サブカル 語る。

サブカルチャーなどについての雑談

安倍や自民以外に国を任せられないというのがそもそも「カルト」の洗脳。

こんにちは。

 先日書いた「オウムの本質はカルト」だという記事には多くの反響が集まりました。そのことに感謝を述べると同時に、以下に述べた現政権とその周囲の持つカルト的な性質について、もう少し掘り下げて書こうと思っていたんだけども、予定変更。

 

現実に対して空虚さを抱えた人々を強く引き付けたオウムの教理が前述されたオカルト的な価値観だけでなく、アニメの設定や各宗教の価値観などを切り貼りして編集を行い、独自の世界を構築していきながらその世界を守るため世間と断絶を図り、結果敵に先鋭化の道を突き進んでいく。この光景は同じく現実社会に対する閉塞感に目を背けるためyoutubeで周辺国や現政権の批判者を「反日」などと罵るデマや不正確な情報を切り貼りして作った映像を観て、敵意むき出しのネトウヨ共が増殖したり、英国BBCのドキュメントで人権意識にひどく欠けたコメントを得意げに吐いて悦に浸る自民党議員を生み出したりしているこの国とどこが違うというのか。その風潮を良しとせずに批判する人を「サヨク」「パヨク」などと嘲り、議論することもせず自説をつらつら述べ、それに答えるまえに「はい論破!」といって粋がるネトウヨや国会の質問に誠実に答えずニヤニヤ笑うだけのバカなこの国の首相と、同じく教団の批判に対してディベートには長けていたが、オウムの本質には全く触れることのなかった嘗てのオウム広告塔「上祐史浩」と何が異なるのか。この両者は僕にいわせりゃまったく同じであり、だからこそこの国は本格的にオウム化しているといわざるを得ません。

オウムの本質は「カルト」でなく「サブカル」であり、それは今この国を覆っている - サブカル 語る。

  このニュースを見て僕は怒っています。

 

news.tbs.co.jp

 これどういうニュースかっていうと、西日本の大雨で各地に気象庁からの避難指示をまったく気に介さず、自民の議員たちが集まり、大宴会を行っていたという批判が多くなってきたため竹下総務会長が会見で「正直言ってこれだけ凄い災害になるという予想を私自身は持っていなかった」と釈明。7/5のツイッターには自民の議員が集まってお酒を飲みながら旨いものを食って大はしゃぎ!という様子が投稿されていました。

f:id:arrow1953:20180710004158j:plain

f:id:arrow1953:20180710004558j:plain

 皆さんも暇だったら、片山さつき議員と西村やすとし議員の7/5のツイートをご覧になってみて下さい。本当に、自民の議員は和気あいあいで楽しそうです。

 

 「7/5の時点でこんな災害になるとは思っていなかった。」という釈明を百歩譲るにしても、まず大雨で苦しんでいる人が大勢いるというのにこんな無神経なツイートをした議員たちがいたことをどうして詫びないんだ?なぜこの無神経な議員たちはまだこのツイートを削除もせず、詫びないんだ?そもそも、こんな行為を誰も咎めないのか?コイツらには人の痛みを理解しようとする、想像力を働かせる感性がないのか?

 

 酒を飲むな!とは言わない。プライベートな空間で楽しむなともいわない。だけど自分らが酒を飲んで騒いでいる部屋の先には大雨の災害で苦しんでいる人がいる。だったらせめて自分たちのバカ騒ぎを公に公表するのは控えておこうという、そんな程度の思慮もない奴らがどうして議員をやっているんだ?

 みんな、ほんとにこんな政党がいいのか?「自民以外に政権を任せられない」「安倍以外に総理を任せられない」と思っているなら、それこそほんとにカルトだぞ。でなけりゃ暴力を受けながらも「私にはこの人しかいないのよ!」と思い込まされているDV被害者だ。僕だったらこんなバカの集う政党と、その政党が政権を担っているこの国を「下劣」に思う。そしてこんな下劣な政党には退場いただき、別の政党に国のかじ取りを任せたいと思う。経験もない政党に不安がないかといったらウソになるが、それでも人間性が腐っている奴らに権力を委ねるよりよっぽどマシだ。頼りにならなけりゃ新人育成のつもりで使い続けながら鍛えてやる。国民にそのくらいの気概がなかったら何も変わらないぞこの国!!

 


 

 

 

 

オウムの本質は「カルト」でなく「サブカル」であり、それは今この国を覆っている

こんにちは。

 

f:id:arrow1953:20180706172901j:plain



 

 

 本日は毎月数度ある夜勤のLANメンテナンスのため、朝、気だるさを引きずり帰宅。さて、ベッドで寝るか。と思ったところにツイッターでこのニュースを知りました。

headlines.yahoo.co.jp

 

 原則的にこのブログは人に楽しんでもらうために書いており、直接的な人の生命についてどうのこう書こうとも思っていませんし、極刑についても簡単に是非を問えるような軽い問題でもないため、この件について考えを述べるつもりもなかったんだけど、サブカルを扱うブログならば「オウムこそサブカルの本質を突き詰めた団体」という点について書いておきたい。との思いもあるので仮眠から覚めてボーッとする頭であれこれと考えながら、キーボードを叩いてます。

 

