サブカル 語る。

サブカルチャーなどについての雑談

聲の形の感想は「自分勝手な奴らの物語」という言葉で言い表せる

 こんにちは。

 数年前に週刊少年マガジンで連載されて話題になった、聴覚障害の女の子とその周囲の人間模様をテーマに描く作品「聲の形」。アニメーション映画になり、概ね好評だそうです。僕はこの映画をまだ観ていないので映画についての感想をどうこう書けないけど、いい機会だと思ったので自宅にある原作全7巻を読み直してみました。

 

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 ネットなどでは「感動した」「いい映画」などという好意的な声や「実際の聴覚障害はこんなもんじゃない」  「障害を美化しすぎ」「感動ポルノ」という厳しい意見もあったりで賛否両論なんだけど・・・原作をあらためて読んだ感想としては「自分勝手な物語」っていうところに尽きる印象だったりします。

 

 この物語は高校生の石田将也が聴覚障害の少女、西宮硝子と数年ぶりに再会したことで思い起こされる少年時代の回想から始まります。小学生時代の石田は退屈と戦うための度胸だめしに友だちと川に飛び込んだり、メチャクチャなイタズラを好むわんぱくな少年でした。だけど周囲の友だちはそのイタズラに飽きていき、もうガキなことはいつまでもやってはいられないと、石田とは距離を置くようになっていきます。


 そんなある日。石田のクラスに西宮さんがやってきます。生まれつき聴覚に障害を持つ彼女は、自己紹介のときにノートを広げて「この筆談ノートを通じてみんなと仲良くなりたいです」とあいさつ。西宮さんの挨拶を聞いて石田は「遊び道具ができたぞ!」とはしゃいで西宮さんいじめに走ります。そのいじめを横目で見ていたクラスメートも直接的には手を下さないものの間接的にそれを喜び、担任もそれを知りながら「面倒はゴメン」という態度。そして石田に壊された複数の補聴器が総額で170万円という金額になり、学校もこの件について無視できなくなった途端、担任もクラスメートも手の平を返して石田を糾弾するようになり、今度は石田がいじめの標的となることに。そんな石田に対しても笑顔を見せ、孤立したクラスの中でも石田に親切な態度で接する西宮さんに石田も苛立ち、二人は取っ組み合いの大喧嘩になる程感情をぶつけ合います。

 

 その喧嘩から1ケ月後に西宮さんは転校。その転校を機に石田はクラスメートが毎日机に酷い悪口を書いていたこと、その悪口を西宮さんが毎朝学校に来て消していたことに気づくのでした。自分がいじめの標的にしていた女の子が自分を労ってくれていたことを知った石田はこの日以来、西宮さんへの罪悪感や自己への憎悪、周囲への不信感を抱きながら生きることになっていきます。


 そして月日も流れて石田も高校3年生。小学生時代の過ちを今もなお引きずり続け、自分に絶望する石田は「自殺」を決意。人生最後のケジメで西宮さんを探して、自分が小学校の池に投げ捨てた筆談ノートを手渡して謝罪。思いがけない行動を見せた石田に西宮さんもただ戸惑うばかり。その西宮さんに自分の無知が今も許せないことを告げたうえで石田もまた「友達になりたい」と、思いがけぬ本音を西宮さんに口走るのです。その発言に躊躇いを捨て、石田の手を握ることで応えた西宮さんですが・・・。

 

 自分の人生のケジメをつけるため西宮さんとの再会を願う石田の心情は分からなくもないけど、コレっていじめの被害者だった西宮さんにしたらひどく迷惑な話です。もう思い出したくない記憶をほじくるだけになることもありうるという発想があればこんなことできる筈ありません。石田という少年は対峙する他者の心情に思いを寄せられないという意味では西宮さんをいじめた頃とはあまり変わっていませんい。ただ、他人を理解できないから排除するという小学生時代の自分勝手さではなくて「人と関わりたい」という自分勝手さに変化はしている。だからこそ西宮さんは嘗てのいじめっ子であり、クラスのみんなと仲良くなりたいという当たり前の願いや可能性を踏みにじった石田に歩み寄ったのだろうと考えられます。


 自分の小学校生活をボロボロに破壊した憎むべき石田が手話を覚えて自分と会話をしている。「なんで手話できるの?」という西宮さんの手話から始まる二人の会話は西宮さんから過去の過ちを断罪されることで終わる筈だったのに、初めてお互いに言葉を語り、筆談ノートを大事そうに抱えた西宮さんは石田にノートを見せ「一度(人と人との繋がりを)諦めたけど、あなたが拾ってくれたから(大事なノート)」と手話で伝えます。それを見た石田はあらためて、自分が西宮さんから奪ってしまったものの大きさを実感。二人は友だちになりたい、お互いを理解したいという素直な思いと、石田の贖罪の思いが混ざった複雑な感情を抱える関係になっていくのです。

 

