 


 

 

 それからその疑問に答えるんだったら実際の写真に比べてアニメ・漫画のイラストはエロくない!とかヌードはダメで水着はエロくない!!などといったワケの分からない「表現の程度問題」に話をすり替えて逃げるんじゃねーぞ。そういうのってすっげー見苦しいからな。あと、この話題で誤読する奴も多いので言っておくが、これはオタクだけでなくて「俺を含めた男性サイド全体の社会構造の問題」だ。

 

※結局当選もできず、この候補の水着も単に「性的消費」されただけだったとい結果。
これって政治家として惨めすぎる結果になったなと思う。

来月からもう少しブログをまともに書き続けていこうと思う

こんにちは。

 

 ネットワーク屋として日々の業務に追われ続けて、ブログの更新も一月に一回程度。そんな状況が長く続いていましたけど、その業務も本日ついに収束。

 

やったー!

 

っていうことで来月からもう少しブログまともに書こうと思っております。別にネタがないからさぼっていたというワケでもありませんので、どうぞ今後もご愛顧のほどよろしくお願いしますっていうことで今日はこの辺で。

 

緊急事態宣言を受け、ブログでも外出自粛を続けて最近思うことについて

こんにちは。

 

 毎度毎度の同じ書き出しになるけど、皆さんお元気でした?政府の緊急事態宣言後、意図的っていうもんでもないんだけどブログっていうかインターネット全般から長らく遠ざかっていました。この二ヶ月は会社のリモートワーク以外の時間は家族そろっての散歩を楽しんでみたり、古い映画を観たり、飯を食ったりなどのんびりな時間を満喫。

 

 そんでもって深夜。長い自粛期間なのでいざブログを書いたり修正したりなどをしてアクセスアップだー!なんて思ったりもしたんだけど、いざ、キーボードの前に座るとどうにもやる気が出ない。最初こそ「まぁそんな日もあるさ!」なんて思いながらブログのネタ探しのために他のインターネット記事やお気に入りのブログ、ツイッターなどをザッピングしてもいたんだけど、そのうちそれさえも億劫で苦痛に思えてくる。TVもうっとおしくてうるさく、活字も見ているだけで疲れる。ふと「俺、鬱にでもなったのかな」と本気で心配になる日もありました。そうはいっても緊急事態宣言解除となった現在、多くの人と同様に僕も外に出ていかなきゃならん。重い手足を奮い立たせて勤労に励む毎日っていうやつです。

 

 自分が鬱かどうかはともかく、改めてリアルやインターネットなどで「外」に触れてつくづく「情報多すぎだよなぁ・・・」などと最近思っています。何かを決めるときや考えなきゃいけない時に多くの選択肢があるのは大切で有難いってことは重々わかっているけど、四六時中「情報」に囲まれているっていうのもキツイ。目も耳も皮膚感覚も疲れて「うわぁーっ」となることも多い。Stay Homeな生活と数ヶ月前まであたりまえだった「日常」のギャップにヘロヘロな今日、この頃です。

 

 そんなこといってもあと数日で「日常」に慣れていくんだろうけどもね。似たような感覚を味わっている人って、案外多くいるんじゃないかなぁ?

 

イエスタディをうたってのアニメ化は、僕の20年越しの夢だった

こんにちは。

 本日のテーマは僕が学生の頃に大好きだった漫画のアニメ化について。その作品とは漫画家、冬目景さんの描く長編恋愛モラトリアム「イエスタディをうたって」。

 

singyesterday.com

 

 大学生の頃に読んでいたから、20年以上前の作品になるのかー。

 

 