 さて、本題。若い世代的では「オウム真理教」を知らない人も多くいるだろうと思いますので概略については以下をリンクから引用させてもらいます。

 

kotobank.jp

以下、引用。

 麻原彰晃 (本名・松本智津夫) が 1984年に始めた新しい宗教。麻原はヒマラヤで修行し,86年に最終解脱を達成したとし,89年東京都で宗教法人の認証を受けた。インドのヨーガや仏教の教えに麻原独自の解釈を施して教義とし,シバ神を主神として崇拝,その教えに通じた教師の指導によって,すべての生き物を輪廻から救うことを目指すとした。静岡県富士宮市の総本部道場のほか,全国各地に道場を開いていた。

 後に教団と信者家族を巡るトラブル対応に当たっていた坂本弁護士家族拉致事件ほか松本サリン事件、東京23区を張り巡らせている地下鉄の車両でサリンをまき、重軽傷などを含め6000人の犠牲者を出したテロ「地下鉄サリン事件」を引き起こしたことで知られています。この犯罪の規模やこの団体が宗教団体だったことから世間にはオウム=「カルト」「テロ集団」という認識が広がっていったと思いますけどもそれは違う。オウムの本質は記事のタイトルでも述べた通り、あくまでも「サブカルチャー」「サブカル」であると、僕は考えています。そのことを具体的に指摘したのは漫画原作者であり評論家でもある大塚英志で、大塚は2000年に角川書店から出版した「戦後民主主義リハビリテーション」でオウムについてこう述べています。

 "さてそれでは、そもそも僕が問題とするオウムの人々の歴史認識とはどのようなものなのか。それはひとつには「陰謀史観」として括りうる歴史観であり、もうひとつは「ハルマゲドン」の語に象徴される終末思想である。それらの歴史認識は無論、オウム独自のものではない。それぞれに相応の出目と歴史を持つものである。しかし80年代消費社会を経て、オウムの中に沈殿していったこれらの思考は、その時点でサブカルチャー化してしまっている。。ここでサブカルチャー化というのはその事象が本来、出目として帰属していた大文字の歴史から切り離され、消費社会の中で情報として集積され、引用される事態をいう。

(中略)

  オウムの人々の歴史認識の危うさは、陰謀史観にせよ、終末思想にせよ、その前提となる大文字の歴史を決定的に欠いており、その空白をサブカルチャーが代行していしまっている点にある。"

大塚英志 戦後民主主義リハビリテーション角川書店)より

 

 以前このブログで、僕は日本にもはや土地や風土、生活習慣などに根差した「文化」などはとっくに存在しておらず、その代わりにあるのは「国歌」や「日の丸」、「外国人向けのガイドブックにありそうな伝統文化など」、人々のリアリズムから分断された「シンボリックなサブカルチャーとしての概念」でしかないと述べました。 僕がこの本を手に取ってそろそろ20年。現在のこの国について考えた時に、大塚のオウム批評は20年近くを経て、この国に広く薄く広まっていったんだなとため息をつきたくなるのと同時に、この前述したオウム的な空気が、この国でいよいよ先鋭化してきたことについて危機感を感じています。

 

 現実に対して空虚さを抱えた人々を強く引き付けたオウムの教理が前述されたオカルト的な価値観だけでなく、アニメの設定や各宗教の価値観などを切り貼りして編集を行い、独自の世界を構築していきながらその世界を守るため世間と断絶を図り、結果敵に先鋭化の道を突き進んでいく。この光景は同じく現実社会に対する閉塞感に目を背けるためyoutubeで周辺国や現政権の批判者を「反日」などと罵るデマや不正確な情報を切り貼りして作った映像を観て、敵意むき出しのネトウヨ共が増殖したり、英国BBCのドキュメントで人権意識にひどく欠けたコメントを得意げに吐いて悦に浸る自民党議員を生み出したりしているこの国とどこが違うというのか。その風潮を良しとせずに批判する人を「サヨク」「パヨク」などと嘲り、議論することもせず自説をつらつら述べ、それに答えるまえに「はい論破!」といって粋がるネトウヨや国会の質問に誠実に答えずニヤニヤ笑うだけのバカなこの国の首相と、同じく教団の批判に対してディベートには長けていたが、オウムの本質には全く触れることのなかった嘗てのオウム広告塔「上祐史浩」と何が異なるのか。この両者は僕にいわせりゃまったく同じであり、だからこそこの国は本格的にオウム化しているといわざるを得ません。

 

 そしてオウムもこの国を覆うサブカルなオウム的空気も突き詰めていくと、その本質は「正しい認識を持っている自分たち=特権を持つ者」であり、その特権の所有者がこの国を動かすことで国全体を強大にさせることを望んでいるというファッショな性質であるということは大声で言っておきます。だから今、大事なのは「日本はひとつ」的な幻想に抗いまず自分の足で立つこと。とあるバンドの「HINOMARU」に涙したり、youtubeの出所さえも分からないプロパガンダ映像に高揚することでもなく、現在の生活というリアリズムを大事にして、そこから自分を語るための言葉を探す努力を怠らないことです。

 

サブカルチャーについてはこのブログ記事で詳しく書いてます。よかったらどうぞ。

 

 

arrow1953.hatenablog.com

 

 


 

 

 

 

 

もらった幾つかのはてブコメントに「国語力大丈夫か?」と本気で心配になる

こんにちは。

 

f:id:arrow1953:20180702012422j:plain

 

