サブカル 語る。

サブカルチャーなどについての雑談

サッカーW杯の観戦バカ騒ぎから離れたらストレスがめっきり減った

こんにちは。

 

 今月から始まった2022 FIFAワールドカップカタール大会。皆さん観てます?いやーっ日本代表、ドイツに勝ってよかったっすねー!コスタリカに負けて残念でしたねーっ!と呟いてみたものの、まともにどの試合も観ていないので実感もありませんな。

 

 なに?そんなことわざわざ書くな。いやいや、ブログっていうのは毎日の生活の中でブログの書き手の思った、感じた「いいね!」を語ることなんだから「W杯を観るのをやめたら、生活が快適になった」って語るのもアリでしょう?

 

 サッカー日本代表が世界の大舞台で強豪国相手に勝利!僕だってそりゃ嬉しいです。今回のドイツだけでなく、過去の大会でも日本が多くの強豪国に勝ったり、苦しめたりなどの姿を見るのはやはり痛快です。だけど、ふと同時に対戦国に対して「この国相手だと強すぎて勝てない」と卑屈になったり「この国は弱いから勝てるぞ!」とか勝手に相手を見下したりするのに疲れた。勝って嬉しいよりもそういう感情に振り回されたりするのがアホらしくなったと思っていたら「W杯を観ない」選択となった。というだけのことです。とはいってもその話題にまったく触れないのも不可能なので結果だけはネットやTVニュースで情報を仕入れますけれど。

 

 オリンピックもそうだけど、スポーツの国際大会って一度距離を置くとほんとどうでもよくなってくる。それは他人から「つまらない奴」などと思われるだろうけれども、日常の一喜一憂が減るってのも案外快適だよ。その感情のアップダウンもたった2~3週間程度のお祭り騒ぎと思って騒いだり楽しめるならおおいに結構。だけど、ドイツ戦とコスタリカ戦を振りかえっての歓喜や失望、リーグ戦途中での「捕らぬ狸の皮算用」な勝ち点計算、対戦国と日本の過度な情報などそれらをどこか鬱陶しく感じているなら、「2022W杯を楽しんでいる自分」を思い切って手放してみるのもいいと思う。

 

 

 そもそも僕がサッカーのワールドカップに全く関心を持てなくなったのは前回から。

arrow1953.hatenablog.com

 

 筋のとおらないハリルホジッチの解任に納得できず「こんな道理の通らない代表など応援できるか!」と僕が勝手に怒り、大会のTV観戦をやめたという話をブログで述べたところ「俺らが大会を楽しんでいるのをジャマするな」だの「自分の意見を押し付けるな」だのたくさんの意見をいただきました。別に誰も押し付けておらず、ただ「俺はTVでワールドカップ見てねぇぞ」って書いただけなんだけどね。だけどこんなマイナーな雑感ブログを読んだだけで「楽しい」という価値観が揺らいだり、気分を害するなら最初から興味を持たず、観なけりゃストレス溜まらんぞ。とは思います。

 

 


 

 

※リンク先の本にあるかどうかわからんけども、ここで次戦国スペインのトリビア

 

「スペイン国歌には歌詞がない」

 

 

「表現の自由」「エロ」について考えるなら、土田世紀の編集王を読むべきだ

こんにちは。

 

 今日のブログのテーマは「表現の自由」。だけど今回は僕ではなく、ある漫画で語られた「表現の自由」についての見解から、その辺について考えていきたく思っています。その作品とは土田世紀の「編集王」。20年以上前に小学館の「週刊ビッグコミックスピリッツ」で連載された作品です。

 

 

編集王の物語について

 物語は小学生の頃に「あしたのジョー」を読んで感銘を受けた「桃井環八」が主人公。環八は「俺もジョーになりたい!」と誓い、プロボクサーになったもののなかなか勝てずに伸び悩んでいました。

 そんなある日、環八は健康診断で「網膜剥離」と診断を受けてプロ引退を余儀なくされることに。アパートにはあしたのジョーの単行本全20巻だけを持ち込み、他の生活道具は必要最低限。10代から現在までの青春全てを捧げたボクシングを奪われて「ボクシングのない世界で、あしたのジョーみたく生きられるのか」と深い絶望を味わいます。

 その絶望から環八を救ったのは環八が子どもの頃から「ヒロ兄」と呼び、慕う兄貴分の「青梅」でした。青梅は「お前の人生はジョーみたく全20巻ではない。お前には明日も明後日も来る。ネクタイを締めたリングもある」といって自分の勤める漫画誌の編集部にアルバイトで誘い、環八もその編集者の中でのチャンピオン「編集王」になる!と新たな夢を抱き、日々奮闘。

