サブカル 語る。

サブカルチャーなどについての雑談

昨年3/30のブログについて語ることからやり直そう

 こんにちは。久々のブログ更新でございます。皆様、お変わりございませんか?

今年になってからまともにブログを書いておらず、どうにもやる気がわいてこない。本音を言わせてもらうと、昨年3/30に書いたこのブログ記事以降「どうでもいいや!」といった想いが強くありブログから意図的に距離を置きました。

 

arrow1953.hatenablog.com

 

 内容的にはフェミニズムやトランス問題、政党の議員・党員排除などについての声がツイッターなどのネット上で暴れまわっているのを見ていてウンザリした僕は「議論を積み上げず、相手を殴るだけのケンカだったらよそでやりな。周囲には単なる迷惑だ」と愚痴みたいなことを呟きました。

 

 そりゃ意見が合わなけりゃ議論すべき相手に罵詈雑言をぶつけたり、全否定したくもなったりするでしょうよ。でもtwitterみたいな話題の専門性が薄く、大勢の人が利用する場では利用にそれなりの公共性が求められると思います。そういうことをいうと「関係ない人はだまってろ!」みたいな反応がくるかもしれないけど、twitterという公共性の高い空間を利用する僕にもそれらに「うるさい!」と文句をいう権利はある。大勢の人たちが行き交う通りで喧嘩や怒鳴り合いを目にしたら両者の正当性を問う前に、まずは争いを止めたり「うるさいな!喧嘩だったら他所でやれ」と文句をいったりするでしょう?互いが互いの正しさを唱えるのはいい。だけどその唱えている言葉はどんなものか?その言葉を唱えている場所はどんなところか?もう少しその辺を考慮いただきたいと思う。

フェミニズムも離党騒ぎもトランスも周囲を見て、他人のことを考えろ - サブカル 語る。

 

    その当事者と思しき人から「どっちもどっち論はやめろ」だの「お前の言い分は論をすり替える単なるポジショントーク」だのとなんだのまぁ大変な話になり、気分も相当滅入っていました。ツイッターを見る限りは現在、それらを巡って声高に対立相手を殴る言説は以前に比べて減った印象だけど、一般的な常識から見たら過激な言葉を使って悦に入り、内輪ウケで気分よさそうにしている反面、周囲ドン引き。みたいな人たちは
います。世界にはマイノリティーとマジョリティーで様々な人権・権利を巡る対立があり、その中で不利な環境にいる人が現状打破のため本気なのだというのは僕にだって理解できます。ただ、その不利な環境をどうやって変えていくのか?といったら地道な交渉・議論の積み上げしかありえない。相手を言葉で叩きのめしてみたところで何も変わらない。逆にそこで過激な言葉の殴り合いを公衆の面前で披露し合ったらその対立そのものを人々は敬遠したり関心を持ってくれそうな人を敵に回したりするでしょう。

 
 民主主義というのは単なる多数決合戦ではなく「多数」をベースにしながら少数の声をおろそかにせず、双方の妥協点を探っていく手続きであると僕は思っているので、周囲を敵に回したってなんもメリットもありません。自分たちの権利を守る議論を優位に進めたいならできるだけ賛同者・味方を増やすのが何よりも得策。そこで大切なのが丁寧で誠実な「正論」なのではないか?と思うのです。あらためて昨年3/30のブログを読むと、周囲の迷惑を考えずに相手を殴るだけの乱暴な言葉への怒りが強く出ており、僕もまた、ある意味では乱暴な言葉で誰かを殴っていたんだな。主張ではあったけど誠実な「正論」とはあまりよべるものでなかったな。と思わされた。一年を経た反省をここに記して、本日はこの辺で。