 久々のブログ更新となりますが、皆さんお元気でしょうか。先月は書いてみた記事にやたらブックマークをいただいたこともあって記事もバズり、アクセス数が増大。まぁそれだけをみれば喜ばしいことではあるんだけども、同時に多くのコメントをもらっている立場ながら「あなたの国語力大丈夫か」と本気で心配させられる人も見受けられました。

 

 誤解をしないでいただきたいんですけど、いや別にいいんですよ。ブログに反論寄せたって。なにも、自分の意見がすべて「正」であると思いあがっていませんし、逆にその反論が筋道立っていれば「そういう意見もあるのかも」と、自分の視野さえ広がる。異論も、同意もウェルカムですよマジで。人の意見に対してコメントを寄せるってのはそれなりにエネルギーも必要となるため、僕のブログにそのエネルギーを割いて貰うというのも本音でありがたいもんです。ただね。全部読んでから反論してください。とは声を大にしていいたい。

 

「今年で40数本目になる戦隊モノで、どうして女性が作品の中心であるレッドを通年で務めているシリーズってないんだろう?」(作品の後半でちらっと女性レッドが出たシンケンジャーは例外)。これだけ女性の社会進出が話題になっており、こういった社会の世相に敏感な筈のサブカルが「戦隊の象徴を担うレッド」の作品を誕生させていないのは何故なのか?あ、ちなみに、女の子がリーダーを務めているロボットアニメは1976年にタツノコプロが制作をしています。対立する2つの戦隊っていうのも確かに新機軸なんだけど、上記リンクにもある通りプリキュアの「女の子も暴れたい」という企画コンセプトが多くの支持を受けて今年で15周年。だったら戦隊モノだって「女性レッド」はアリだろ?と僕は思うし、先述のシンケンジャーで期間限定であっても女性のレッドを登場させた実績もあるんだから、5人戦隊モノで新しいことを!と考えたんだったら順序的にこっちが先なんじゃねーのか?といいたい。この女性レッドを実現できるかどうかこそが、この国での将来的なジェンダーのありかたを左右すると思う。

5人戦隊モノの特撮で、今までレッドを女性が務めていないのがこの国の限界 - サブカル 語る。

  このブログ記事はともかく「シンケンジャーに女性レッドいたのを知らないのか?」「嘗ての戦隊シリーズで女性リーダーや組織の長官だっていた」という批判が多くて、頭を抱えました。記事には「物語後半で女性レッドがいたシンケンジャーという作品もある」と書いているにも関わらず。ただ、女性リーダーについては「女の子がリーダーを務めたロボットアニメ」を引き合いに出したので、「今年で40数本目になる戦隊モノで、どうして女性が作品の中心であるレッドを通年で務めているシリーズってないんだろう?」っていう内容を作品の中心=レッド=リーダーという解釈をされても仕方あるまいな。と考えてこのように追記。

 

※40年も前に女性リーダーのロボットアニメを作っていたタツノコプロの先見性をほめるべき。後、思ったとおり、現在この記事には「女性レッドなんて売れない」だの、「子ども向けの番組にジェンダー教育を絡めるな」だの否定的なブクマが集まっています。この国の限界って僕がいってるのはまさにそこ。戦隊ヒーローの象徴は、女性では成立しないものなのか?という発想や思考さえできない僕や周囲の固定概念を指して「この国の限界」って僕は言ってるの。分かる?

5人戦隊モノの特撮で、今までレッドを女性が務めていないのがこの国の限界 - サブカル 語る。

 ここまでサービスをさせてもらっても、この2批判が多くて考えこんじゃった。 上述した内容を咀嚼したうえで寄せられる同意や反論については返す言葉もあるけど、そもそもこんなにまで曲解された意見はどうしようもないよなとつくづく思いました。

 

 そんでもってその一週間後。ブログ記事によせられたコメントについて。

 

 

マネジメントの著者、ピーター・ドラッカーは「結果」を上記のように語りました。ドラッカーの言葉に当てはめると、日本サッカー協会は98年以降、毎回日本代表をW杯に出場させているという意味での結果、成果は出しています。そこは認めます。ただ、ここから先の日本サッカーが目指すべきは継続的なW杯決勝トーナメント出場常連となるチーム作り。単発的にベスト8やベスト4に入ったり、さらにいうと優勝したところでそれは単なるまぐれでしかありません。だからこそ、4年ごとの結果に一喜一憂しないで継続的な代表強化を続けてもらいたい。そうやってサッカーを日本の文化に育ててもらいたいと思っているからこそ目先の結果だけでハリルホジッチを解任したサッカー協会を、僕は許せないのです。

サッカーW杯。日本代表の応援ボイコットでこの国のバカさが分かった - サブカル 語る。

  この記事を読んで「日本代表に負けろ!とはなにごとだ」という意見も幾つかあり、どう読んだらそう解釈できるのか?と悩みました。ただこの記事については同意も反論もブログで語りたかったことを受け取ったうえでのものが大半であり、それらを読むと同意も反対も含めて思考の交流っていうのは面白いもんだな。と、思わされました。サッカー協会を僕と同じく許せないと思っている人。協会のとった理不尽な態度を許せないとしながらも応援せざるを得ないという人。応援しているものの、どこかで日本負けろと思っていたという複雑な想いを語る人。これについてはブログ記事よりも、はてブコメントの方がおもしろいかもしれません。サッカー日本代表を応援する人々の心情の揺れ具合を強く感じられます。