イエスタディをうたってと僕の青春

 この作品は集英社の隔週漫画雑誌「ビジネスジャンプ(現在:グランドジャンプ)」で不定期連載された作品。連載時にリアルタイムで読み、単行本も毎回買うほど愛していた作品です。物語はフリーター(後に正社員カメラマン)青年の「魚住陸生(うおずみりくお)」と中学生の頃、ふとしたきっかけから出会い陸生に一目ぼれした少女「野中晴(のなかはる)」、大学の同期生で在学中から陸が心を寄せていた高校教員(晴の担任でもあった)「森ノ目榀子(もりのめしなこ)」、品子の幼馴染の弟で浪人中の「早川浪(はやかわろう)」。この4人を軸に巡って繰り広げる煮え切らない恋愛模様がテーマです。読んでいて「あーもーめんどくせーなー!どいつもこいつも!」と怒鳴りたくなるほどのもどかしさに、当時同じくめんどくせー女の子に恋をしていた僕はその自分の恋愛マゾなメンタリティーを刺激させるストーリーの遅さに苛立ちつつもすごく共感させられたもんだ。・・・若かったなぁ自分も。

 

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 あと作品の見どころとして挙げさせて貰うと「絵柄」ですかね。美大卒という作者さんの経歴にルーツがあるのか、イラストがすごく特徴的です。それを表現するなら「まるで丁寧に描いたラフスケッチ」っていう印象で、その頃はこのような作風の絵柄が少なかったためすごく目を惹きました。

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 これはSEASON.2の第二話の表紙。ビジネスジャンプの掲載時は左側に「ー否定語を並べると私ができあがるー。」とかいうアオリ文句が確かあったと思う。そういう低予算映画みたいなコピーがその頃すきだったんですよねー。

 

イエスタディをうたってと僕の夢

 さて本題。なんでこの漫画のアニメ化がお前の夢だったのかって?それは僕がとあるアニメ制作会社で制作だった頃、この作品のアニメ化を企画書として会社のお偉いさんに提出していたからです。この人の独特な絵柄は絶対売れると思い、単行本と冬目さんの画集「百景」を企画書と併せてプロデューサーのもとに持ち込んだのでした。そのプロデューサーは「若いスタッフの企画は大歓迎」といっており、企画書についても「私もあの作品好き!企画実現できるかどうかっていわれたら分からないけど、目の付け所はいいよ!」みたいなことを言われたのですっごく舞い上がりましたね。

 

 とはいえ、人生そんなに甘くはない。数か月後に何気なく上司の机を見たら、提出した単行本と画集には埃がつもっており企画書はどこにもない。たぶん、プロデューサーは企画書を裏紙メモにでも使ったんだろうなと思っています。まぁ企画がそんな簡単にとおっていたらみんな苦労なんてありませんわな。

 

 だけどまさかこの作品が20年の時を経てアニメ化するとはほんとに思わなかったわ。
いちおうどこの制作会社が手掛けたのか気になって調べたら…あぁよかった。俺のいた制作会社じゃなかった。もしそうだったらたぶん俺は発狂しているだろうな。

 

他人が形にした嘗ての夢。今でも持っている夢

 マンガの登場人物に心情を重ね合わせていた20年前を思い出しながら、現在にふと目を向けてみると、今の僕はIT業界でネットワーク屋さんとして複数ある取引先企業のLAN環境保守のため中央線や山手線、地下鉄、その他私鉄などを乗り継ぐ日々。だけどマンガの人物たちは今も年をとらず、先の見えない恋愛にあーだこーだ思いを巡らせる日常を生きています。こっぴどく女の子にフラれたり、体調を壊してアニメ業界を辞めたり、東京都内のフリーペーパー系タウン新聞でコラム書いていたり、IT技術屋になったり、結婚したり、かわいい子どもを授かったり。まぁ人生っていろいろあるよね。

 この作品のアニメはアニメ業界で名を馳せたい!という情熱に溢れていた20代の頃、
そしてその夢が破れても家族とともに毎日を笑って生きながら「別」のスタンスで夢を叶えたいとあがくさえないおっさんになった僕に、こう語りかけてくるのです。

 

「嘗てのお前の夢は別人が現実にしたぞ。お前はどうする?なにができる?」と。

 

 そうはいったって難しいのよ。「生活を守りながらの戦い」っていうのも。

 

マンガよりも酷いと周囲からいわれた僕の失恋遍歴。

 

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夢?物語制作に携わること。諦めるわけねぇだろ!

