サブカル 語る。

サブカルチャーなどについての雑談

誰も騒がなくなったから今こそ、幽奈さんのエロ表紙の問題を考える

こんにちは。

 

 今月もブログを全く更新せずにいて、気づいたら月末。皆さんお元気でしょうか。

 本日は前々からずっと書きたい。と思っていたテーマを取り上げさせてもらいます。これを皆さんは覚えていますか?

 

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 これは昨年、このブログでも取り上げた週刊少年ジャンプで連載中の作品「ゆらぎ荘の幽奈さん」のカラー表紙です。この半裸の幽奈さんの裏表紙にはタピオカをテーマにした番外編の短編が収録されており、

 

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 この裏面を光にかざして覗いてみるとピンク色のタピオカ部分がセミヌードの幽奈さんの乳首に見えるという演出になっており、それを批判させて貰いました。

 

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 最近はオタクのエロや現実の女性に対する態度が目に余ることもあって、オタク批判の文脈で記事を書くことも多くなりましたけど、今回はあくまでもひとりのマンガ読みという視点からこの表紙がいかに読者を(意図的でないにせよ)ナメているかについて説明をさせてもらおうと思っています。

 

 

 

そもそもマンガってなに?

 本題に移る前にこの点について考えてみましょう。そもそも、漫画ってなに?これについては多くの識者が語っているけど、ここでは手塚治虫の発言に従い、以下の通り定義をさせていただきます。

 

マンガとは「記号」である。

 

 記号っていわれても、ピンときませんよね?では手塚の発言をここで引用。

「僕の画っていうのは驚くと目が丸くなるし、怒ると必ずヒゲオヤジみたいに目のところにシワが寄るし、顔が飛び出すし。そう、パターンがあるのね。(中略)このパターンとパターンを組み合わせるとひとつのまとまった画らしきものができる。だけど、それは純粋な絵画じゃなくて非常に省略しきった記号なのだと思う。(中略)僕は画を描いているんじゃなく、ある特殊な文字で話を書いているんじゃないかと思う」

1979年「ぱふ」より

 

 簡単に言うと手塚は絵でなく記号を使って物語を書いているんじゃないか?ということを述べています。つまり手塚はパターン化された図形と線でキャラを描いており、そのキャラはまるでイラストというよりも単なる記号の集合体なのではないか?と語ってるのです。この話、後々重要になってくるので覚えておいて下さい。

 

 次。手塚は先述のとおり自らのキャラは「記号」だと述べています。ただその言及は手塚だけに言えるものではなく、マンガの本質を言い表してもいる。現在でこそ漫画は数年、10数年もの年月をかけて壮大なドラマを楽しませるストーリーテリングの技法にまでなりましたが、本来的には1話単位での短編や4コママンガみたいな、単純な起承転結を語る小さな物語集でした。

 

 キャラたちはそれぞれの閉じた世界の中で年を重ねることもなく、箱庭みたく閉じた空間でその日その日のエピソードを披露する。サザエさんこち亀の両津、ドラえもん。その他、etc。キャラたちはその世界で固定されている年齢に応じた行動を取り、成長することなく終わりのない日常を生き続けていくのみ。それが許されているのはキャラたちの本質が「単なる記号の集合体」だからです。記号の集合体だからこそ、キャラたちは殴られてケガをしてもその時に頭に大きな絆創膏が貼られる描写だけで、場面が変わったらあっという間に元どおり。両津がトラブルを起こして派出所やその周辺などを爆破しても当の本人や周囲の人は「いてて・・・」と軽いケガだけで、ページが変わったらこれまた元どおり。このような不老でタフ、無敵でいられるのはキャラクターがケガの描写で例えたみたく、あらゆる事象がデフォルメされて描写される非現実な世界の住人だからなのです。

 

記号でリアリズムを描いた手塚

 ところが。手塚はその記号でしかない非現実な世界の住人で「物語」を描いた。それはどういうことなのか?話は太平洋戦争の頃に遡ります。本人が自伝などで述べているとおり手塚は子どもの頃から根っからのマンガ少年。いつでもどこでもマンガを描いていました。その手塚少年も「太平洋戦争」の空気を受けたせいか好戦的とはいわずとも戦意を高揚させるような作品を描くようになっていき、ある日こんな作品を描きます。

 

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講談社現代新書:教養としてのまんが・アニメ(大塚英志ササキバラ・ゴウ