 ここで視点を西宮さんに変更して考えてみましょう。ここまでではまだ明らかになっていませんが、自分の障害が原因で父と母が離婚することとなり、妹も「ミミナシの妹」といじめの対象になっている。小学校のクラスも自分のせいで周囲の空気がぎこちなくて重い。実は彼女もまた、「自分は結局、周囲の人を不幸にする存在である」という苦しみから周囲への罪悪感とそんな自分への絶望を背負い続けていたのでした。高校生になった西宮さんは周囲に溶け込み、まぁまぁ楽しくやっている。石田は西宮さんを探している時にそういう情報を得ていたものの、たぶんそれは当たり障りのない態度を周囲に見せることでつくってきた関係性であり、だからこそ数年の時を経て手話を覚え自分に語りかけてきた石田に「他人と心からの言葉を通じて繋がりたい!」という諦めていた願いの可能性を見た。そう考えると二人の関係っていうのはそもそも相互理解への渇望、友達になりたいという願い、お互いの抱えてきた過去による自分への嫌悪感といった複雑な感情の絡んだ非常に危ういものだったといえます。

koenokatachi-movie.com

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 西宮さんと友だちになる事を願った石田に、長年諦めていた「他者と心からの言葉で繋がる」ことの可能性を石田に見つけ、友達になりたいという想いに応えた西宮さん。二人の仲は「相互理解への渇望」だけでなく石田の「罪の意識」と西宮さんの心に芽生えた「石田への淡い恋心」が混ざり、石田の心情も西宮さんと接すれば接するほど罪悪感や自分への嫌悪感が募っていくことに。単行本の帯には物語が進むことで変化し続けていく石田の心境が表現されていますけれど、そこにあるフレーズは本編以上に心を抉るものになっております。

2巻「大切なものを壊してしまった。」
3巻「この命、どうか燃やすように生きたい。あいつの近くで」

 

 石田も実際に、2巻で西宮さんへのこだわりをこんな具合に語っています。

「俺は西宮に会って、その全部を強烈に感じたからこそ人生から逃げずに済んだ。
身体のあるうちは西宮のために消耗したいと思う。命も!」

出典:聲の形大今良時)_講談社

 

 西宮さんはいつの間にか石田の生きる目的になっており、その多少過剰気味な精神的依存を乗り越えて本当の愛情につなげていけたらよかったんだけど、西宮さんも自分の障害は周囲の人を不幸に巻き込んでいくという絶望的な思い込みを秘めていた。だからこそ石田への恋心(愛情)の中には「聴覚障害の自分はいつか石田を不幸に巻き込む」という自分自身の不信もどこかに持っていた。そんな二人の感情は思わぬかたちになり、周囲を巻き込み始めます。西宮さんとの再会を機に嘗ての同級生や石田の過去を知らない現在の同級生らが集まった事でお互いのわだかまりを超えた新たな人間関係が二人をまっている筈だったのに、小学校時代の石田のことを知らない友人が「いじめ」についての話を語りかけてきたことで、石田は同級生が自分を孤立させるため自分の過去を教えたのでは?と疑い、その頃への後悔やいたたまれなさから自分や周囲を強く否定し、西宮さんへに対する依存をさらに強めていきます。西宮さんも「自分といるだけで不幸になる」と石田に謝り、その数日後には今までの石田の努力や周囲の人を裏切る行為で西宮さんは人間関係の輪を徹底的に破壊。結局、石田も西宮さんも自分勝手な「負の感情」により周囲をめちゃくちゃにしてしまうことになったのでした。このコインの裏表みたいな「過去の経験に由来する二人の自分勝手」さが物語の本質であり、「いじめ」「聴覚障害」っていうのは実はそんなに重きを置くテーマじゃないと僕は思います。 

 

 映画も原作もこの物語はあくまで石田の目線で語られていますがこのプロセスをみていくと、やっぱりこの物語は「石田と西宮さんの自分勝手さの成長」なのだと改めて僕は思いました。聴覚障害の西宮さんをいじめていたころの石田の自分勝手さは言葉どおりの自分勝手。自分の価値観が絶対であり、その周辺にあるノイズを嫌い他人をいじめても痛みを感じることができない勝手さです。だけど高校生となり自らもいじめを受けたり、周囲に阻害されたことで石田は「人の痛み」を学び、その痛みを与えた西宮さんに関わることを求めた。いじめの被害者である西宮さんから見たらこれまた「自分勝手」な行為だけど、人を排除する自分勝手さから人と関わりたいと思う自分勝手さに変わっている。それはやはり、石田の人間としての成長だと僕は思いたい。小学校時代の過ちに苦しみつつも自分なりに(自分勝手)に西宮さんにとって何ができるか?なにをしたらいいかと考えて実行し続けたことが彼女への依存度を強め、周囲を混乱させた形になったけど西宮さんに抱く罪悪感はその頃には「彼女を労る優しさ」になっていた。西宮さんの自己否定も独りよがりで勝手だけど、結局のところそれも彼女なりの「周囲を気づかう優しさ」だったことを考えたらその「優しさ」を無下に否定できません。みんながみんなお互いに「良かれ」と思った振る舞いがただ周囲を困らせるだけだったという結果になることは現実にもありえるからです。

 

 石田の西宮さんへの想い。西宮さんの石田や古いクラスメートを中心とする人間関係への想い。周囲の石田、西宮さんへのわだかまりや労りの想い。それぞれがそれぞれの過去に由来する独りよがりな感情を背負っていたことが明らかになった時、僕はこの作品を「自分勝手の物語」だと評しました。自分のエゴや他人への思いやり、期待や不信などの複雑な感情が混ざった「めんどくさい自分勝手な奴らの物語」。あまりいい表現ではないかもしれないけども僕らもまた「めんどくさい自分勝手な奴ら」であり、僕らがお互いに関係を作りたいと思ったら、その自分勝手さを自覚して踏み込まなくてはなにも始まらない。「僕とあなたの自分勝手さをお互いに見せ合い、それをどう克服していくか」という問いかけこそがこの物語の本質であって「聴覚障害」というセンセーショナルな部分に目を奪われるとこの作品が単なるお涙頂戴モノという解釈になりがちになります。作品についての感想は人それぞれですけど、ここまで述べてきた理由から、この「聲の形」を「感動ポルノ」と呼ぶのは的外れだときっぱり指摘させてもらいたいと思います。

 

 

※なんだかんだいってこの漫画、俺好きなんだろうな。