サブカル 語る。

サブカルチャーなどについての雑談

プリキュアに「親子の血」を求める僕は古いタイプのオタク

こんにちは。

 最近は小学生になった娘の成長を理由に「ヒーリングっど♡プリキュア」以降、このシリーズから長く遠ざかっていましたが初の青キャラの主人公設定に男の子や成人女子のレギュラープリキュア登場などやたら攻めているとの評判から再び見始めたプリキュア。今年の「ひろがるスカイ!プリキュア」は率直にいって「とても面白い作品」になっていると思います。

 

 そんなプリキュアシリーズも気づいたら今年で20周年。かつて、僕はこのブログにてプリキュア15周年を彩った「HUGっと!プリキュア」をこのシリーズだけでなく平成アニメのラストを飾るのにふさわしい最高傑作だと評しました。

 

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※このブログ記事は最も気に入っています。言葉足らずの拙さと込めた熱量がいい。

 

独断ながら5年前に最高傑作認定したはぐプリを超えてもらいたいという想いと「いや
俺にとっての最高傑作が揺らぐのもイヤ」という二律背反を抱えてたりしていますが、今年の秋には大々的にプリキュアの20周年を祝う映画公開も。

 

2023allstars-f.precure-movie.com

 

こんな感じで25周年、30周年っていうふうに続くんでしょうね。

 

 長い前振りはこの辺でそろそろ本題。プリキュアウルトラマン仮面ライダーなど
世代を超えて知られるヒーロー番組の今後を社会的な情勢から推測するのは僕の趣味なんですけど、プリキュアも前述した昨今のヒーロー傾向に従って歴代メンバーの能力をカードみたいな何らかのアイテムに変え、その力を使って戦うプリキュアっていうのはたぶんそのうちあると思います。そしてもうひとつの傾向である「親子」。25周年か30周年には初代プリキュアの娘を主人公にしたシリーズが出るかも。などと考えているうちに「俺って案外血統みたいなものに縛られてるな」って思ったんですよ。

 初代プリキュアから25年、30年も経てば初代の「娘」がプリキュアになるっていうのはウルトラセブンの息子「ウルトラマンゼロ」、ウルトラマンタロウの息子「ウルトラマンタイガ」などを見ていてもおおいにあり得るものだし、親子で楽しめるプリキュアっていうテーマにも合致しているようにも思えます。だけどもそもそも女の子の自立をテーマにしたプリキュアで血縁みたいな、ある意味で人の自立を妨げるものをテーマにするだろうか?そんなことを延々考えていると息子という「血縁」をヒーローたる条件、理由だとすることについてさほど違和感を抱いていなかった僕自身がなんだか古く思えてきて複雑だったりします。現実でも政治や芸能の分野で多くの二世、三世など「血縁」が幅を利かせており、物語の中でもその気づくとその傾向があるんだなと思ったりする今日、この頃。旧態依然の古い価値観をアップデートする!っていうのもなかなか難しいもんですな。

 

 


 

 

※祖母が以前プリキュアだったという作品もあるので初代の娘がプリキュアになるというのも「ぶっちゃけありえなくもない」んだけど、どうなんだろうな?

男の子プリキュアはあり得ないと笑った奴、ここに正座しろ

こんにちは。

 

 今年はプリキュア20周年。コロナによって製作が遅延したため「ヒーリングっとプリキュア」の放映が再放送になったことから娘がプリキュア卒業したのをきっかけに、僕も「そろそろ潮時だな」とプリキュアから遠ざかっていましたが、今回の「ひろがるスカイ!プリキュア」は男の子が変身するプリキュアがレギュラー出演する。との情報を得て、プリキュア視聴に復帰。以前の「HUGっとプリキュア」で物語に関わる重要キャラの男の子「若宮アンリ」が限定的ながらもプリキュア「キュアアンフィニ」に変身した時、以下の記事を僕は書いております。

 

 

