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サブカル 語る。

サブカルチャーなどについての雑談

「聲の形」をつうじて、自分勝手に生きるということについて考える

社会 漫画/アニメ

こんにちは。

前回、前々回と話題になっているアニメ映画「聲の形」の原作を読み、自分なりの物語解釈を考えてきました。

 

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前回の記事にも書いたけど、この物語のポイントとなるのは西宮さんと石田の「自分勝手さ」であると、僕は考えています。西宮さんの聴覚障害をあざ笑い、いじめ続けた石田は逆にクラスメートからいじめを受ける立場になったことでその行為の愚かさを知り、罪悪感に苛まれる日々を生きてきました。自らの罪深さと、いきなり自分をいじめの標的とした周囲への不信を抱えて自殺を考えていた石田を思いとどまらせたのは再会した西宮さんの手話による「なんで手話できるの?」という驚きの声でした。西宮さんに憎まれて当然な自分に向けられたのは憎悪、敵意ではなく驚きとその真意を問う表情。敵も味方もない「個」と「個」の対話だったことで石田は本心を語り始めます。

 

「小6だったあの時にお互いの声が聞こえていたら、とずっと思っている」
「自分勝手で思いやりがなく、クラスメートを見下して生きてきた。俺はそんな俺がキライだ」

石田の話をまとめると、だいたいこんなふうになります。石田は西宮さんと友だちになる事を願い、西宮さんも自分とことばを交わすために手話を覚えて現れた石田に長年諦めていた「他者と心からの言葉で繋がる」ことの可能性を見つけ、石田の想いに応えます。石田と西宮さんはお互い「相互理解への渇望」だけでなく石田の「罪の意識」と西宮さんの心に芽生えた「石田への淡い恋心」が混ざり、複雑なものに変貌。さらに石田の心情も西宮さんと接すれば接するほど罪悪感や自分への不信が贖罪の意識を強めていく事になります。

単行本の帯には物語が進む事で変化し続けていく石田の心境が表現されていますけれど、そこにあるフレーズは本編以上に心を抉るものになっているので紹介。

2巻「大切なものを壊してしまった。」
3巻「この命、どうか燃やすように生きたい。あいつの近くで」

石田も実際に、2巻で西宮さんへのこだわりをこんな具合に語っています。

「俺は西宮に会って、その全部を強烈に感じたからこそ人生から逃げずに済んだ。身体のあるうちは西宮のために消耗したいと思う。命も!」

西宮さんはいつの間にか石田の生きる目的になっており、その多少過剰気味な精神的依存を越えて本当の他者への愛情につなげていけたらよかったんだけども、西宮さんも自分の障害は周囲の人を不幸に巻き込んでいいくだけという絶望的な思い込みを秘めていた。だからこそ石田への恋心(愛情)の中には「聴覚障害の自分はいつか石田を不幸に巻き込む」という自分自身の不信もどこかにもっていた。

そんな二人の感情は思わぬかたちになり、周囲を巻き込み始めます。西宮さんとの再会を機に嘗ての同級生や石田の過去を知らない現在の同級生らが集まった事で、互いのわだかまりを超えた新たな人間関係が二人をまっている筈だったのに、小学校時代の石田のことを知らない友人が「いじめ」についての話を語りかけてきた事で、石田は小学生時代の同級生が自分を孤立させるため、自分の過去を教えたのでは?という不信を抱きます。実際にそんなことはなかったのだけども、この石田の態度は皮肉にもクラス全体にかつて自分が障害者いじめのリーダーだったことを知らしめる結果に。石田はいたたまれなさから自分や周囲を否定し、西原さんへの依存を強めていきます。

西宮さんもそんな痛々しい石田に「自分と一緒にいるだけで不幸になる」と謝り、その数日後、今までの石田の努力や周囲の人の思いを裏切る行為で西宮さんは人間関係の輪を徹底的に破壊。結局、石田も西宮さんも自分勝手な「負の感情」により周囲をめちゃくちゃにしてしまうことになったのでした。

映画も原作もこの物語はあくまで石田の目線で語られていますがこのプロセスをみていくと、やっぱりこの物語は「石田の自分勝手さの成長」なのだと改めて僕は思いました。聴覚障害の西宮さんをいじめていたころの石田の自分勝手さは言葉どおりの自分勝手。自分の価値観が絶対であり、その周辺にあるノイズを嫌い、他人をいじめても痛みを感じることができない勝手さです。だけど高校生となり自らもいじめを受けたり、周囲に阻害されたことで石田は「人の痛み」を学び、その痛みを与えた西宮さんに関わることを求めた。いじめの被害者である西宮さんから見たらこれまた「自分勝手」な行為なんだけども、人を排除する自分勝手さから、人と関わりたいと思う自分勝手さに変わっている。それはやはり、石田の人間としての成長なのだと思いたいのです。小学校時代の過ちに苦しみながらも自分なりに(自分勝手)に西宮さんにとって何ができるだろうか?なにをしたらいいかと考えて実行し続けたことが彼女への依存度を強め、周囲を混乱させた形になったけど西宮さんに抱いていた贖罪の思いはその頃には「彼女を労る優しさ」にはなっていた。

西宮さんの自己否定も自分勝手なんだけど、結局のところそれも彼女なりの「周囲を気づかう優しさ」だったことを考えたらその「優しさ」も無下に否定できない。みんながみんな互いに「良かれ」と思っていた振舞いが周囲を困らせるだけだったという結果になることは現実にもあることだからです。

石田の西宮さんへの想い。西宮さんの石田や古いクラスメートを中心とする人間関係への想い。周囲の石田、西宮さんへの想い。それぞれがそれぞれにみんな自分勝手なんだけど、自らの利益のためだけでなく、自分以外の誰かを自分なりに思いやり、石田と西宮さんに接していた事が物語で明らかになった時、僕はコレを「自分勝手の物語」だと評しました。自分のエゴだけを追求する自分勝手ではなく自分のエゴに他人への思いやり、過去の体験などに由来する不信や期待など複雑な感情が混ざった「めんどくさい自分勝手」。
あまりいい表現ではないかもしれないけど、僕ら人間がお互いに関係を作りたいと思ったら、その自分勝手さを自覚して踏み込まなくてはなにもはじまらないのも事実。「僕とあなたの自分勝手さをお互いに見せ合い、それをどう克服していくか」そのめんどくさい問いかけこそが、この物語の本質なのではないか?と思うのです。

 

 

 

※なんだかんだいってこの漫画、俺好きなんだろうな。