 

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ラブライブの「みかん」「お茶」の広告に地域振興を考える

こんにちは。

 久々のブログ更新ですが、その間に日本や世界各地で起こり続けている大きな動きにただただ唖然とさせられている今日、この頃。皆さんも僕もお互い「どうか健康に気をつけて」とだけしかいえません。そんな時にブログなんて書くなよ!と自分でも思ったりもするけど今後も長引いたり頻度が増えるだろう「自粛」の際のひまつぶしとして、適当な読み物を増やしておくっていうのもまぁ、社会貢献といえるかな?といいながらキーボードの前に座っております。

 

 

 

ラブライブ(アニメ)と町おこし

   そんでもって本日のテーマは「ラブライブと町おこしについて」。ちょうど先月、このシリーズの2作目である「ラブライブ!サンシャイン!!」の主人公キャラ「高海千歌」と物語の舞台「沼津」のJAなんすんがコラボでポスターを作っており、起用されたイラストが物議を醸していました。

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 こんなふうに健康的な少女がみかんを持って微笑んでいる。これの何が問題なの?とお思いの方もいるでしょう。では、目線を下に移動。

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売りたいのは町の名産品か?キャラのエロか? 

 こんな風に下着のライン、もしくはデリケートゾーンがくっきり。これについて多くの異議がよせられたそうな。この表現についての是非はここでは述べません。ただこのブログでオタク的なエロ文法の社会流通について批判を続けている僕でさえ、このトライアングルの部分に目が行きました、正直言って。そのことで日頃、偉そうにオタクを批判している自分もこの「デフォルメによる女性の性的部位を強調したエロ訴求」から未だに脱却できていないんだなぁと、頭をボリボリ掻き反省するのみです。

 

 その後、JAなんすんは今回こんなコラボポスターを作成。

 

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 デザインに起用されているのは同じキャラです。この二つのポスターを比較して「どちらが地域の特産品PR広告としてふさわしいか?」といったジャッジメントをするつもりはないけど、あらためてここで考えてみたいことはあります。

 

広告って何なのか?

 インターネットなどで調べてみると、三省堂大辞林ではこう書かれています。

 

広告 

① 人々に関心を持たせ、購入させるために、有料の媒体を用いて商品の宣伝をすること。また、そのための文書類や記事。

② 広く世の中に知らせること。

 

www.weblio.jp

 そのうえで問題になったポスターを擁護する人たちに尋ねます。

「このポスターで訴えるべきはみかん?キャラのデリケートゾーン?」と。以前、僕はこのブログで同じく女性の性的部位を強調した地域おこしポスターについてこう批判をさせて貰いました。

 

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こういうポスターを「表現の自由」というフレーズで擁護するオタク共や評論家さんたちにいいたいのは「皆さん、表現の自由がどうこううるさいけれどもこのポスターとかアニメの巨乳キャラたちを通じて表現したいものは何ですかい」という疑問です。

女体だーい好き!こそオタクとこの社会の本音である! - サブカル 語る。

 

エロだけを欲するオタク相手の商売で地域振興

 この部分について「表現に意味を求めることこそ表現の自由の妨げで云々」みたいなコメントもありましたが、ここで僕のいっているのは「地域の魅力を伝えるのが目的の広告で、キャラたちの性的部位を特産物より大きくクローズアップして表現できる地域の魅力って何?」っていう率直な疑問です。表現の自由がどうこうという問題じゃありません。

この疑問についてはポスター擁護派にぜひともご教示いただきたい。おそらく僕が思わず「なるほど!」と膝を打つような明確な回答があることでしょう。

 

 読者にはしつこいと思っている人もいるとは思います。だけど、僕は問い続ける。

 

「衆目集めに女性の身体を使った広告の先に本当の意味の地域振興ってあるの?」と。

 


 

 

※このお茶の広告については作品名のロゴが小さく、絵柄も違うのでラブライブのコラボとわからない!という自称オタクのツイートも見たけど、小さかろうが大きかろうが絵柄が異なろうがそのロゴや特徴的なキャラの髪形、そのキャラの地元であることを踏まえて地域と作品のコラボであることが分からないのであれば、単にそれはその人に想像力がないってだけのこと。そんな想像力を持てないのならオタクをなのるのはやめるべきだろう。

ゆらぎ荘の幽奈さんの透かしエロ表紙問題について考える

こんにちは。

 

 本日は前々からずっと書きたい。と思っていたテーマを取り上げさせてもらいます。これを皆さんは覚えていますか?