 まぁ、大まかな物語はだいたいこんな具合でしょうか。その編集王では漫画編集という職業をクローズアップして漫画の制作や表現などに関わる問題について作者が多くの想いを読者に投げかけてくるのですがあらためて読み直すとこの作品、「エロ表現と漫画」はどうあるべきか?というテーマが根底にあることに最近気づきました。その中から、今回は「コミケ編」をピックアップして作者は「表現の自由」についてどう考えていたかを紹介したく思っています。

 

表現の自由」と「エロ」

 この「コミケ編」では環八が、同僚の本占地の趣味であるコミケの話を聞き、新人発掘にうってつけと意気込んで本占地とコミケ会場へ。会場では多くのアマチュアが作品を売り買いしており、そこで環八は制作に携わる雑誌連載のキャラが凌辱されているだけの同人誌を発見。その同人のエグさを嬉々として語るサークルに環八は怒ります。

 

 

引用_小学館編集王土田世紀

 

 他人のキャラクターを勝手に使ったエグい凌辱のオンパレード。環八の怒りや非難について、エロ同人本の愛好者たちは「表現の自由」を語ってこう主張します。

 

「俺たちは表現の自由の名のもとに主催者から許可を得ている。あんたは不愉快でも俺らにとってはファンタジーなんだ!」そのオタクの主張に対して、環八も暴力混じりの反論。

 

引用_小学館編集王土田世紀

 

「何が表現の自由だ!汚いケツの穴を広げて見物料取ることのどこが表現だ!」と。そしてエロ表現への嫌悪から同人やコミケそのものまで否定的な環八の暴走で騒然となった会場である男性が叫びます。

 

コミケみたいな楽しみ方や関わり方も立派なマンガファンのものだろう?」この人物こそ、コミケの実行委員長「四面道渡(しめんどうわたる)」。エロを「表現の自由」と言い張るオタクたちに納得できない環八と四面道はコミケ表現の自由のあり方についての意見をぶつけ合います。

 

コミケは本来、漫画を通じた学校の文化祭のようなもの」という四面道に「そのコミケでエロ本を売るのを許可するのはなぜか」と問う環八。それについて四面道は「やりすぎなサークルも確かにあり、それは自分も嫌いであるのと同時に迷惑」といいながらもこう続けるのです。

 

「それでも多くのサークルは健全で、みんなその中で純粋に遊んでいる。その遊びすべてを包む風呂敷がこのイベントであり、風呂敷だからこそサークルの表現形態に規制をかけないのが委員会の鉄則なのだ。毒なサークルもあるが『表現の自由』を守るためそれらを認めざるを得ない。だからこそサークルのモラルを信じるほかない。どんな表現の自由も包む風呂敷という美学がコミケの本質」

 

 環八はエロは理解できないが「コミケについての説明は筋が通っている」と納得。そのうえで巨大ビジョンからコミケやそこに携わる人たちに「誤解して迷惑をかけてごめん」と謝罪。でもやっぱりエロは納得できないものとしてこう語りかけます。

 

表現の自由はやっぱり見てくれる人あってだろ?なんでこんなもん(エロ)を描くのかを人に聞かれたら、ちゃんと答えられる動機は用意しておけよ」

 

表現の自由」についての「理由」を理論武装できるか?

 この作品で描かれたのは90年代。作品そのものも「荒唐無稽」とか「エロ、同人を見下している」など賛否も多いものではあります。ただ、この頃から作者の土田はエロな表現が物語を離れてひとり歩きすることを憂慮していた。ということはできます。

 この物語でコミケのブースの一角にある世界でしかなかった「エロ表現」はコミケの枠を越えて巷に溢れており、コマにあるオタクが「あんたは不愉快でも俺らにとってはファンタジー」だと語ったエロは、現在のオタクがその不愉快を訴えている人たちに噛みつくための道具になっている。「エロは他者の『不愉快な感情の自由』を侵害していても守られるべき『表現の自由』」であるとして。この作品でエロ表現を見た環八の叫ぶ「(エロ)は何も表現をしていない」っていうのもある意味暴言で、エロを「こんなもん」呼ばわりをする物語はエロを下に見ている!という批判も当然な面もあります。