 

 2018年の上半期をふりかえって最も反響の大きかったこの2記事。記事タイトルでは
「あんたらの国語力大丈夫か?」と書いてはいるけれども、10人中10人に自分の考えを正確に伝えられないっていうのも率直に言って、僕のブログを書く技術の低さもある。なので下半期の目標は「国語力を問わず、誰にでも伝わる記事を書く」っていうことで本日のブログは、これにて。

 

arrow1953.hatenablog.com

 

 


 

 

 

今週のお題「2018年上半期」

サッカーW杯。日本代表の応援ボイコットでこの国のバカさが分かった

こんにちは。

 

f:id:arrow1953:20180622031722p:plain

 

 先週からロシアでいよいよ始まったサッカーW杯。にわかサッカーファンの僕自身も非常に楽しみだったんですけども、今回は日本代表の応援をボイコット。強豪国であり前回のブラジル大会で敗北を喫した南米のコロンビア戦もテレビをまったく観ず、報道で結果だけを抑える程度に留めて「あ、日本勝ったんだ。へぇ。」程度で感情を抑えています。正直言って決勝に進もうが、予選敗退になろうがどうでもいい。その応援ボイコットのきっかけとなったのは今さらいうまでもありませんがこの事件。

 

 

www.jiji.com

 別に西野監督や選手にはこれといって恨みもないんだけども、僕は日本サッカー協会のこの仕打ちを絶対に許せません。解任理由も「選手と監督のコミュニケーション不足」みたいな説明をしているけど、だったとしても予選を勝ち抜いてW杯出場のキップを手に、これから並みいる世界の強豪を相手に戦ってやるぞ!と意気込んでいるだろう監督からその権利を奪うなんてあんまりだし、こんな道理の通らない話はありません。W杯をハリルホジッチ体制で戦うつもりが最初からないんだったら、どうして事前の強化試合の指揮をとらせたのか。いきなりの決定だったこのハリルホジッチ解任は多くのサッカーファンも疑問を呈しており、本選前の監督交代について多くの人が不満だったはず。コロンビア戦直前までの下馬評も日本代表の評価は低く「決勝に進出?ムリでしょう」という声が圧倒的だったのに終わってみれば手の平返しで「感動した!」のオンパレード。この「結果がよけりゃぜんぶオッケー!」みたいな空気に僕はひどくイラついています。

 

 コロンビア戦勝利の余韻に日本全国で浸っているなか、こんなブログを書いている僕は本当に根性曲がりだろうな。とも思うけど、これはサッカーだけの話ではありません。コラムニストの小田嶋隆さんは今回のハリルホジッチの解任について、こう語っています。

 

business.nikkeibp.co.jp

以下、コラムの引用

"何回か前の当欄で簡単に説明した通り、私は、現代表チームのメンバー構成やチームとしての正当性に疑念を抱いている。よりはっきりとしたところを申し上げるなら、私は現代表チームならびに、その選考に当たったJFA日本サッカー協会)の首脳を信頼していない。

(中略)

 理由は、以前書いたことの重複になるが、前監督であったハリルホジッチ氏解任の顛末に納得できていないからだ。また、西野監督に後任を託した理由と経緯についてJFA日本サッカー協会)ならびに西野監督本人がなにひとつマトモな説明をしていないからでもある。"

 

こう語ったうえで、更に続けます。

 

"「いまさらグダグダ言っても仕方がないじゃないか」「過ぎたことを蒸し返してどうなるものでもないだろ?」「とにかく今目の前で戦っている自分たちの代表を応援するのが、普通の日本人としての唯一の現実的な態度だとオレは思うわけだが」てな調子で、当初は不満を持っていた人々も、時間の経過とともに、順次わだかまりを水に流しつつある。こんなふうにすべてを水に流して忘れてしまうことが、善良な日本人としてのあらまほしき上品な振る舞い方だということを、われわれは、子供の頃からやんわりと教えられ、そうやって大人になっている。

(中略)

 われわれの多くは、不満たらたらで通っていた職場にも、そのうちに馴れてしまうタイプの人間たちだ。してみると、どんなに無茶な人事であっても、いかにデタラメな状況説明であっても、事態を掌握している側の人間が中央突破で押し通してしまえば、最終的にはどんな無茶でもまかり通ることになっている。月日のたつうちには、誰もが抵抗をあきらめてしまう。われわれが住んでいるのはそういう国だ。つまり、既成事実の積み重ねが人々を屈服させるということの繰り返しがこの国のこの千年ほどの歴史の主要なストーリー展開であったことを踏まえて考えるなら、JFAの排外クーデターもモリカケの強弁も、最終的には「現実としてこうなってしまっていることについていまさら何を言っても仕方がないじゃないか」てなことで、不問に付されるに決まっているのである。"

 

 世間的にみたら、たかがサッカーという話だけど、この一連の騒ぎは結局のところ、権力を持っている人間たちが物事を勝手に決める横暴を繰り返すことで「その他大勢」である僕たちに道理に合わない手続きを「もう決まったこと」と諦めさせるという点で現在の政治や経済を突き動かしているものと本質的に同質のものです。つまり、僕らは力を持っている奴らに「どんな横暴もあいつらは時間さえ経てば忘れる」「目の前の結果というエサをくわせりゃ、あいつらは喜んで尻尾を振る」とナメられているのです。