 男の子プリキュアが今後の作品でレギュラーになれるかといったら正直言って、かなりキビしい。男女双方によるヒーローの「変身」についての考え方が上述のように明確に異なっており、「女の子だって暴れたい!」という当初のコンセプトに基づいた全員女の子のチーム体制が主流である現在のプリキュアに、男の子を混ぜる図式を違和感なく受容できる人は大人こども含めてまだ少数では?と思います。そもそもの主体が女の子であることを謳っている物語なのに、そこに男の子をレギュラーメンバーで加えたら物語の基本的コンセプトもブレますからね。

中略

 もしも今後も男の子のプリキュアが物語に出るとしたら、当面は今回みたくゲストという形になるしょう。とはいえ、今回のキュアアンフィニが多くのファンやメディアで好意的に受け取られていることを考えるとおそらく東映も男の子プリキュアのレギュラー化を模索していると思います。男の子レギュラーを実際に実現させるとしたら嘗てのタイムボカンシリーズのように男女対等の二人一組タッグ体制にして、男の子のコスチュームをボーイッシュ傾向の強いものにデザイン。二人の能力もダブルライダーの「技の1号 / 力の2号」みたいな差別化を図り、異なる特性でお互いを対等に補って戦えるプリキュアというのが現状ではベストではないでしょうか。まぁ初代プリキュアっぽくなるけど

 

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 いやー!予想外れたなー。悔しいけれど、やったな!という気持ちが強いです。この男の子プリキュアを本気で(勝手に)あり得るのか?を考えるきっかけになったのはその前のスーパー戦隊シリーズで「女性レッド」がいてもいいんじゃないか?というブログ記事がさんざん叩かれたことでした。

 

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 数年前に「男性レッドはあり得ない。だったら男のプリキュアを出してみろよ!」と
笑われたのがうそみたいですな。まぁ僕も予想を外したのでえらそうなこといえませんけど。何?ポリコレ?ちげーよ!これは社会が変わってきているんだよ。

 

 こんなふうに社会は少しずつ変わってきている。僕らオタクも社会の変化に少しずつ
対応できないといつまでも古いフォーマットや再生産され続ける「エロ」「萌え」から出ることはできないのでしょう。

 

その前に男の子プリキュアはありえないと笑った奴、ここで正座な。

 

 


 

 

 そもそもさぁ「ジョジョ」や「FF(ファイナルファンタジー)」「ワイルドアームズ」など女性が主人公を務めたシリーズもあるのに「女性レッド」や「男の子プリキュア」の可能性を想像できないっていうのがおかしいんだよなぁ。

 

フェミニズムも離党騒ぎもトランスも周囲を見て、他人のことを考えろ

こんにちは。

 

 

 今回のテーマは「最近のツイッターにおける発言の酷さ」。このテーマは本音を言うとあんまり気が乗りません。っていうかむしろこの話題について述べたくない。だけども僕のタイムラインに次々上がってきている発言を見て、やっぱりいっておくべきだと思ったため言わせていただきます。

 

「ケンカだったら別の場所でやってくれないかな?」

 

 僕のタイムラインでは最近、フェミニズムやある政党での議員の離党騒ぎ、トランス問題などのセンシティブ且つポリティックなテーマでの議論が多くなされています。異なる意見をぶつけるのはおおいに結構。だけどその異論のぶつけ合いが単なる差別発言の投げ合いや喧嘩になっているケースも多く、正直「ウンザリ」させられてもいます。

 

 そりゃ意見が合わなけりゃ議論すべき相手に罵詈雑言をぶつけたり、全否定したくもなったりするでしょうよ。でもtwitterみたいな話題の専門性が薄く、大勢の人が利用する場では利用にそれなりの公共性が求められると思います。そういうことをいうと「関係ない人はだまってろ!」みたいな反応がくるかもしれないけど、twitterという公共性の高い空間を利用する僕にもそれらに「うるさい!」と文句をいう権利はある。大勢の人たちが行き交う通りで喧嘩や怒鳴り合いを目にしたら両者の正当性を問う前に、まずは争いを止めたり「うるさいな!喧嘩だったら他所でやれ」と文句をいったりするでしょう?互いが互いの正しさを唱えるのはいい。だけどその唱えている言葉はどんなものか?その言葉を唱えている場所はどんなところか?もう少しその辺を考慮いただきたいと思う。