 ただやっぱり自分たちの好むエロが社会、他者からはどう見られているかということを「表現の自由」を大義名分にして考えない、見ない聞こえないふりというのは卑怯だよなとは思う。「どうしてこんなエロ表現を大勢の目に触れさせたいのか?」と聞かれたら『表現の自由は認められているのにお前らはどうして文句をつけるんだ?表現の自由の侵害だ!規制だ!弾圧だ!」とか妄想めいたことを叫ぶ前に「こういうエロが好きだから町のいたるところで観たいんですよ」と素直に答えりゃいい。まぁドン引きされるだろうけど。なに?わざわざエロを街でみたいからではなく、表現の自由を守るため反論しているだけ?だったら否定派側の主張も「批判」という表現なんだからその自由をあんたも守って否定派側の主張の自由も保証なさい。

 エロ好きは誰にも否定されるものではないし、当然それを愛する権利だってある。だけどオタクたちのエロな価値観が「風呂敷」を飛び出してエロを街に溢れさせた以上、それに異を唱える意見に対峙しないのはやはり無責任だと思う。エロ表現に否定的な声を受け続けてもオタクにとっての都合のいい「表現の自由」を手に入れたいなら、万人の納得できる理論武装でそれを使って否定派の意見に挑んでやるぜ!ぐらいの気概をもっていただきたい。そういった気概もなく、ただ「表現の自由」を叫んでみたって誰も相手にせんぞ。

 

 


 

 

※この作品を改めて読み返してみたら、「物語とエロ」についてかなりの部分を割いているのに気づいた。どちらかというとエロに否定的な立場の主張が多いがそれでも物語における「エロ」について、作者なりに掘り下げたというのが強く伝わってくる。

 

 

テーマ

 

「ひろゆき」っぽいものに「イイね!」をつけた、つけたくなったあなたに。


こんにちは。

 

 先月書いた記事で、僕はキャラの肌の色に抱く違和感から「差別」を考えるために、このような記事を書いてみました。

 

arrow1953.hatenablog.com

 

 白人のイメージが強いキャラがその枠組みを越え、白人でない人も物語で重用されるようになった風潮について多くの人が「差別ではない」という前置きをしながらそれについて違和感を唱える。その「違和感」は差別ではないのか?っていうテーマを嘗て、日本人や白人でないキャラが主人公のアニメを避けていた自分を振り返って考えていくのがこのテーマでした。その記事についていただいた感想が嬉しかったので、ご本人の快諾を得て紹介させていただきます。

 

 

 墨汁さんはこのツイートで「AMみたく白人でない∀のロランについては違和感を抱いていなかった。だが確かに白人や日本人でないルーツを持つ人やアニメキャラを目にする時、違和感を抱くこともある」としてその違和感を認め、そこから差別についてを考えることは「どこかにある差別意識」に抗うために重要なのではないのか?と意見を述べてくれました。

 ブログを見てくれた人が僕の「差別体験」を取り込んで、そのうえで差別についての考えを言葉にしてくれた。これは文章書きとしてはとても嬉しいことです。

 

 この情報の「身体化」「言語化」は社会への理解や他者性を育てるためにも大切なものだと僕は思います。以前、ガンダムで有名な富野由悠季監督がたまたま斧を手に持った時「あぁイヤだな」という想いが沸き起こったそうな。富野さん自身は小学生のころから薪割りで斧を使っているけど、その感覚を忘れている。だから「斧で人を傷つけたりすることもできるんだ」という感覚を人間は体験的に学習しておくべきだと思う。と語っていました。その「斧で人を傷つけることもできる」という感覚の体験的な学習を経たからこそ富野監督も斧を「イヤだな」と思えたのでしょう。つまり、これこそ先ほどから述べている情報の「身体化」「言語化」っていうこと。その感覚を育てておかなきゃロクな人間にならんぞ!という話です。

 

 さて。その情報の身体化と言語化と並べてこの問題を考えてみたいと思います。

 

以下、記事の引用&リンク

diamond.jp

 

 10月3日、「2ちゃんねる」の創設者で、現在はコメンテーターとしても活躍する西村博之氏(通称ひろゆき)が辺野古のゲート前を訪れ、「座り込み抗議3011日」の看板の横で笑顔を浮かべる画像とともに、こうツイートした。

「座り込み抗議が誰も居なかったので、0日にした方がよくない?」

 

ー大袈裟太郎

ひろゆき氏を直撃「辺野古座り込み抗議」で議論、SNSに溢れる沖縄巡る誤解の数々

よりー

 