 たかがサッカーではありません。今回のハリルホジッチ解任は「森友学園」や「加計学園」疑惑、自衛隊の日報の隠蔽、日大アメフト部の不祥事、企業の会計不正などと同質構造による「筋の通らない権力の横暴」であり、それらはみんなひとつに繋がる話なのです。たとえ日本がW杯で決勝トーナメントに進もうが、ベスト8になろうが、優勝しようが僕はその協会の「道理を弁えない振る舞い」を許そうとは思っておりません。皆さんはどうぞ心ゆくまで存分にサッカーのW杯をお楽しみ下さい。あ。ちなみに今大会で日本代表が決勝トーナメント進出を決めたらサッカー協会は結果を出したことになるのかという問いには「NO!」と答えておきます。それは結果ではなく単なるまぐれあたりだからです。

 

「マネジメント」第26章の「組織の精神」で、ドラッカーはこう語っています。 組織の焦点とは成果に合わせなくてはならない。 ここでいう成果とは何なのか?ドラッカーいわく「成果とは長期のもの(つまり継続性のあるもの)であって百発百中ではない。 百発百中は曲芸である。」と語っています。この話を僕は以下のように解釈しています。 百発百中の曲芸。これは僕らがふだん考える「理想の結果」です。だけど、これらは言うまでもなく一過性のものであり続く事はない。服の売り上げ100万円だって29日間売れなくても最後の1日でお金持ちが100万円分買ったら達成される。あるいは想定の2倍の量が毎日売れて200万円UPになる月だってあるかもしれないし、逆にまったくダメで売り上げ-100万円DOWNの月も存在しうる。 このように先が見通せない中で、百発百中の曲芸を思わせる「理想の結果」を短絡的に求めて一喜一憂するのは不毛である。だったら毎月100万UPに達せなくても、その目標に近い金額を達成できるプランを立てて継続的に実行させていく。たとえ、そのプランで達成できなくてもその「失敗」という弱みに臆せず、売上100万円アップを目指して、新しい事に積極的態度で継続的に取り組んでいくことこそ、成果である。 こんな感じでしょうか?

ドラッカーを読んでいなくてもできる、店舗売り上げアップ作戦を紹介 - サブカル 語る。

  マネジメントの著者、ピーター・ドラッカーは「結果」を上記のように語りました。ドラッカーの言葉に当てはめると、日本サッカー協会は98年以降、毎回日本代表をW杯に出場させているという意味での結果、成果は出しています。そこは認めます。ただ、ここから先の日本サッカーが目指すべきは継続的なW杯決勝トーナメント出場常連となるチーム作り。単発的にベスト8やベスト4に入ったり、優勝をしたところでそれはまぐれでしかありません。だからこそ、4年ごとの結果に一喜一憂しないで継続的な代表強化を続けてもらいたい。そうやってサッカーを日本の文化に育ててもらいたいと思っているからこそ目先の結果だけでハリルホジッチを解任したサッカー協会を、僕は許せないのです。

 

arrow1953.hatenablog.com

 ※実話に基づく記事。アパレル業界に努める知人(高卒)が月に100万円の売り上げアップを会社から求められた時の奮戦記。大学で経営学を学んだという本社から来たマーケティングの専門家が達成できなかった目標を、高卒の店員が創意工夫で挑み、痛快な結果になるまでを語ったイチオシのエピソード。読んで損はさせませんので、ぜひ!!

 

 


 

 

 

 ※サッカーって選手が鍛えた技術を競い合うのが前提だけど、向かい合って戦っている監督同士の戦術ってのも本で読むとスゴイ。フィールドで行う将棋といっても過言じゃない。

BL(ボーイズラブ)を読んだウブな乙女の意外な感想について

こんにちは。

 

f:id:arrow1953:20180620013534j:plain



 

 本日のブログ記事は思うところあって、以前書いた記事のリライト。最近ブログアクセスが増えており、それはそれで嬉しいんだけど、その中でもお気に入りな記事であるにも関わらず未だ殆どの人に読まれていない記事も多くあったりします。そんな時は既存の記事に追記するのがいいのか、またはgoogleインデックスから削除した後、改めて記事を書き直す方がいいか。そのあたりの検証も兼ねて本日は記事を書いてみたく思います。数あるほぼ未読の記事から選ぶのは「BL(ボーイズラブ)」についての話題。

 

ボーイズラブ - Wikipedia

 

 ボーイズラブとは何かというと男性や少年同士の性愛を描いた物語を指しており、漫画やアニメ、ゲームなどあらゆるメディアで流通しているジャンルではありますけど、70~80年代には竹宮恵子の「風と木の詩」や萩尾望都の「トーマの心臓」など、少年の背徳的な性愛を描いていた少女漫画も少なからずあったため、男性の性愛自体はさほど目新しいテーマでもありません。ただ、僕が中高生だった頃は先述の「背徳的性愛」というより、直接的性欲の発露、その性描写が表現の中心になった同人作品などが広く流布するようになったことから、これらの作品は俗に「やおい」と呼ばれており、どちらかというとアングラな立場に置かれていた印象があります。

 

kotobank.jp

 