 異性を性器呼ばわりしたり、政党にそぐわない意見を述べただけで離党させられた人やその対応を批判する人を戦前みたいな「反共」という言葉で罵ったり、対立する性的マイノリティーの人を犯罪者扱いしたり。ほんとうにいい加減にして下さいよ。関係ない人は黙ってろ?いや、言わせて貰う。関係大アリだよ。僕もあなたたちの価値観が入り混じっている社会で生きている。当事者でなくたって無関係ではいられません。そう思っているからこそツイッターで目に入ってくるひどい言葉に目を覆う人もいるのです。もしこの言い分に「イヤなら見るな」といってきたらその瞬間、その人は表現の自由を全然理解できない「表現の自由戦士」と同レベルになりさがるだろう。ということだけはいっておきます。

 

 きっぱり言わせて貰うと「シスジェンダー」「トランスジェンダー」「フェミニスト」「ミソジニスト」その他諸々の立場にいる人はぶっちゃけこの先も、消えていなくなることはありえない。ずっと存在し続けます。だからこそ、その中でどういう社会を作っていくべきか?というテーマで知恵を働かせるのが僕らの課題であり、そこで求められるのは調整と交渉であって対立相手の排除ではありません。つまり「民主主義」です。だけどツイッターでは対立相手の排除を願うような暴論が最近あまりにも多い。その暴論には多くのリツイートや「いいね」が集まり、さらに発言者は同意者を集めるために言葉を先鋭化させ、異論や批判を呟く口を塞いでいく。この現象を見るにつけ、僕らは建前上「民主主義社会」に生きているけど、本音はそれを望んでないのではないか。極端なことをいうと僕らの心は声の大きさや多数の力によって相手を抑えつけ、自分にとって居心地のいい世界を作りたいと願う「覇権主義」的な欲望に囚われているのではないか?と思えてならない。僕自身もその欲望を抱えているという反省を踏まえていわせていただきます。

 

 以前、僕はこの国で暮らす誰もが民主主義に則り、自分自身の幸福を追求することを高らかに保証する「日本国憲法」をリスペクトしているとブログで述べました。

 

 知識不足を承知の上であらためて日本国憲法を読んでいて、僕は日本国憲法とは「この国で僕らが、幸せに生きていくためのガイドブック」だったんだなという感想を抱きました。この国の憲法は僕らに、こう語っているように思えるのです。

 

この国の主人公は、この国で暮らしている皆さんひとりひとりです。皆さんは性別や人種、物事についての考え方、生まれ育ちや社会的な地位で差別されません。

 

中略

 

  皆さんは独立した思想や考えを持っている『個人』であり、公共の福祉に反しない限りその個性は最大限尊重されるべきです。 ※他の個性の考えている『幸せ』と衝突した時には議論によって両者の落としどころを探しましょう。まかり間違ってもその個性を暴力や権力などで捻じ曲げるようなことがあってはいけません。このように、この国では最大限、皆さんの自由を妨げません。国民の皆さんがこの国でどう生きるべきか、この国をどうしたいかを、一所懸命考えて下さい」

自民の改憲漫画「ほのぼの一家の憲法改正ってなぁに」の間違いが酷い - サブカル 語る。

 

 だけど、結局のところ僕を含めた多くの人たちは日本国憲法の理念も民主主義も理解できていないのかもしれない。現在もタイムラインで続いている「覇権争い」に、僕は加わろうとも思いません。ただ、ツイッター上での覇権争いを見ていて僕と似た考えをもっている人、覇権争いに加わりながらも疑問を抱いている人にはこのブログで「民主主義って何なんだろうな」と小さな声で呟き続けてみたいと思っています。

 

※争いの渦中にいる人はこのブログを見て「何もわかってない奴が偉そうなことをいうな!」といいたくなると思う。うん、わからない。でも、世間の大勢はたぶん「分からない人」であり、そういう人たちからみたら「暴論で同意者を募り、他者を貶め合う覇権争いはどう映るのか?」ということを考えるためのヒントはたぶんこのブログにあるとは思う。

 建前でも特定の人だけでなく平等に誰にでもあるのが「人権」。いくら自分の属する立場の人権を守りたいからといって、他者の人権を貶めていいとは僕は思わない。

 

 

 


 