 

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ゆらぎ荘の幽奈さんの透かしエロヌードについて

 これは昨年、このブログでも取り上げた週刊少年ジャンプで連載中の作品「ゆらぎ荘の幽奈さん」のカラー表紙です。この半裸の幽奈さんの裏表紙にはタピオカをテーマにした番外編の短編が収録されており、

 

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 この裏面を光にかざして覗いてみるとピンク色のタピオカ部分がセミヌードの幽奈さんの乳首に見えるという演出になっており、それを批判させて貰いました。

 

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 最近はオタクのエロや現実の女性に対する態度が目に余ることもあって、オタク批判の文脈で記事を書くことも多くなりましたけど、今回はあくまでもひとりのマンガ読みという視点からこの表紙がいかに読者を(意図的でないにせよ)ナメているかについて説明をさせてもらおうと思っています。

 

そもそも漫画ってなに?

 本題に移る前にこの点について考えてみましょう。そもそも、漫画ってなに?これについては多くの識者が語っているけど、ここでは手塚治虫の発言に従い、以下の通り定義をさせていただきます。

 

マンガとは「記号」である。

 

 記号っていわれても、ピンときませんよね?では手塚の発言をここで引用。

「僕の画っていうのは驚くと目が丸くなるし、怒ると必ずヒゲオヤジみたいに目のところにシワが寄るし、顔が飛び出すし。そう、パターンがあるのね。(中略)このパターンとパターンを組み合わせるとひとつのまとまった画らしきものができる。だけど、それは純粋な絵画じゃなくて非常に省略しきった記号なのだと思う。(中略)僕は画を描いているんじゃなく、ある特殊な文字で話を書いているんじゃないかと思う」

1979年「ぱふ」より

 

 こんなふうに手塚はインタビューで「自分は絵でなく記号を使って物語を書いているんじゃないか?」という疑問を述べています。つまり手塚はパターン化された図形と線でキャラを描いており、そのキャラはまるでイラストというよりも単なる記号の集合体なのではないか?と語っているのです。この話、後々重要になってくるので覚えておいて下さい。

 

 次。手塚は先述のとおり自らのキャラは「記号」と述べました。ただその言及は手塚だけではなく漫画の本質そのものを言い表してもいる。現在の漫画は数年、10数年もの年月を経て壮大なドラマをユーザーに楽しませるストーリーテリングの技法にまでなりましたが、本来的には1話単位での短編や4コマ漫画のような単純な起承転結を語る小さな物語集でした。

 キャラたちはそれぞれの閉じた世界の中で年をとらず、箱庭みたいな閉じた空間で、その日その日のエピソードを披露する。サザエさんこち亀の両津、ドラえもん。その他、etc。キャラクターたちはその世界で固定された年齢に応じた行動を取り、成長せず際限のない日常を生き続けていくのみ。それが許されているのは、キャラたちの本質が「単なる記号の集合体」だからです。記号の集合体だからこそ、キャラたちは殴られてケガをしてもその時に頭に大きな絆創膏が貼られる描写だけで、場面が変わったらあっという間に元どおり。両津がトラブルを起こして派出所やその周辺などを爆破しても当の本人や周囲の人は「いてて・・・」と軽いケガだけで、ページが変わったらこれまた元どおり。このような不老でタフ、無敵でいられるのはキャラクターがケガの描写で例えたとおりあらゆる事象がデフォルメした記号で描写される非現実な世界の住人だからです。

 

記号でリアリズムを描いた手塚

 ところが。手塚はその記号でしかない非現実世界の住人で「物語」を描いた。それはどういうことか?話は太平洋戦争の頃に遡ります。本人が自伝などで述べているとおり手塚は子どもの頃から根っからの漫画少年。いつでもどこでも漫画を描いていました。その手塚少年も「太平洋戦争」の空気を受けたせいか好戦的とはいわずとも戦意を高揚させるような作品を描くようになっていき、ある日こんな作品を描きます。