 人気アニメ・漫画作品の美形キャラを使った性描写ありのパロディー同人作品も多数あり、少年漫画の「聖闘士星矢」や「鎧伝サムライトルーパー」など男子キャラクターの豊富な作品が女性に人気を博していたのも、この「やおい」が少なからぬ影響を与えていたからであることは、今さら言うまでもありません。また、その中にはどの層をターゲットに書いたんだ?と首を傾げたくなるような作品もありました。知人はキン肉マンテリーマンやおい本で互いに下半身でつながり、「マッスルドッキング!」などと叫んでいるのを見て「どこでドッキングしてるんだ!」といいたくなったと語ってたな、そういや。

 

 さて本題。もう8年ほど前の話になります。当時、LANネットワークの技術者として僕が出向していた会社でその時、隣の席にいた娘の話です。この女の子は明るくて人当たりもいいだけでなく下手なアイドルなんかより可愛かったため、同僚の野郎ども全員から好かれていました。隣の席だったので僕も仕事のことやプライベートについてよく話していましたけど、その中で印象的だったのはこの女の子が腐女子の友人に薦められてBL(ボーイズラブ)系の同人誌を読んだ時の感想。その友達からボーイズラブの話を聞いてその存在は知っていたけどどういうものかわからなかったため、興味本位で読んでみたそうなのです。そのBL本を読んだ彼女はこういいました。

 

「AMさん、私、この間友だちにBL(ボーイズラブ)のマンガを借りて読みました!」

 

 いや、別に同性愛に偏見はないんだけど、その子の持っていた「恋に恋する乙女」イメージとBL(ボーイズラブ)のイメージがあまりにギャップがあったのと、BL(ボーイズラブ)=やおいという先入観もあったので、僕はキン肉マンテリーマンの交わりなんぞを連想して飲んでいるお茶を思わず吹き出しそうになりました。その子の手にあった作品にも当然男性同士の性行為があり、局部には修正が入っていました。その修正も下記ブログで調べたところ複数パターンがあり細分化しているそうです。

blove.livedoor.biz

 

 その子が見せてくれた本の修正のパターンはセリフの吹き出しで局部を隠すパターンと、男性の股が光でぼやけている表現の2パターン。彼女の話を聞いてみると男性の股の部分がぼやけている表現の意味が分からないというので「そりゃ性器をぼかしてるんでしょ」と教えたら「え?アレってそういう表現なの?」と、いうのです。「そういう表現もなにも、ソレ以外になにがあるのよ?」と聞いてみたら、その女の子は納得したのか、大声でこう答えたのでした。

 

「私、その部分は男の人の金玉だから光らせているのかと思っていました!」

 

 乙女が人目を憚らずに大声で発する「金玉」という台詞。もうこのシチュエーション、マニアにゃたまらんでしょうね。しかしながら、僕はつくづく思いましたね。天然にゃかなわないわな。

 

[商品価格に関しましては、リンクが作成された時点と現時点で情報が変更されている場合がございます。]

密やかな教育 〈やおい・ボ-イズラブ〉前史 [ 石田美紀 ]
価格:2808円(税込、送料無料) (2018/6/21時点)


 

「HINOMARU」という曲の見せつける、この国の愛国の限界

 こんにちは。

 

f:id:arrow1953:20180412025305p:plain

 

 本日のテーマは映画「君の名は。」の主題歌も務めている「RADWINMPS(ラッドウィンプス)」の新曲「HINOMARU」。この曲の歌詞が「ひどく右傾化したもの」として物議をかもしているそうな。どんな歌詞なのかを細かく引用したりするとまたJASRACがうるせーので、概要を紹介。

 

古来より風にたなびく旗(日本の国旗)
意味もなく込み上げてくる、僕のこの思い。
胸に手を当ててみると血潮が高鳴り、

その高鳴りに誇りを感じる。
さぁ行こう!日出づるこの国の下に。

 

HINOMARU

http://j-lyric.net/artist/a04ac97/l0469f5.html

 

 だいたいこんな感じ。この歌が戦前の軍歌を想起させるという理由で、RADWIMPSのライブ会場で抗議集会を行おう!とかいう呼びかけもツイッターで行われたことで、ちょっとした騒ぎになりました。

 

www.j-cast.com

 

 なに?いつもの僕のブログの論調から「抗議集会に賛成だろう?」って?いいえ。むしろやめておけ。と思っていますよ。どうせ大声で反対を叫んだって届かないから。先日も同じ理由から話題になったゆずの「ガイコクジンノトモダチ」という歌について思っていることを書いたけど、こういう「国旗」みたいなシンボルを使ったメッセージってすごく分かりやすい。そのためいくら抗議をしたところでライブに来ている客には「自分の生まれたこの国を愛することは当たり前だ。どこが問題なんだ?バカじゃないのかお前ら」と言われたら反論できません。僕だってできないわ。今、大事なのはこの曲をRADWIMPS歌わせないようにすることではなく、「国旗」などのシンボルに頼る、分かりやすい愛国の危うさや脆弱さなどを時間をかけてでも語り、伝える言葉ではないかと思うのです。その役を本来、担うべきなのはネットで「パヨク」「サヨク」と揶揄される人たちではなく寧ろ「保守」を自称している人たちなのです。

 