 この座り込み抗議を茶化すような呟きを見て富野さんでもないけど「イヤだなぁ」という思いを強く持ちました。それはこのツイートを身体化するプロセスで、嘗て自分にとって不本意なものを強制させられた時に「異議」を叫んでいた光景を思い出したからです。皆さんにもそういうのありませんか?家庭でも、学校でも、職場でもなんでもいい。問題が大きくたって小さくたっていい。皆さんは、「イヤだ」と思うものに対して声を上げたことはありませんか?あなたがそういう時に声を上げていたとしたら、それをふざけた態度で笑うような人をどう思いますか?それは「いいね!」を押すに値する人ですか?笑われている当事者の怒りを前にふざけながら「論破!」とかいう人をカッコいいと思いますか?

 

 それでも「ひろゆきっぽいもの」をカッコいいと捉えるなら何も言いません。ただ、嘗てのあなたが何らかの不本意なものに抗い、怒りを抱いた経験があるなら「ひろゆきっぽいもの」を見てそれを身体化した時「イヤだな」という感情を持ってそれらを言語化できるのになと僕は思う。

 

 


 

「肌の色の違い」を僕らはどのように組み込んでいくべきかを考える

こんにちは。

 

 めっきり涼しくなってきましたが、あいかわらず「サブカル」分野では「人権」に関わってくるアツい話題が聞こえてきたりします。その中でも僕が最近注目しているのは物語における「人種問題」。具体的にいうと指輪物語のエルフ役やディズニーの「リトル・マーメイド」の主役アリエル姫など、物語の映像化で重要なキャストにおける白人の俳優優先起用からの脱却が進んでいるそうな。

 

 

 



白人ではない人たちが主役の物語

 

黒人差別とかじゃなくてアリエルはアリエルっぽい人にやってほしい」「アニメで親しんだアリエルのビジュアルが完全に無視されて悲しい」「アジア人でも黒人でも白人でも、誰だってアリエルになれるでしょ」――。

9月9日、アメリカのウォルト・ディズニーが公開した実写版『リトル・マーメイド』の予告編をめぐって海外のみならず、日本でも議論が巻き起こっている。

この予告編では、アリエル役のハリー・ベイリーがバラード曲 「パート・オブ・ユア・ワールド(Part of Your World)」 を歌っているが、この映像を見た人から「白人」の役を黒人女性が演じることに対するさまざまな反応がネット上で繰り広げられているのだ。

「実写版リトル・マーメイド」日本人が批判のなぜ | 映画・音楽 | 東洋経済オンライン | 社会をよくする経済ニュース

 

 以前に作られた作品で登場人物が白人だったため、白人でないキャスティングに強い違和感を感じている。それは人種差別に基づくものではない。と多くの人が信じているみたいなのだが、はたしてそうなのだろうか?とこの記事は僕らに「ドキッ!」とする疑問を投げるのですけど、僕はひどい性格なので更に突き詰めていきます。

 

僕らは「白人ではない人」を見ていない

 たぶん、コレ僕自身の反省を含めていうけど「以前の作品」などがなくても違和感を抱く人は多いんではないのかって思うんですよ。むろん僕は記事にあるアホみたく差別的発言を呟こうと思いません。ただ正直いって、白人でないエルフとアリエル姫を受け入れるのに一呼吸、数秒の思考は挟みました。そもそも実際にみたことのないキャラクターたちの肌の色の正当性を論議するというのも不毛なんだけど、この違和感って何なのかと考えていくとおそらく僕らの根源にあるのは「物語のヒーロー、ヒロインは白人か名誉白人(皮肉)」とでもいうべき価値観が根深く刷り込まれていた。ということと同時に「僕らは現実の登場人物としても日本人以外の白人ではない人たちをさほど重要視してこなかった」っていうことなんではないか?って思えるのです。街のいたるところで働いたり生活して、この国を支えてくれている仲間でもあるのにも関わらず、僕らは彼らをろくに見ていない。そこで「ナディア」とか「∀ガンダム」とかを出すなよ。後で述べるから。

 

やっぱりありゃ僕の差別だったな

 先述した「ふしぎの海のナディア」と「∀ガンダム」。これらの物語の主人公は肌の色が明らかに白人と異なり、その頃子どもだった僕はかなり戸惑ったのを覚えてます。ナディアは中3の頃の放映だったので「受験でアニメとか観ている暇はない」∀は大学卒業を控えていた頃の放映だったので「就職活動でアニメどころじゃない」というもっともらしい理由でほとんどリアルタイムで観ていませんでした。