 

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講談社現代新書:教養としてのまんが・アニメ(大塚英志ササキバラ・ゴウ

  

  

 この4コママンガは防空壕にいた少年「フクちゃん」が外に飛び出して逃げた時、敵国の戦闘機から機関銃で胸を打たれた場面です。この作品の3コマ目を見ると本来目にもとまらぬ速さで狙ってくる銃弾はまるで槍のように描かれており、フクちゃんの足もこれまたバタバタと残像が見えるほど素早く描かれている。まさに作品そのものが現的にはあり得ないデフォルメ記号描写の集大成だともいえる。

 

 だけど。この胸を打たれたフクちゃんは生々しく血を流した後、その場に倒れて動きません。フクちゃんがデフォルメ記号の集合体であり、先述した漫画の定義に忠実な非現実世界の住人なら、次のページでは絆創膏を張った身体で立ち上がり「痛てて…」とぼやき、また全力で走り戦闘機から逃げるはずなのです。でも、手塚はそれを描写しなかった。というよりもそんな非現実的な表現を描けなかったというほうがおそらく適切でしょう。

 

 手塚の少年時代が「戦争」という現実に晒されており、常に生命の危機にあった。というリアリズムがエンタテインメント性を持った「無敵でタフなキャラ」を描かせなかった。つまり「身体性を持たないデフォルメ記号の集合体」のフクちゃんは物語の中で戦争というものを味わった「手塚の身体性、感情・主体性」を背負わされてしまったのです。人間は身体性による体感などで感情を発達させる生物ですが、手塚の身体性の具現者となったフクちゃんも戦争に対する現実とそれに対する主体性(手塚治虫のコピーともいえる主体)を持った。そしてそのフクちゃんの主体は物語で怪我をしても「痛てて」だけで済む非現実的に生きることを許さず、結果、現実的に近い価値観の世界に生きることになったフクちゃんは大きなケガを負ったのです。

 このフクちゃんが銃弾を浴びた瞬間、細かくいうとキャラが身体性、それに伴う主体(あくまでも作者の主体の反映)を得た瞬間が日本の戦後漫画のスタートと先ほど引用した本の著者、大塚英志は述べておりこの大塚説には異論もあるけど僕はこの説をベースにサブカルと物語についてを考えています。

 

ゆらぎ荘の幽菜さんを「記号」と言い放つ作者

 長い話になったけど、この辺で幽奈さんの話題に戻りましょう。何度も述べたとおり所詮漫画なんて身も蓋もない言い方をすると「単なる記号の集合体」です。だけど僕たちはその記号の集合体に対して想像力を働かせて、キャラの感情や行動に想いを馳せてマンガの中にあるリアル、つまり物語を味わってきた。それは多少ロマンチックな言い方をさせてもらうと、作品やキャラを通じた作者のリアルとの対話です。作品と作者の人柄は別であるという人もいて、確かにそれはそれで正論です。だけど、みんな本当にそんなクールに割り切っています?そうだ!というならそれはたぶん、ウソですよ。そんなにみんながクールならクリエイターの発言に支持が集まったり怒ったりなどの騒動なんて起きない筈だから。

 

 幽奈さんだってエロだけでなく「物語」に共感できるから好きという読者も少なからずいるだろうと思います。でも、この作者は僕に言わせれば幽奈さんというキャラを「記号に分解」したのです。幽奈さんの身体をセミヌードとタピオカに分解して、表裏を透かしてキャラを見ればあら不思議!乳首の見えるイラストになるぞー!という演出で「所詮、お前らの好きなキャラは線と図形の集合体でしかない!」と読者に見せつけたことになる。これは言ってみりゃ幽奈さんのキャラ性の全否定そのものと言ってもいい振る舞いであり、作者の裏切りでもあるといえるのではないのか。こんなに読者をバカにした話はないと思う。心あるファンならこれ激怒案件だと思うよ、いやマジで。

 


 

 

