サブカル 語る。

サブカルチャーなどについての雑談

「僕たちには直接関係ない」問題への間接的な責任について考える

 

 

こんにちは。

 

 一ヶ月ぶりですが、前回のブログの続き。

 

arrow1953.hatenablog.com

 

 この記事を書いて以来、僕は「僕らには直接関係ないよな」という問題についての『責任』について考え続けています。

 

 「自分に直接関係ないけど大きな問題」というのは世間をぐるっと見回すと結構多くあるものですが、僕らはそれに当事者意識を持てないためか、結局どれも「他人事」で片づけがちです。所詮ジャニーズの性加害問題も大手の中古車メーカーの詐欺的商法も宝塚歌劇団が長年行っていたと思われる劇団員のいじめも「他人事」でしかない。でもその中で「関わりない問題でも、自分も何らかの責任があるのではないか」と考えてみる。100年以上も前からその行為の重要さについて述べていた哲学者「清沢満之(きよさわまんし)」についてこのブログでは浅学ながら語ってみたく思います。

 

 清沢は著作「精神主義」というテキストで『全責任主義』という思想について述べています。社会学者の桜井哲夫が著作「フーコー」で紹介した清沢の全責任主義について下記のとおりまとめているので紹介。

 

『私という存在は過去すべての人々、物、自然などすべての環境の結果として生まれてきた存在である。そう考えると万物が私に属するものだと考えられる。宇宙万物がわが物であり、すべての人が我が子であるなら、私はすべてに対して責任があることになる。むろん、私には限界がある。私は有限な存在であるから万物に責任を持っていても全てを果たすことは出来ない。ここに哲学上の難問(アポリア)が生まれる。責任がありながらも、果たせない「自分」という存在について深く考え抜くこと。おのれがすべてに依存する存在であることを自覚し、おのれの欲望のままに生きることを反省すること。(中略)』(講談社選書メチエ_桜井哲夫_「フーコー」)

 

 清沢の主張は一見「郵便ポストが赤いのはお前にも責任がある!責任はあるがその責任はお前に果たせない!」みたいな話に思えるのでそんな話をされても「何言ってるのこの人?」と首を傾げたくなります。だけどこの全責任主義のポイントは責任そのもの云々ではありません。「人間っていうのは社会という枠組みの中で生きているからこそ誰でも大なり小なりその枠組みの中にあるすべての事象とは関わりをもっている。そのことを自覚して事象に何か問題があるとしたらその責任を他人に押し付けるのではなくまずみんなでその問題を自分のことと捉えて考えていこう。考えて生み出された意見を机に並べて、知恵を絞ってみんなでそれら問題解決の道を探そう」という点にある。と僕は思っています。  

 物事に対する責任を他人だけに負わせるのでなく、自分もその責任を共有すること。それはいつ頃からか僕らの社会を覆う「自己責任」「他者責任」とは異なった思考です。それを語ってみても『自己責任』思想で固まっている人には「甘い理想論」でしかないかもしれない。

 

 だけどこの自己責任・他者責任っていう思考は結局、社会の分断を生み出して問題を細分化させたり、僕らのメンタルを疲弊させているだけなんじゃないか?って最近強く感じています。確かに物事をなんでもかんでも「自己責任」というフレーズで片づけられたら当事者でない人たちはラクなのでしょう。さっきも述べたけれどジャニーズや中古車販売業者、宝塚歌劇団の不祥事も結局は関わりのない他人事です。だけども、その関わりのない他人事に自分との関連性を見い出して想像力を働かせることのできる人が多い社会のほうがラクで生きやすいと思うんだけどね。

 

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※この自己責任っていう言葉の暴力性に気づいていない人が結構多くて驚く