 そんなこんなで数年後。大学を卒業後に紆余曲折を経て都内多摩地域をエリアとするタウン新聞のライターになり、取材担当エリアだったあきる野市をたまたま回っていた時でした。ランドセルを背負った小学生の下校グループが近くにあってふと目をやるとそこには日本人の子数人と黒人の子が仲良さげにふざけ、帰路についている風景があり、思わず釘付けになったのです。道徳の授業で「人種差別」などを学び、そういったものを許す社会はよくない。とは思いながらもいざ、異なる人種の人たちなどと接する際にはどこかで構えてしまっている。そこが自分の限界であり、大多数の人もおそらくそうだろうと考えていたけどそんなことはなかった。目の前の小学生グループに自分がいかに古い人間かということを知らしめられて、情けない思いをさせられたのと同時にこの子たちこそ「希望」なんだろうなとも思った。そして嘗てのナディアや∀に想いを馳せて「やっぱありゃ人種差別に基づいた違和感で観ていなかったんだろう」と、潔く認めたのでした。

 

差別意識を捨てなきゃ、君も僕も置いてけぼり


 そんでもってさらに10数年後。再び湧いてきた物語キャラおける「人種問題」。この問題については他人をどうこういうよりも、自分、まったく成長してないな。っていう思いのほうが強くて情けないやら。ここはあらためて、自分をアップデートさせていかなきゃならない。物語だけでなく僕らのいる現実でも日本人以外の白人でない人たちを重要視しなきゃいけないな。という想いを強く持っております。なに?ポリコレ?いい子ぶるな?そう思いたいんならどうぞ。ただ、そういうことを言う人の想像よりも早くこの社会の変化はまだまだ段階的ながらもすさまじい。それらを見て見ぬふりしていて取り残されても俺は知らん。

 

 


 

 

 

 

 

「何者にもなれない」とはどういうことかを自分なりに考えてみた。

こんにちは。

 

 この2ヶ月、業務業務で明け暮れていたためにブログも全然更新できませんでした。待っていた読者さんごめんね!待っている読者がどんだけいるんだか知らんけどさ。

 

 なんだかんだで気づいたら今年の8月も終了。暦のうえではとっくに立秋をすぎて秋になっているんだけど昭和の義務教育の習慣?で昨日の「8/31」を過ぎて夏が過ぎ周囲の空気も秋になってきているなと思わせる今日、この頃。相も変わらず僕は業務で毎日走り回っています。

 

 さて本題。こんな風に過ぎゆく夏に僕は毎年、少々複雑な思いを抱えています。遡るは20年前の7月。この頃、僕はあるアニメ会社の制作進行になりました。大学卒業に備えて映像制作会社に絞って就職活動を行ったものの、どの会社でも採用ならず。考えたらこの頃って、映像業界だけでなく多くの業界でも就職氷河期でどこでもいいから「内定」を求めて多くの友人も駆けずりまわっていました。映像業界に絞った就職活動なんて、考えてみたら世間知らずもいいところ。結局のところ実写映像を手がける会社はどこもダメだったために「秋から本格的な就職活動をスタートさせる」という、ある大手のアニメ制作会社ほか複数の会社を受けることに。そこでの面接で披露した「一人芝居」をある大御所の監督さんがすごく気に入ってくれたと、その大手制作会社に就職していた大学のOBからメールで教えてもらい、実質これって内々定だろ!!と大喜び。もう調子こきまくりでした。
 だけど。社会はそう甘くもない。その後、その内々定もとある事情でなかったことになってめでたく就職浪人。その一人芝居を気に入ってくれた監督さんからはメールにて「今回の結果はとても残念に思う。だけど、アニメ業界は狭い世界。とりあえずどこかもぐりこんでいて欲しい。機会や縁があったら一緒に仕事できたらいいと思っている」という励ましをいただいたため、通年募集の会社を手あたりに次第探して面接を受け、数か月後に契約社員としてアニメ制作にはなれたのでした。

 なるにはなったけれど、制作のスケジュール崩壊手前の作品をサポートする係になり、制作工程を覚えることはできても直接の仕事はできない。海外に発注した原画や素材の受け取りを中心とする「パシリ業務」を延々と続ける毎日でした。ただ腐ってはおらず、自分が誰よりも多く、遠く走り回ることでスケジュールが改善できるなら徹底的に走ってやろうという想いをいつも持っていた。プロデューサーにも「やる気だけでいったら制作部でもたぶん1番」と言われたことモチベーションになっていたんでしょう。