ことばの領域がサブカル的な記号に浸食されている日本

こんにちは。

 年明け最初の記事はこのツイッターでの呟きについて

 

 

 


 多くの人も指摘しているけど、たぶん「ONE PIECE」のこの辺りの影響でしょう。

 

 

 ここで自衛隊の賛否や是非について問うつもりはありません。ただ、僕は数年前からこの国では「政治」「行政」の分野で語られるべきことばがやたらサブカル的な記号に置き換えられている傾向を憂慮しています。

 

 どういうことかっていうと、こういうことです。

www.bbc.com

 

以下、意訳

 日本の神奈川県小田原市の福祉課職員が生活保護の不正受給に対して、攻撃的なメッセージをデザインしたジャケットを所有していたことが明らかになった。正面には「悪」をデザインした紋章があり背中にこのようなメッセージもあった。 

 

「保護なめんな」

「あえていおう、不正受給をしようとする人間はカスである」

 

 朝日新聞は「小田原市で職員が家庭訪問でジャケットを着た」ことを伝えた。このジャンパーは2007年に生活保護をめぐって職員が申請者の男性に襲われたことをきっかけに「士気を高めるため作られた」と語り、28人の職員は現在でも所有していると述べた。小田原市は7人の職員を懲戒処分。加藤健一市長は「不適切な表現だった」と謝罪した。

 

 数年前、BBCが神奈川県小田原市の福祉課職員らが生活保護の不正受給者に差別的、且つ攻撃的なアプローチを行っていたことを報道。このニュースで注目すべきは職員らの攻撃的な発言がガンダムの登場人物ギレン・ザビの「あえていおう、カスであると!」という有名なセリフそのもの。ということです。

 海上自衛隊のツイートも、小田原市の職員の発言も、よく見たら単なる「アニメやマンガの引用」でしかない。だけど本来は「国防」も「福祉」もそのあり方や理念、意義などについてを言葉を丁寧にかつ慎重に語りながら議論を積み上げ、できるだけ理想に近いシステムを形作っていくべきものではなかったのか。船からひけらかす「正義」という言葉は隊員たちが言葉を積み上げて形作られたものなのか?「不正受給をする人間はカス!」という発言は職員が「生活保護」「受給者」についての議論を重ねた結果生じたことばなのか?たぶんそうではなく、これらは単純に彼らの立場を肯定できる「彼らにとって口当たりいいのフレーズ」というだけで、それを表に出すことで酔っているだけに思えてなりません。福祉も国防も「防衛力」や「経済力」など、国民に何らかの力を行使できる立場だからこそその辺は慎重であるべきなのに、そこを「アニメや漫画の引用でしかないセリフ」で自分らの正当性を言い切ろうとする態度はどうにも危なく少々傲慢ではないかと思うのです。

 

 逆に言うと、その傲慢さがこういった事件などの根本にあるのでは?とも僕は思う。

www.nhk.or.jp

 

 「同僚」という最も身近な存在の人権を守ろうともせず、蹂躙する団体がいくら正義を叫んでだところで僕にはウソにしか聞こえん。

 

 

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編集王のエロ批判が伝えたかったものは何かを考える。

こんにちは。

 前々回のブログでは「表現の自由」について考えるテキストとして、土田世紀の作品「編集王」を取り上げてみました。

 

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僕らがエロを求める理由

 環八はアルバイト先の出版社で手がける漫画雑誌の女性キャラが「表現の自由」をタテに、モラルも節操もないエロ表現で凌辱されているのに激怒。ただ、コミケのサークルの大半は社会的なモラルを守った表現で「同人誌づくり」に励んでいるのを知り、オタクやコミケへの偏見を詫びたうえでエロ表現についてこう語りかけます。

 「表現の自由はやっぱり見てくれる人あってだろ?なんでこんなもん(エロ)を描くのかを人に聞かれたら、ちゃんと答えられる動機は用意しておけよ」

「表現の自由」「エロ」について考えるなら、土田世紀の編集王を読むべきだ - サブカル 語る。

 

