こんにちは。
先日から「お金」についてブログを幾つか書いています。本日はこのブログから。
趣味にお金を使っている人が大好き!というブロガーさんが「女性の浪費」をテーマに書いたエッセイを漫画した「浪費図鑑」なる本を紹介していました。
下記は言及したブログ引用
今回の登場人物は以下の女性。
●あんスタで浪費する女
浪費する女子のエッセイが最高に面白い! - ことみのにっき
●同人誌で浪費する女
●若手俳優で浪費する女
●地下声優で浪費する女
●EXOで浪費する女
●ロザンで浪費する女
●乃木坂46で浪費する女
●宝塚歌劇団で浪費する女
●TDRで浪費する女
●V系バンドで浪費する女
●ホストで浪費する女
●触ってほしい一心で浪費する女
それぞれのテーマで大金を使いまくっているという女性たちのエッセイ。こういった景気よく小気味のいい話題を最近はあまり目にしていなかったので、この本買おうかと思っています。
「ほしいものが、ほしいわ。」
さてさて本題。アベノミクスの効果とやらで世間は株価が上がり、好景気だ!って政府のお偉いさんたちはいうけれど、国内の消費は低迷気味。今と同じく株価や土地の上昇が発生していたバブルの頃と比べると、現在の周囲の空気には「ケチっぽさ」みたいなものが漂っているように思えます。バブルの頃は子どもだったので直接的な恩恵は僕も受けていなかったけれど、大人達の派手でアホでのん気なバカ騒ぎな空気はメディアを通じ目にしていました。だけどこの好景気だとされている現在、そんな空気をどこにいてもまったく感じることができまないのはどうしてだ?
コレどんな話題かっていうと、携帯キャリアのソフトバンクがユーザー向けに毎週金曜の10時~22時に来店の際、牛丼1杯が無料となるサービスを行ったんだけど、その牛丼のサービスのために店がどこも混雑。北海道では警察による交通整理も行われたそうな。サービス初日だった2月2日は首都圏で積雪という予報もあった寒い日。そんな日に無料だからといって長蛇の列を作ってまで、並盛の牛丼を本当に食べたかったのか?普通に考えて異常と言わざるを得ませんよ。だって雪が降る寒い日に並んだら風邪をひくこともありえるだけでなく、その無料牛丼1杯にありつく時間もどれだけかかるのかを考えたらむしろ「損」の割合のほうがどう考えたって高い。冷静に考えていくとみんなたぶんそこまで牛丼を食べたいわけでもない。ただ「無料」っていうワードによって時間と環境、お金を含めたコスト意識を狂わされたんだろうなと思うのです。
そこで僕はこの言葉をつぶやきたくなりました。
ほしいものが、ほしいわ。
これはコピーライターの糸井重里さんが、バブルで日本が沸いていた80年代に考案した「西武百貨店」の広告です。誰もが自分の欲求を叶えるために働き、お金を手に自分の「欲しいもの」を求めていた時代。だけどあなたが買った「モノ」って本当にあなたの「欲しい」モノだったのか?「企業の戦略」に煽られて制御できなくなった自分の欲望に狂い「さほど欲しくもないんだけど欲しいものだと思わされて手にした」モノじゃないのか?このコピーは消費者の「欲しいモノ」をお金によって得たいとする貪欲さと、あなたのその「欲しいモノ」は心から欲している、本物の「欲しい」なのか?といった問題提起を投げつける二面性を持っている。つまり
「今、目の前にあるほしい(と思っている)ものが、ほしいわ。」
「心の底から、ほしい(と思える)ものが、ほしいわ。」
っていうダブルミーニングになっています。
タダの牛丼が、ほしいわ。
ある程度お金と余裕があり、多くの人がたとえかりそめでも欲しいものを見つけて、手にしていた80年代。対照的に好景気ながらもお金や生活に余裕を感じる人があまり多くおらず、目の前の「無料」をこぞって求めた人々が群がる現在。先ほどの本に紹介した女性の浪費が心からの「欲しい」かはわかりません。単なるムダ使いだと笑う人もいるでしょう。だけど無料という言葉に狂わされて生じた欲求より、そっちのほうが人間の欲求の在り方としてよほどまっとうだよと僕は思うのです。