 秋になって僕もやっとのことで新番組の担当部署に配属。さぁ、やるぞとか思ったらここでも立ち上げに時間がかかったため、新人の手には負えない。最初はベテラン制作で!とのことでまたもや本格的な業務はお預け。雑務サポートを延々続け、年明けから正式な番組づくりの担当に!となると思っていたら、まさかの番組打ち切り!そんで、その後も雑務を続けていたら会社のお偉いさんは人が多く持てあましているために僕が雑務を行っていると思ったみたいで、会社は僕を「クビ」にしました。いやー。マジで「裏切られた」と思ったわ。プロデューサーはお偉いさんに僕の事情を説明してくれたそうなんだけども、会社は意向を変えず。それをどこかからの情報で知ったある制作会社の編集さんは別の会社の人と引き合わせてくれて「よかったら紹介するよ」と言ってくれたんだけども、その頃には「裏切られた」という想いや「どうせ、また雑務の挙句クビだろ」という被害妄想が強く、それを素直にうけることができませんでした。その後、後述するように職業を転々と変えて現在にiたる。友人から「リアルFFV」と言われたのはちょっと笑った。

 

 ただ、どんな雑務でも全力で挑もうという心構えは、この経験が育ててくれたのだともいえる。後にライターや「CCNA」「CCNP」を独学で取得してネットワーク技術者になるなど多くの職業を経験することになるのですが、会社の事情などで離職の際にはほぼ必ず、誰かしらからの「手助け」を僕はいただいているのも、このアニメ制作の経験あってこそなんだろうと今でも思っています。

 

・アニメ制作
・実写制作(企業PRビデオ制作会社のAD)
・ライター
・書籍編集
・出張ホスト(体験取材なので職業じゃないけど)
・デパートの実演販売
・SE
社会福祉法人の職員(現在)

 

 経歴を見たら「一貫した何者にもなれていない」僕です。さえない?ほっとけ!でも僕は経歴だけを見たら今のところ「何者」にもなれていないけど一緒に暮らしている妻と娘にとっては「パパ」にはなり、家で二人から毎日その肩書きで呼ばれます。なので、とりあえずはこの肩書きに恥じないパパとして襟を正して生活することを強く心がけなきゃいかんとは思う。

 

ってな具合で、本日のブログはこれにて。

 

※この後の経歴で書き溜めている脚本が持ち込みやコンテスト投稿で当たって「脚本家」っていうのが加われば最高だけどもまぁそれは何ともわからない。この間、ツイッターでプロの漫画家やそのフォロワーたちが漫画家アシスタント経験者でプロにならなかった人のことをやたらバカにするような発言を何度か読んだことがこの記事を書こうと思ったきっかけなんですけれど、その人たちがこの記事を読んだらおそらくは僕のことも「何者にもなれなかった」といって揶揄したりバカにしたりするのかな?別にいいけどね。ただ、仮に僕が脚本家になったとしても「古今東西の誰もが知っている何者か」にはなれないだろうなとは思います。だって、クリエイターっていうのは作品をヒットさせたとしても、すぐに誰からも忘れられるのは宿命だもん。大御所も作品のリメイクや再放送で記憶をつなぎ留められているから「大御所」でいられるだけの話であってそれをやめたら誰の記憶からも消えるよ、たぶん。

 

 ちなみにふつーの人が「エイケン」という単語を聞いて連想するのは英検であり、僕らオタクがそれを聞いて真っ先に思いつくのは「サザエさん」の制作会社だろうなと思う。だから本当に何者かになりたかったら何度も再生産される作品を作る努力をするべきで、少なくてもプロになれなかった人を揶揄する暇なんてないんじゃないかな。それってライセンス取得してアマに「プロになった」と自慢するだけで、その上のタイトルを目指さないボクサーみたいなもので、率直にいってダサい。漫画家になれたのは立派なのにもったいない。

 

 


 

 

こんな商品あるの?って記事を書いていて正直驚いた。いやー世間ってのは広いな。

赤松健の選挙活動に対する反応から見えてくるモノについて

こんにちは。

 

 毎月1回となっている、このブログの更新。前回否定のブコメこわいと書いたら200近くも誹謗ブコメ来ちゃいました。今回も来たらこわいなぁ。300以上集まったらブログ継続についても考えるか。と、思いながらも更新させていただきます。

