サブカル 語る。

サブカルチャーなどについての雑談

戦争を知らない子どもたちは「戦争」をどう語るべきか

こんにちは。

 

 昨日は敗戦記念日終戦ではありませんよ。「敗戦」です。日本が「国益を守る」という大義名分のために、多くの国民の生命や財産、権利などを犠牲に強いて戦った挙句、大敗を喫しただけという最低な歴史を振り返り、もう二度とその愚行を繰り返すまい!と強く誓う節目となる日です。バカなネトウヨたちは「その犠牲のおかげで今の日本があるんだ」とこれまたアホな主張をデカい声で語っていますが、その犠牲がなかったら、犠牲を強いた戦争がなかったら嘗ての大勢の日本人は家族や友人を囲んでうまい飯を食い、遊び、語らい、互いに笑いあって幸せで平和な歴史を生きてこられたことでしょう。彼らは平和のため犠牲になったんではありません。国が権力を使い犠牲を押し付けることで幸せを奪われただけです。

 

 さて本題。「ガラスのうさぎ」などで有名な児童文学作家の高木敏子さんが自身の体験を交えた講演で、最近「戦争発言」で騒がれた丸山穂高にこう発言をされたそうな。

 

hochi.news

 

以下、リンク先を引用

 

講演の中で高木さんが「丸山っていう代議士が北方領土に行って、4島を取り返すそれには戦争しかない。もうぶん殴りたいぐらい」と憤りを露わにした。

 

 この発言についてツイッターではまた人間の心を解さない、解せないバカが「平和主義者のくせに暴力発言」などと揶揄する声が散見。そんなアホは少数派と思いたいところだけど、たぶん高木さんはバカな丸山に、というより、最近の「戦争」を巡っての軽々しい発言やそれを許すこの国の空気そのものを、ぶん殴ってやりたいと思っているんじゃないだろうかと思うのです。戦争によって大切なものを奪われたことも、奪ったこともない奴らが「あの戦争には正義があった!」なんてほざいている。その人数は確実に増えており、もはや単なる少数派でもないのかもしれない。としたら実に愚かなことです。僕が高木さんと同じ立場だったら、ぶん殴ってやりたいどころか突っ走って言葉よりも先にぶん殴っているかもしれません。

 

 とはいえど。そういった発言などに対する僕の憤りも本当に自分のものなのかな?とついつい考えることも少なくありません。戦争という体験を持たない僕が、戦争体験者と同レベルの説得力を持った言葉を発せられるのかという疑問があるためです。

 

 今から10年ほど前のことになります。僕は多摩地区で行われたの戦争体験者の集いで戦争体験話を聞く機会があり、そこで頭を殴られるような経験を味わったのです。戦争体験者の数人から「二度と戦争は嫌だ。戦争を若い人に体験させてはいけない」という話をきいたこともあり、僕はやっぱみんな同じ想いを抱いているんだな。と思い込んでいたのです。そんな決めつけから話を聞き続けていた時、ある人から「もし今度戦争があったら徹底的に仕返ししてやりたい」という話に触れて、僕は思わず言葉に詰まったのです。たくさんの人を犠牲にする戦争。もしまたあったら復讐してやりたい。その思いがけない答えに「ふざけるな!」と怒鳴りたくても戦争を知らない僕にはその資格がない。戦争の復讐を戦争で!なんてふざけた答えだと今でも思っていますけど、戦争を味わっていない僕が何をいったところでその老人には単なる「絵空事」でしかない。その老人の解答も、是非はともかくとしてこれもまた「戦争」だと理解できているけど感情で納得できない。だけどこの戦争体験から来ている言葉を僕や社会は目を背けてはいけない。情報だけで語る戦争肯定と体験を交えて語る肯定のどちらが愚かなのか?そんな逡巡を、未だ引きずり続けています。たぶんこの先も。

 

 戦争なんて間違っている。大勢の人たちを暴力に巻き込んでいく政治なんて、絶対に許されない。認めない。その思いは揺らぐことはありません。だけどそういった言葉を僕よりも若い世代にどう伝えていくべきか。戦争というリアリズムをもたない僕たちが戦争という愚行をどう語るべきか。これは遠くない将来に待っている課題だけど、そのリアリズムを補うのはやっぱり物語、サブカルなのか。そのサブカルも最近は、こんなバカが幅を利かせている。

 

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どうしたものかねぇ。