 保守の代表格とされる文芸評論家の江藤淳は戦後の日本を「日本人の生活に根差していた本来の伝統や文化が失われたフェイク」であるというような評価をしており、だからこそ、シンボライズされたモノに頼る愛国心を「ニセモノ」と呼び、ひどく嫌っていました。現在、この国で広く流通している「愛国心」は僕にいわせりゃまさに、生活からにじみ出る感情ではなく「国旗」などのシンボルにより煽られているニセモノでしかありません。だからこそ「自分の生まれた国を愛することは当たり前だ。どこが問題なんだ?」といった疑問に正面から答えるための言葉を構築することが遠回りだけど最も重要であり、それを保守が怠っている限りシンボルに頼った安くて弱い愛国心はこの先もこの国覆うことになるでしょう。

 

「軍歌みたいな曲を歌うな」ではなく愛国心は大いに結構。この曲の評価についてもどうこういいません。あなたがいい歌だと思っているなら、その思いは大事にしたらいい。だけどこの曲で語られている『国を愛する気持ち』というものは国旗などのシンボルがなくては成立しないような弱さがあると思います。国旗で愛国心を鼓舞するより、もっと生活に根を張って自分の人生を大切にしてみたらいかがでしょう。あなたの使う言葉や口にする食べ物、箸の上げ下げなどの風習やその風習を育むこの国の風土、あなたの立っている土地やそこにいる大事な人たちに思いを馳せて蔑ろにせず、意識を働かせていれば曲に頼らずともこの国や自分の生活を愛する気持ちが沸き起こるよ」というメッセージを届けることで、大地に丈夫な根っ子を張った思想をゆっくりでもいいから育てていくこと。メディアなどで最近増えている「日本ってすごい」という手前味噌な自画自賛や他国文化を貶める罵詈雑言はその努力を怠ったからこその結果であり、それはもう限界だということをこの国は認めるべきだろうな、と僕は思います。

 

 

[商品価格に関しましては、リンクが作成された時点と現時点で情報が変更されている場合がございます。]

〈愛国心〉に気をつけろ! (岩波ブックレット) [ 鈴木邦男 ]
価格:626円(税込、送料無料) (2018/6/15時点)


 

 

 

arrow1953.hatenablog.com

 

 

arrow1953.hatenablog.com

 

サブカルに煽られる愛国心なんてみっともないったらありゃしないわ!!

戦隊ヒーローこそ実は最もジェンダーレスであると僕は考える

こんにちは。

 

f:id:arrow1953:20180613021141j:plain

 

 おとといブログで書いた記事がえらい反響っていうか罵詈雑言の評価で広まっており、なんだかなぁ、と思いながら寄せられたブクマに目を通していました。内容の評価はともかくとして、多かったのが女性レッドはいない(ちょっぴり物語の後半に女性レッドが登場したシンケンジャーを除く)、レッド=リーダーではなく物語の象徴と、わざわざ赤文字で書いてやってるのに「シンケンジャー知らないのか?」「リーダーがレッドじゃない作品もある!」とか書いてくる人を見ていて、つくづく「本文読まずにブログのタイトルだけに反応するパブロフの犬がこんなに多けりゃ、そりゃフェイクニュースも広まるわな」と、思わされました。このセンテンス、とても大事なので強調する。

 

「本文読まずブログのタイトルだけに反応するパブロフの犬がこんな多けりゃ、そりゃフェイクニュースも広まるわな」

 

 まぁ犬だからこそ同じセリフを吠え続けるんだろうけども。さて本題。このブログは別に論文でもないので自分の私見をつらつら書いていますが戦隊ヒーロー(5人戦隊で育っているので馴染まないな)は最もジェンダーレスな存在であるというのは僕の見解です。原則として戦隊のメンバーは全員同じスタイル。(キャラ固有のヘルメットのフォルムやカラー、女性メンバー特有のスカートの有無などの違いを除く)。そのベーシックなスタイルだけを見てみると、そこに性差はあまり感じません。これはどうしてかというと、戦隊モノのコンセプトが、あくまで「集団」だからだと僕は考えます。コンセプトのテーマが集団であり、いってみればメンバーの集合体そのものが主人公であるなら、集団の象徴(レッド)を女性キャラに担わせることだって可能じゃないのか、といっています。メンバーの比率が全作品を通じてだいたい男女で3:2前後だったら(くどいけど例外はある)男の子だけじゃなく女の子にも広く訴求できる作品を作れるんじゃないですか?という提案です。なんだか知らないけれど女性レッドを作るべき!とか、俺はそんなこといってねーっつーの。リーダーや司令官が女性の作品も過去にあるというの批判もえらいピントが外れている。僕が何度もいってるのは集団の象徴。つまり「女性メンバーはAKB48でいうところのリーダー高橋みなみではなくて、センターの前田敦子になれないのだろうか?」という問いかけであり、そこに金脈はあるんじゃないの?という話を何度もしているだけ。

 

 あとこういうのも多かった。「女をレッドにするならプリキュアに男がいるべき」。いっておきますけど、プリキュアは80年代の魔法少女の系譜にある物語です。

 

arrow1953.hatenablog.com

 

以下、記事を引用。

 