 

 今回は熱海で迷惑な自称オタク共がある居酒屋さんを相手に発生させたとある事件なんぞについて思っていることでもつらつら述べさせてもらおう。と思っていたんだけど、このツイートを目にして内容を変更。

 

 

 まぁ、表現の自由界隈のオタクによる絶賛の嵐でオタクでない人がこれを見たら「うわぁ」っていうドン引きな反応だろうと思います。ところが、こんなもんで仲間意識を持てるオタクっていうのはほんとチョロくてバカだと思いながら、この呟きに対する反応を追っていて、ふと違和感を抱いたのです。

 

 この赤松候補の選挙活動ツイートを拡散させるための「リツイート」は6/26の段階でおよそ3500件。このツイートをもとに拡散者が思ったことを追記で述べて広める「引用リツイート」はおよそ500件。どうせ引用リツイートでは「赤松センセー万歳」みたいな声で溢れているだろうな。とか思っていたら案外そうでもない。賞賛コメントは赤松候補のアカウントへの返信のみで極めて内輪向き。寧ろ逆に「キモイ」という声で覆いつくされているような印象です。いつものパターンだったら「キモイ」に対して支持者がそれを覆すほどの圧倒的な量の擁護ツイートで賑わいそうなもんなんだけど、ファンだと思しき人からも「戦略間違えてね?」とか言われる始末。おいおい赤松ファン!表現の自由戦士の諸君!そこは君たちも頑張りなさいよ!あんたらの主張を国会へ届けようと国会議員になろうとしている人が「キモイキモイ」といわれているのよ?そこは複数アカウントとか作りまくって擁護ツイート増大っていう流れだろう?とか思っちゃいます。だけどどういうわけかファンも表現の自由戦士たちも見事なまでにスルーという流れになっている。

 

 ここから僕なりにみえたものは「たぶん誰も、痛車を使った選挙活動を望んではいなかった」逆に「赤松の野郎め、余計な事をしやがって!」と思うオタクも少なからずいるのでは?というオタクの心理です。

 

 オタクの文化は世界に誇る日本の文化!と大声で叫ぶオタクを多く見てきて思うのは「少なくともそういう声が大きい奴ほどそれを本気では思っていない」。ということ。早い話が「弱い犬ほどよく吠える」ってやつです。従ってそういうオタクはオタク文化について自信を持っていないどころか常に「オタクは社会に叩かれる存在だ」といった被害妄想に駆られている。だからこそ、オタク達は自分の愛するオタク文化が権威に認められたいと思っている。それはマンガ作品をいくつかほめただけで「俺たちの麻生」安倍が秋葉原で演説したってだけで「安倍や与党は俺たちオタクの味方」だと盛り上がれる浅はかさを見ただけでも明らかです。

 

 だけど、社会は決してオタク文化を認めてくれない。街中に溢れている二次元美少女キャラのセミヌードやイラストなどの反応は「キモイ」のひとこと。そんな両者にオタクはひどく混乱、狼狽させられて「オタク文化は政治家という権威が認めたのに!社会はどうして俺らの好きなものをキモイというんだ!イロモノ扱いするんだ!」と勝手にルサンチマンを募らせている。だから麻生あたりがオタクに迎合することを言わなけりゃ、オタクはここまでひどくなっていなかっただろうと僕は思っています。で、権威に認められたオタク文化に異議を唱えるフェミニストやそれらの人の主張を積極的に取り入れ変わっていく社会は憎むべき対象である。さっき少々述べた熱海の居酒屋さんを巡るトラブルだけでなくて、この数年続いている「女性の扱いを巡って変化し続けていく社会と社会性を持てないダメオタクの軋轢」もこの辺を考えないといけません。

 

 いくら政治家がオタク文化を持ち上げても、オタクのルサンチマン解消にはつながらない。やはり周囲の「キモイ!」という一言の破壊力はそれほど大きい。結局社会性を持たないダメなオタクは「オタク文化は日本の誇り」という叫びとは裏腹に、「キモイ」に対する大きなコンプレックスを抱いている。それを併せ持っているダメなオタク達の心理は極めて歪です。だからこそ、おそらく今回の選挙で赤松候補が行った痛車活動を大っぴらに拍手できないのです。「ラブひな大好きで、赤松先生も応援しているけど、あの選挙カーを褒めてキモイと思われたくはない。逆にこんな痛車を選挙の活動で使われたら、大手振って応援できないだろ!」という心理が働いているからこそ、あのツイートに触れたくない。でも応援しなきゃオタク文化を守れない!だったら何も感想を書かなくてもいいリツイートで。っていう流れになっていった。たぶん赤松候補擁護ツイートの少なさには、こんな理由があるんではないだろうかと僕は考えます。推測だけど赤松候補が晴れて議員になった後、痛車を政治活動で使ったならまたオタクの反応も異なっていたのではないかと僕は思う。