 写実を目指して発達した絵画とは逆に、事象を単純な線と図形でデフォルメ化することで発達していったマンガ。その漫画がひとりの少年の味わった戦争をきっかけに作者の生きる世界と連なっている「リアル」描くための表現方法として進化していったプロセスを考えてみると、なんと逆説的なんだろうかとつくづく思う。そういった戦後漫画のプロセスを知らず、キャラを記号に分解したエロで楽しむ作者、オタクが情けない。

Theガッツ!というエロゲーとエロゲーの将来を憂いたクリエーター

こんにちは。

 先月のブログ更新からもう30日を超えており、今回久々の更新になりますが、皆さんもお元気ですか?

 

 

 

あるエロゲーリエーターの先見性

 サブカル関連のマイナーな話題で遊ぶというコンセプトより「オタク叩きの急先鋒」みたいな文脈で幅広く知られることになったこのブログも事あるごとに叩かれるため、僕が L'Arc-en-CielのHydeだったら「うるさく言わないで」といって「Stay away」の振り付けで踊りたくもなる今日この頃ですが、本日の記事のテーマはタイトルにある通り、「エロゲー的価値観の流通を憂いていた、あるエロゲーリエーターによる対談。

 

 

アニメとエロがこれほど強く結びついたのはいつ頃か?それはたぶん、10年程前のとあるムーブメントがひとつの契機になったのではないだろうかと僕は思います。

 

 今から10年ほど前、エロゲーにあるムーブメントがありました。それはエロゲーだけど、泣ける。 泣けて、抜けるがウリのいわゆる「泣きゲー」と言われたエロゲーというジャンルの台頭です。そのゲームの固有タイトルを書いたりすると、頭に蛆の沸いたうるさい人たちが湧いてくるのでこのブログで挙げませんけれどもその物語の大きな特徴としては、主人公とヒロインの女の子が男女のやる事だけはきっちりやるけれどアンハッピーエンドな結末が基本のコンセプト。そういった屈折したエロゲーがこの頃にはたくさんあり、困ったことにアニメ化などもされて民放で放送されているのを見て僕は正直、思いました。

 

 「この国は狂ってる」

 

 アニメは肝心の性描写を一切省いた若い男女の純愛などを前面に押し出した作りでそれだけを見れば別に問題ありません。実を言うとそのアニメを見て僕もちょっぴり涙ぐみました。だけども、その後で「オイオイオイ、ちょっとまて!所詮コレってエロゲーだぞ。CGの男女の性描写で野郎どもを興奮させる二次元ポルノだぞ。こういった黒い本質を隠して、純愛のもつ白いイメージで売るのってズルくないのか?」と至極当たり前な感情が湧き上がってきたのです。

泣きゲーなんて所詮、エロゲーを買えなかった奴のいいわけ - サブカル 語る。

 

 以前このブログでも書いたとおり、アニメ会社の制作進行だった僕は「アニメやゲームなどのいわゆるサブカルの分野で『エロゲー』の領域にあったエロの価値観」を薄めたり、隠したりすることでそれらがやたら広く一般流通するようになった現状と、その流れに乗っかるサブカル関連業界のズルさを憂いていました。どんな理屈をつけてもそれらにはエロゲーの文法に沿ったエロが内包されているじゃないか。オタクの抱えるエロに対する後ろめたさからの逃げを日本の文化みたく持ち上げるなよ、と。その憂慮のきっかけにもなっているエロゲーのクリエーターの対談って、皆さん興味ありません?そのクリエーターの名は「日高真一」。このエロゲーを作った人です。

 

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otapol.com

 

 

Theガッツ! - Wikipedia

 

Theガッツ!という異色なエロゲー

物語はこんな具合

 恋人に軟弱な身体をバカにされたため、身体を鍛えるため工事現場のアルバイトを始めた青年が主人公。ヒロインのタカさん(高原美奈子)やその他の筋肉ムキムキな女性を相手にセックスを楽しむ。という美少女ゲームのフォーマットの真逆をいく作品となっています。さらに前述した通り、物語では主人公はひ弱なため、ヒロインに迫られたら逃げられない。つまり、性において時には女性が主体を握るケースもあるわけです。キャラのセリフも男性ファンタジー色が強いものでなく、シチュエーションは非現実ながら人間の会話に近いリアルなやり取りを目指しているため、声優さんからも「演技しやすい!」「演技が楽しい!」と好評だったそうな。

