サブカル 語る。

サブカルチャーなどについての雑談

ハロウィンの騒動に見る人々の集団心理について

こんにちは。

 本日は日本国内でもメジャーなイベントとして根付いてきた「ハロウィン」。

 

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ハロウィン - Wikipedia

 

 みんなで仮想して大騒ぎ!で日ごろの鬱憤ばらしも結構ですけど、先日渋谷でこのような事件も起こったこともあり、この行事についてあまり手放しで歓迎できない人も多いんではないかと思います。

 

wezz-y.com

 

 渋谷での集団バカ騒ぎトラブルについてはサッカーW杯の日本代表勝利などの時にも見られますが代表勝利とハロウィン、どちらのケースにも「そういう騒ぎが起こった時に制御が効かなくなるのはなぜなのだろうか?」を考えていくと、そこにはやはりこの国の国民性が関わっているような気がしてなりません。

 

 

僕らのモラルは「世間」が作っている

 僕らは日常生活で何らかの行動を起こしたり、発言したりする時などにそれらが適切かを自らの判断基準に照らし合わせ、その結果の是非を考えたうえでアクションを起こします。その基準を僕らは「モラル」と呼びます。そのモラルの原点となるものとは何か?劇作家の鴻上尚史さんは「世間」だとしています。20年ほど前に書かれたエッセイ「ドン・キホーテのピアス」で鴻上さんは「西洋は生まれた時に神様とね一対一の契約を行う。その契約に基づいて西洋の人は物事の是非を神様に問い、その対話で「個」の在り方を自問自答する。それに対して日本は物事の是非を共に暮らす集団「世間」に問い、その集団におけるルール内での「個」を考える。その証拠が「世間様」という言い回しであり、その世間様という考えが常にご近所や、世間の目などを気にして行動しなくてはいけないということの窮屈さに繋がっている。とかいうようなことを語っていました(手元に原本がないため、記憶の限り)。だからこそ僕らは学校や職場だけではなく、今、自分が立っている場所で「空気」を読むということを常に強いられており、そしてその環境に慣れきっているのです。

 

「大阪リンゴ事件」と「渋谷のトラック横転」

 上記の話を踏まえたうえで、話を進めます。唐突ですが皆さん、今から30年ほど前に起きた「大阪リンゴ事件」というものを知ってますか?

 

megalodon.jp

 

以下、リンク記事を引用

 
 昭和59年4月23日、大阪・京阪天満橋駅前。青森からトラックで行商にきた人が、はるばる運んできた赤いりんご80箱をトラックの荷台に積んで売っていた。桜の季節で、駅前は近くの桜の名所、造幣局の「通り抜け」に訪れた人たちでにぎわっていた。事件はその人が、電話をかけるため目を離したわずかなすきに起こった。

 リンゴの山に、「試食をしていただいて結構です」と垂れ幕がしてあった。それをみた人が、つい一つ、手にした。「リンゴはただやで」ということになり、1個どころか何個も手にする人が出た。「押さんといて」。群集心理に火がつきトラックの前には身動きもできない人だかりがした。興奮してかリンゴの山にのぼり、人がきを目がけてボンボンとリンゴを投げる背広姿の男の人もいたという。千数百個のリンゴはアッという間になくなってしまった。

 かえってきた青森の人は、ぼうぜんとした。最初は何が起こったかわからない。

 

 商売のため試食用としてお客さんに食べて貰い、気に入ったら買っていただこう。と考えていたリンゴの行商人はその有様を見て、さぞ驚いたことでしょう。常識で考えればトラックの荷台にあるリンゴが全部タダなんてありえません。おそらく多くの人もそれを分かっており、タダで持っていくのが泥棒行為であることも承知していた。だけどもその場は「リンゴはタダで持って行っていいもの」といった空気に支配されていたため「赤信号だけどみんなで渡っちゃえ!」と、ばかりにリンゴに手を伸ばしたというのが実際のところではなかったのか。それはおそらく心ある人が「普通に考えてリンゴは商品でタダなんかじゃないよ。勝手に持っていくのをやめようよ」と周囲を咎めたところで止まらなかった。「みんな持って行っているからいいじゃないか。お前、アホか」と笑われたりバカにされるのがオチだったと思います。つまりリンゴの周りにいた世間様はリンゴ泥棒を認めていたということです。

 

ハロウィンの騒動に見る人々の集団心理

 大阪リンゴ事件からおよそ30年後。群衆はどさくさに紛れたリンゴのコソ泥からエスカレートしてトラックの横転という直接的な暴力を他者に働くようになりました。この時もおそらく「いくらなんでもそれはやりすぎだ」と思いながらも、周囲に漂う狂気に対して言葉を飲むほかなかった人もいたのでしょう。そしてトラックを横転させるなど日本代表の勝利時より人々が暴力的な行為に走ったのは「仮装」というイベントの特殊性によるものじゃないのだろうか?と僕は想像します。

 

 その発想のヒントになったのは、僕がライター時代に取材させていただいたとある能楽師さんの話でした。日本の古典芸能「能楽」は演者が役に応じた仮面をつけて舞台に立ちますが、その仮面(面)は顔を全部覆うことができない程の大きさであり、あごや頬などの部分がどうしてもはみ出ている。それは「肉体の部分をわざと見せることで人間と面が融合してひとつになっていることを表現するためです。他の仮面は顔を全部覆うことでその人の人格が隠されて別人格になる。それこそが能と他の芸能の違い」というふうなことを語っていました。つまり、能楽は演者の人格と面の役柄の人格が融合された存在が演じているものであり、顔を覆って隠す仮面は演者の人格を仮面の奥に封じる。そのため仮面をつけた者は本来の人格を失って仮面の人格に取り込まれる。ということです。そんでもって、このハロウィンの仮装も本来お化け=他者になりきるためのものであり、顔を覆う仮面に近い要素を含んでいるものだろう。と思われます。従って仮装した人々が周囲に多く集まっていた渋谷には周囲の空気に合わせることに疲れた人たちが本来の人格を捨てて別の人格になることで、普段心の底に秘めている粗暴な心理が表面化しやすい空気に溢れていたのではないか?と僕は考えています。心理学も社会学も専門ではない、あくまで一般人な僕の仮説だけど。

 

 ただ、この仮説の是非はともかく周囲の空気に左右されることのない「個」のモラルのあり方っていうのは考えたほうがいいと思うよ。そうでなきゃ今後、行政によるハロウィンの規制とかいう話になっていっても文句はいえねーぞ。

 


 

 

今週のお題「ハロウィン」