セーラームーンというマンガはどのジャンルに属するのかを考えた時、おそらく「バトル系」でなくて「魔法少女系」ではないだろうか?と僕は考えています。 日本のサブカルで「魔法少女」をテーマとするアニメ、マンガ作品は横山光輝の 「魔法使いサリー」がこのジャンルの最初であり、この後「魔女っ子メグちゃん」や「魔女っ子チックル」、「魔法少女ララベル」等の系譜で受け継がれていきます。彼女たちは自らの万能な魔法を使って、周囲のトラブルを解決したりするけど、80年代以降にこの万能な魔法を使う女の子は少なくなっていき、代わりに台頭してきたのは 「魔法のプリンセスミンキーモモ」、「クリィーミーマミ」「ペルシャ」「マジカルエミ」などアイテムを使う事で自分が大人の専門職になり、自分自身の職業スキルでトラブル解決にあたるタイプの主人公達でした。例えば周囲にけが人がいたら看護師に変身をして人助けをしたり、自宅の近くで喧嘩があったら女性警官に変身してトラブルの解決を図ったりなどなど。 だけどもこれって魔法少女とはいわないんじゃないのだろうか?サリーちゃんみたいな万能魔法を使ったほうが合理的だし、百歩譲って変身だったらウルトラマン仮面ライダーみたいな万能の力を持ったヒロインになるべきだろう。 長年こういったことを、フェミニズムの視点で考えてきたけどふと気づきました。これらのアニメが放映された「80年代」の日本はバブルによる好景気。もちろん格差はあっただろうけど男女ともに相応のお金を手にできて、自由に使える環境が整っていた時代でもありました。働く事によって女性もそれなりのお金を手にして自由に生きる=大人になって自立をする。つまり、この時代の女の子にとって万能の力を得るという事は自立した大人になること。だからこそいきなり大人になれるという事が、物語の主人公達にとって最高の魔法だったんではと思うのです。 セーラームーンの戦士達は地球を狙う悪と戦うヒロインでありながら、変身スタイルはクリーミィーマミ達と同じく着せ替えです。ここにセーラームーンが80年代魔法少女の正当な後継者である根拠を見出すことができるのでは?と僕は考えます。セーラームーンたちは変身の際に、「○○○○○○(自分の守護星。木星や金星など)パワー」と叫んだ後「変身」じゃなく、「メイクアップ(化粧)」とセリフを続けて変身を完了させる。これは女の子にとって「闘いを挑む(問題の解決にあたる)」ための手段は「自分にメイクをして大人になる事」だということを暗喩しているんでは?という解釈もできるのです。補足になりますけど、ドレスアップやメイクアップの魔法を使う魔女っ子の系譜は現在もリリカルなのはまどかマギカプリキュアに続いています。どの作品でも、ポイントになるのは姿格好の変身によって少女は大人としての自分を獲得して、物語で困難に立ち向かっていくという点にあります。 さて、では男の子はどうでしょう?男の子の場合の変身は「人知を超えたモノへの融合」です。ウルトラマンと融合したハヤタのように。仮面ライダーに改造された本郷猛のように。男の子にとって変身は「超自然的な力と自らを融合させる事で超人となる」ことを意味します。その事について具体的に言及したのは漫画家の石ノ森章太郎先生です。石ノ森先生は仮面ライダーについてこう言及していました。 「『ショッカー』とは、企んだ技術文明の象徴である。その技術の付加によって誕生するのが「仮面ライダー」だ。後には自然の守護神(平和の戦士)になるが、言うなれば“技術文明の申し子”あるいは鬼っ子のモンスターである。したがって、こうなる。自然(バッタによる象徴)が直接人類(文明の象徴)に反旗を翻すのではなく「仮面ライダー」(バッタと人類のハーフ)、即ち自然と人間が協力して“悪”に立ち向う……。」

特撮ヒーローとセーラームーンにみる変身の違いを考える - サブカル 語る。

 

  これは2年前に書いた記事ですが、女の子にとっての変身とは原則的に「大人への成熟」であり、男の子にとっての変身とは「人知を超えた力との融合による超人になること」といったジェンダーが内包されていると解釈をしています。プリキュアウルトラマン仮面ライダー、戦隊ヒーローとを並べた際、変身の意味合いは男の子側でありながらも男女が一定の割合に含まれており、個性を排したスーツを身につけるという意味で、戦隊ヒーローは「ジェンダーレス」な存在であるといえます。それこそ、女性のイメージの強い赤を男性キャラに配したという意味においても。プリキュアのエピソードから女性の戦隊ヒーローについて考えたのはいってみれば「女子高に通う一人の少女から、共学の学校における一人の少女について考えた」のと同じであり、先述の意見は「共学の少女を学校の象徴にしたから女子高も男子を入学させて象徴にしろ」といっているのと同義であると僕には思えてなりません。女子高に例えたプリキュアに対比して話すなら、ウルトラマン仮面ライダーの世界観はさしずめ男子校になります。前述した仮定により、両者には女性ウルトラマンと女性のライダーは存在しますが、変身の価値観が異なるため、おそらく異性のキャラはメインストリームにはなりません。そういや少女が魔法で青年になる「魔法少女・俺」という作品もありましたけど、同じ理由で亜流に留まると僕は思う。

 

 いっておくけど、あくまで私見だからね。何度もいうけどジェンダーレスなヒーローだからこそ女性=物語の象徴になれる可能性を秘めているのが戦隊ヒーローです。実現可能かどうかはともかく、考慮の余地はある筈。別に、この意見に同意しようと反発しようと、お好きにどうぞ。