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サブカル 語る。

サブカルチャーなどについての雑談

ドラゴンボールは80年代のバブルそのものだった

こんにちは

先日はドラゴンボール新作の是非についてを語ったことで多くの人にブログ閲覧いただきました。いただいたコメントにはドラゴンボールに頼らず、新しいソフトを生み出す努力をすべきといった意見やドラゴンボールを古典と表現するのはいかがなものか?という意見、またこの多くの声があり、それらを読んで改めてドラゴンボールの物語を振り返って見た時に、この作品は「80年代バブル」の空気が漂っている作品であったというか80年代そのものを体現していた作品だったんだという印象を持ちました。

孫悟空の兄貴、ラディッツが語るサイヤ人とは手ごろな惑星に戦士を送り、その星を力で支配して高値で他の宇宙人に売り込む「宇宙の地上げ屋」。実際、その親玉フリーザ地上げ屋の総元締めであり、フリーザのキャラ作りも当時の社会問題であった「地上げ屋」がモデルになっているというエピソードも有名。 

フリーザ - Wikipedia

ピッコロ大魔王編から本格的なバトル漫画になって以降、インフレと言われた孫悟空の強さのレベルアップも、天井知らず。最初に「スカウター」という相手の強さを図る道具で表示された悟空の強さは334(重りつきの着を脱いで416)。ラディッツと相打ちとなり、界王様のもとで修行後は基本数値5000~8000。自分の力を瞬間的に強化できる界王拳(2~4倍)」の使用時には最大数値32000。んでもってフリーザとの決戦前を控えて行った特訓を経て強さの基本数値が9万になり、最後の最後で超サイヤ人覚醒時は基本の数値1億越え。しかもいつになっても、悟空のその強さのバブルは弾ける気配もありませんでした。

だけど現実の日本においてはその後90年代に入り、バブル崩壊で日本の政治、経済、文化が勢いを失っていきました。世間はJ-POPでカラ元気を奮わせるために「頑張れ」「諦めるな」「ぜったい夢は叶う!」と連呼。僕たちは意図的にそのカラ元気にだまされるか斜に構え舌を出すか。そのどちらかだったと思います。

永久機関のように続く成長というものは単なる幻想なのに、相変わらず「修行して強くなれる自分」を信じている悟空。ところが悟空にも、自分の成長を諦めた事がありました。自分やピッコロ、べジータフリーザなど強敵の持つ遺伝子を合成させて生み出された「セル」という敵との戦いで、悟空は修行してもセルを超える強さを手に出来ない事を悟り、実際に戦った後、その現実を受け止めたうえで息子である悟飯に後を託します。

その世代交代の試みは後の魔人ブウ編で失敗となりますが、確かに悟空は次世代にバトンを渡していたのです。悟空と悟飯の2人は親子のため、その関係性から物語やその是非などを語られがちですが、僕の場合は以下のとおりに考えます。

戦い好きを公言する悟空
→競争により自分の願望を叶えることを信じられた80年代価値観

戦いそのものを好まない悟飯
→80年代の競争的な価値観にノレない、90年代価値観

セル編における物語の世代交代を巡る悟空と悟飯のディスコミュニケーションは親子の対立ではなく、80年代価値観から90年代価値観に移っていたこの国の空気そのものを体現していたのではないかと思います。ただザンネンな事に「ドラゴンボール」という物語はドラゴンボールを7つ集めれば(努力すれば)どんな夢も叶うという80年代の空気そのものに支えられています。だからこそ、90年代価値観の体現者である悟飯にはこの漫画の主人公は務まりきらず、途中でフェードアウトした悟空が再度主人公を務めることとなってしまったのでしょう。

ドラゴンボールについてはいつかまた、改めて。

 

 

   

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