 

 ツイートで表に出さないけど、たぶん赤松候補も引用での支持や擁護の少なさに困惑しているんじゃないかな。

 

 

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※さらに。この選挙カーに描かれている赤松候補のイラストから他にみえるものがあるけれども、また別の機会に述べさせて貰おう。だけど大量の誹謗のブコメ、また来るだろうな。あーこわい。

 

「表現の自由」を叫ぶオタク共の「オウム化」をどう止めるかを考える

こんにちは。

 

 そろそろ参議員選挙。選挙といったら「ラブひな」の作者が自民党から比例での出馬を決定だそうな。

 

 

 

赤松の表現漫画に見る「小林ゴーマニズム」との類似性

 漫画家が選挙に出馬してもいいけど、権力を振りかざして「ある」ものを「ない」としたり、オオカミ少年みたく国防の不安を煽って、自分らにとって不都合な憲法を変更させる!と目論むあの政党からの出馬という点からみても「コイツ(赤松)はロクでもないな」とわかりそうなもんだけど、まぁ一部の人はその辺がぜんぜんわかっていないみたいなので頭を抱えています。

 

 そういやこの人、先月こんなのを描いていたな。

 ツイッターで僕は以下のような感想を述べさせてもらいました。

 

 ツイッター小林よしのりの名前を出した時に抱いた既視感。現実にいる人間を漫画やアニメで美化して描き、ホーリーネームで記載する。こうやってみるとこのマンガの手法はまるで「ゴーマニズム」だな。更にいうとこやつらも内輪で同人めいたアニメや漫画を回し読みさせることで外の社会との繋がりが細くなり、先鋭化の道を辿った「オウム」そっくりだな。と思ったら、不憫になってきました。

 

表現の自由戦士」に見る「オウム」との類似性

 あんなカルトと一緒にするな?だってそっくりだろ?オウムも小林も、このブログの記事を読んで怒っている「表現の自由」界隈の奴らも。よしりんだのヤマーダだの、レドマツだのと表記された輩どもの発言に息まくお前らもヘンなカタカナのニックネームで呼ばれる幹部どもの妄想に取りつかれたオウム信者も僕にいわせりゃ同類だ。そんでもってオウムの「真理党」よろしく満を持しての出馬。あてにするは「表現の自由党」支持者のニッチな声。言っていることはメチャクチャでも表現の自由なんてオウムよりまともな看板を掲げているため当選する可能性は高いのが困りもの。たとえそのオウムの時代を知らなくても、「(街中に蔓延したエロを恥とも思わず豚みたくブヒブヒ貪る俺らを変態扱いするな!批判するな!という常識知らずのいちゃもんでしかない、本来のものとは異なる)表現の自由」が誰からもほとんど相手にもされないため、内輪だけでしか通用しない「ヤマーダ&レドマツ」の主張に拍手喝采で盛り上がり、社会に敵意を向けている姿は多数の人から見ても「キモい!」ものだろう。

赤松と小林とオウムに見える「権威志向」はわかりやすい

※小林と赤松とオウム。この3つは「東大」っていうキーワードでも共通している。東大進学を希望したり高学歴な信者を幹部に多く登用した麻原、「東大受験」を作品の背景に設定していた「ラブひな(赤松)」、「東大一直線(小林)」。これたぶんだけど偶然ではない。つまりこの3人の根底には「学歴」みたいな分かりやすい「権威的なもの」への嗜好があると僕は見ています。考えすぎ?そうかもね。だけどその僕の読み通りだとしたら、オタクは単にこやつらの「政治家」というものに対する「権威主義的な欲求」を満たすため利用されているだけということになる。経済的にそれなりの成功を収めた人物が分かりやすい権力を欲するというのもまぁよくあることですよね。

 

 ヤマーダとレドマツ達に拍手喝采する前に、もう一度よく考えてみたらいい。山田が政治家になって、お前たち表現の自由オタクの叫ぶ主張は社会に受け入れられた?

 

イヤミでいっているのではない。本気で考えてみ?

 

 

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