 

 僕も以前、体験版を遊んだ記憶がありますが、そのたくましい女性の肉体のイラストに「このゲームって売れるの?」と思ったもんですが、意外や意外。その逆に突き抜けた個性が本来のエロゲー購買層とは異なるマニアックな支持層を掴み、続編も5作前後作るほどのヒット作になりましたとさ。

 

 さて。そんなマニアックなゲームを作ったクリエイターが、20年ほど前から顕著になっていたエロゲー的価値感の流通をどう考えていたかを紹介させてもらいます。

 

日高 :日高真一

がっぷ:がっぷ獅子丸(ゲームプロデューサー兼ライター)

日高:エロゲーって、元々グレーなもので、グレーだったからこそ売れていたんですよ。そのグレーの部分に含まれている『黒』の要素がどんどん削れていって『白の中にエロいっていう黒いシミがポツン、ポツン入っている』というものになっちゃった。それがたぶん、一般の市場(エロゲーエロゲーとしてあった市場という意味)からの乖離とユーザーの先鋭化を助長したと思うんですね。で、このまま続けていくと発展も進歩もないどころかいずれ崩壊する。(省略)

 

がっぷ:そうですね。

 

 引用:ゲーム業界のフシギ(著:がっぷ獅子丸_太田出版 2002年)

 

 

社会とエロゲーとのズレについて

 対談の中で日高さんは自身の作品「Theガッツ!」がいわゆる美少女の文法から外れたタカさんやそのあまりにもマッチョで人間のリアルな会話を目指した作風のため、エロゲーファンから「健全な美少女ゲーム業界を汚す作品(笑)」「ガッツ!のセックスは臭くて嫌いだ!」などと叩かれたことを披露。このバッシングについて「俺も人に体臭を感じさせる作品を作れたんだと思うと嬉しかったよ」といい、話の聞き手のがっぷ獅子丸さんも「エロゲーユーザーよりガッツのユーザーのほうが正常に思えてくる」と反応。話はさらに続きます。

 

そんでもって二人の結論は

「現在(本出版当時の2002年)現在のエロゲーの主流はオタクの人をバカにするとかでないけどやっぱりちょっとズレている印象がある。そのズレを修正するためにはやはり原点に戻るべき。エロゲーに「美少女ゲーム」なんていう別名がついたのがそもそもの間違いであり、業界はもっと『エロってなんだ?』と自問自答をするべきではないか」

 

 だいたいこんな意見にまとまっていきます(気になる人は古本屋で探して読もう)。

 なんかこれって、AMネットワークがブログで語っていることと似てるな?と思った人も多いだろうと思うけど、ぶっちゃけ僕はこの対談の影響をかなり受けています。アニメ業界の中で働きながら『エロのくせにエロと認めない』表現の多用を行い、小銭を稼ぎたがるアニメ業界全体の風潮に疑問を持っていた当時の僕はただこの意見に頷くだけでした。

 

エロゲー的な価値観に塗れた街角の風景

 そしてそれから20年後。この日本では日高さんが対談で述べていた指摘がイヤになる程当てはまっています。やっぱり才能豊かなクリエイターさんってすげー高い先見性を持っているんだなと思うのと同時に、このオタク文化における一般市場(本来的なエロゲーオタク市場っていう意味ね)からの乖離、ユーザーの先鋭化という事象。巷には「エロくない」との建前ながらエロゲー、エロ漫画の表現文法に準拠した「オタクにとってはエロくない女性のイラスト」が表現の自由を詭弁に街のいたる所に溢れており、その表現に異議を唱えりゃこれまた先鋭化したオタク共が群れて異論に牙をむく。エロゲー的価値観がアンダーグラウンドであり、それを自覚していた僕らは「やれやれ困ったもんだな」とただ愚痴を呟くのみ。