  

  

 この4コママンガは防空壕にいた少年「フクちゃん」が外に飛び出して逃げた時、敵国の戦闘機から機関銃で胸を打たれている場面です。この作品の3コマ目を見ると、本来目にもとまらぬ速さで狙ってくる銃弾はまるで槍のように描かれており、フクちゃんの足もこれまたバタバタと残像が見えるほど素早く描かれている。まさに作品そのものが現実的にはあり得ない描写の集大成です。

 

 ただこの胸を打たれたフクちゃんは生々しく血を流した後、その場に倒れて動きません。フクちゃんが記号の集合体であり、述べてきたマンガの定義に忠実なデフォルメ世界の住人なら次のページでは「痛てーなー」とか言ってゆっくり立ち上がり、また全速力で戦闘機から逃げ回るはずなのです。だけども、手塚はそれを描写しなかった。というよりもそんな非現実的な表現を描けなかったというほうがおそらく適切でしょう。

 

 手塚の少年時代が「戦争」というものに晒されており、常に生命の危機にあった。というリアリズムが、エンタテインメント性を持った無敵でタフなキャラクタを描かせなかった。つまり「身体性を持たない記号の集合体」であったフクちゃんは、物語の中で戦争というものを味わった「手塚の身体性、感情・主体性」を背負わされてしまったのです。人間は身体性によって感情を発達させる生物ですが、手塚の身体性の具現者となったフクちゃんも戦争に対する負の感情とそれに対する主体性(手塚治虫のコピーともいえる主体)を持つこととなった。そんでもってそのフクちゃんの主体は物語でキャラが怪我をしても「痛てーなー」だけで済む世界の非現実的な物語に生きることを許さず、結果、現実的な世界に生きることになったのフクちゃんは立ち上がることのできないケガを負ったのです。

 

 このフクちゃんが銃弾を浴びた瞬間、細かくいうとキャラが身体性、それに伴う主体(あくまでも作者の主体の反映)を得た瞬間こそ日本の戦後漫画のスタートである。と先ほど引用した本の著者、大塚英志は述べておりこの大塚説には異論もあるけど僕はこの説をベースにサブカルと物語についてを考えています。

 

所詮漫画なんて記号だ!と言い放った作者

 長い話になったけども、ここらへんで幽奈さんの話題に戻っていきましょう。何度も述べた通り身も蓋もないことをいわせてもらうと、所詮マンガなんて「単なる記号の集合体」です。だけど僕たちはその記号の集合体に対して想像力を働かせ、キャラの感情や行動に想いを馳せてマンガの中にあるリアル、つまり物語を味わってきた。それは多少ロマンチックな言い方をさせてもらうと、作品やキャラを通じた作者のリアルとの対話でもあります。作品と作者の人柄は別であるという人もいて、確かにそれはそれで正論です。だけどみんな、本当にそんなクールに割り切っています?そうだ!というならそれはたぶん、ウソですよ。そんなにみんながクールならクリエイターの発言に支持が集まったり怒ったりなどの騒動なんて起きない筈だから。

 

 幽奈さんだってエロだけでなく「物語」に共感できるから好きという読者も少なからずいるだろうと思います。でも、この作者は僕に言わせれば幽奈さんというキャラクターを「記号に分解」したのです。意図的じゃないだろうけどセミヌードとタピオカに分解して、表裏を透かしてキャラを見ればあら不思議!乳首の見える幽奈さんのイラストになるぞー!という演出で「所詮、お前らの好きなキャラは線と図形の集合体でしかないんだぜ!」と読者に見せつけた。ということになる。これは言ってみりゃ幽奈さんのキャラ性の全否定そのものと言ってもいい振る舞いであり、作者の裏切りでもあるといえるのではないのか。こんなに読者をバカにした話はないと思う。心あるファンならこんなの激怒案件だと思うよ、いやマジで。

 


 

 

 写実を目指して発達した絵画とは逆に、事象を単純な線と図形でデフォルメ化することで発達していったマンガ。その漫画がひとりの少年の味わった戦争をきっかけに作者の生きる世界と連なっている「リアル」描くための表現方法として進化していったプロセスを考えてみると、なんと逆説的なんだろうかとつくづく思う。そういった戦後漫画のプロセスを知らず、キャラを記号に分解したエロで楽しむ作者、オタクが情けない。