※2/9にも、吉野家とソフトバンクは牛丼の並盛1杯無料サービスを実施。またも渋滞が幾つかの地域で発生したとか。この国の人は何も学習しないバカばっかり。
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「無料」っていうワードに欲望をあおられて時間と金、労力のコストを狂わされて心から食いたいと思っていないだろう牛丼を食べるため並んでいる連中を「パブロフの犬」みたいなもんだと僕は考えていますが、「並盛牛丼1杯無料」というフレーズの中にある「1杯」という単語からこの作品を思い出しました。
ー杯のかけそば
一杯のかけそばブームと貧困
80年代後半にベストセラーとなった短編小説で映画になっただけでなく、89年の衆議院予算委員会でリクルート問題を当時の竹下登首相に追及する際、野党の議員がこの物語を引用したりもしたことで、大きな話題になった作品です。
舞台は1972年の北海道。大晦日の夜、札幌の「北海亭」という名のそば屋に子どもを2人連れた女性が来店してかけそばを注文。女性は「3人で1杯の注文ですが、よろしいでしょうか?」といい、そば屋の妻と主人は女性の変わった注文と身なりなどから3人親子の貧しさを慮って量を少しだけ増したそばを出し、その親子はおいしそうにそばを食べて帰宅。以来、その3人親子は毎年大晦日にやってきては年越しに3人で1杯、3人で2杯分のそばを食べにやって来て、そば屋の夫婦もそれを楽しみに待つようになりました。ところがある年の大晦日を境にその親子はまったく来なくなりました。そば屋夫婦はそれでもその3人親子の来店を待つように。時はさらに流れて10数年後の大晦日。長らく待った親子がそば屋にやって来ます。小さい2人の子どもは立派な成人になり、年老いている母親を連れての来店。家族は「私たちにとって最高のぜいたくは、この店を訪れて3人で3杯のかけそばをたべることなんだと語り、それを聞いたそば屋の妻は立派になった親子の姿に思わず涙ぐみ、テーブルに注文を聞きに行く。という物語。実話であるとの触れ込みで話題となったんだけど、それは後に嘘と判明。実話かどうかはどうでもよく、大人たちがこぞってこの本を読み、感動しただの泣けるだのという集団的な「お涙」の嵐が子ども心に不気味だったのを覚えています。
適正な価格云々の議論がどうこうではなく、みんなが「欲しい!」と欲求を叫びながら金を手に「モノ」を買い漁り、貧しい親子が一杯のかけそばを分け合って食べる物語が美談扱いされた80年代と比べ、集団で長い行列を作りどこにでもある牛丼チェーン店のたった一杯の無料牛丼を食べに行く現在。もはや一杯のかけそばが「美談」でない、現在においてある意味、リアリズムを伴った物語になっているんじゃないか?と思えてなりません。この国のお偉いさんは口を揃えて日本の好景気を訴えるけれど、本当に僕ら庶民が裕福であればたかが400円前後の牛丼を無料で食える!といって、長蛇の列を作ってわざわざ食べに行くだろうか?結局のところ、このニュースは日本がまったく景気回復などしてなどおらず、数百円の「無料」というエサを得るために交通渋滞を発生させるほど国民が精神的にひどく飢えているっていう希望のない現実、身も蓋もないことをいうと好景気どころか、この国は「みんなが貧困」の手前まで来ているということの証拠じゃないか?どれだけの人がそれを自覚しているかは知らないけれどもね。
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※もしも国会議員にソフトバンクユーザーがいたら、吉野家の牛丼1杯無料サービスに並んでみてほしい。国民の生活に寄り添う政治ってそういうことだと思う。