 そこでも書いたことですが、この問いかけは制作側だけでなく僕ら消費側もそろそろ本気で考えて、それなりの「ことば」を語るべきだろうな。とは思っています。

 漫画やアニメだけでなく、小説や映画。どの物語分野にも性描写、つまり「エロ」があるのはどうしてなのか。いうまでもなくそれは男も女も本質的に「エロが大好き」だからです。そのエロの対象が同性か異性かはともかく、人間はエロ好きだという点に異論を持っている人はそんなにいないはず。ブログでも紹介した

 


「何が表現の自由だ!何も表現してねぇじゃねぇか。てめえはただ汚ねぇケツの穴をおっ広げて見物料を取ってるだけだ!」というこのマンガの主張も先述の「なんでこんなもん(エロ)を描くのかを人に聞かれたら、ちゃんと答えられる動機は用意しておけ」という言い分と併せて読むと「作り手や受け手にちゃんと答えられる動機があって、それを表現しているならエロだって立派な表現だ!」ということになるのではないか。こういう過激な主張のコマだけで、この作品を単なる「同人批判」「エロ批判」というのは勿体ないと思うのです。

 

編集王で語られた「売れる」というエロの必要性

 作者の土田世紀コミケ編だけでなく、多くのエピソードでも「エロ」とは何か?「エロ」はどうあるべきか?について思いを語っています。

 売れない文芸雑誌を担当する老編集者「五日市」のエピソードでは文学よりヘアヌードが出版社の利益を守る稼ぎ頭であるのに納得できず、社長になった友人の同期に「金のため、エロを売るだけの出版社のどこに文化がある?」という意味合いの苦言を投げますが社長は「売れる本の何が悪い?それをお客が望むのならそれは立派な文化。堂々と『文化』として俺は胸を張ってヌード本を売る(大意)」と五日市に反論。

 その他、売れない漫画家を集めてエロ満載の脚本にイラストを描ける人材を選び、エロ漫画をプロデュースする編集者「明治」の物語でも明治や選ばれた作家は「売るためにエロ漫画を描く」姿勢を見せます。

 その風潮の是非はともかく土田は「商品を売るための手っ取り早い手法」としてエロの必要性や効果を認めてはいる。だけどそれについて複雑な表情のベテラン編集者が作家に「売れるために本来の作家性を捨ててエロを選ぶ権利はもちろんある。でも本音は少し残念。こういう安易で近道な企画を選ぶより、力不足でも自力で持込みに来るという想いを大切にしてもらいたかった(大意)」と語らせ「エロな表現が売れるのは結構。だけど売るためだけのエロが大量生産されて、単なる消耗品として消費されるだけ」となりつつある漫画表現を憂いを呟きます。

 

 土田の問いかけについて僕は「エロ好きだからエロゲーエロマンガを消耗品として買う。ただそれは人前で大っぴらに見せるもんでもないよね。それを他人が見たらぜってぇドン引きだろ?これは表現の自由云々の話じゃないよ。他人にキモいと思われたくないから人前に出さない。それを人前に出してキモいと言われたら文句言うなんて、単なる逆ギレだろ?そりゃ自分勝手すぎる」と最近のエロをめぐる環境を考えながら答えます。

 僕には「エロ表現大好き」という必要性はあるけれど他人にキモいと思われたくないので「それらを公衆の面前で広げる」必要性はない。公衆の面前に溢れるエロ表現はその場の「ドレスコード」に合わなけりゃ片づけるべきで、批判が表現の自由侵害だとは思わない。ゾーニングの内部でエロを楽しんでいるところに文句をつけるなら反論する。というだけの話です。ゾーニング=規制でなく「ドレスコード」と考えたら分かりやすいぞ。

 

レストランで食事=食事する自由はあるけど、ドレスコードにあってなきゃ入れない。
タバコ=煙草を吸う自由はあるけれど、喫煙お断りという店だったらそこで吸えない。
タトゥー=刺青を入れる自由はあるけど、タトゥーお断りの店には入れない。

 

これらと同じ。こんだけ言っても分からなかったらバカだと思っていいぜ。

 

 


 

サッカーW杯の観戦バカ騒ぎから離れたらストレスがめっきり減った

こんにちは。

 

 今月から始まった2022 FIFAワールドカップカタール大会。皆さん観てます?いやーっ日本代表、ドイツに勝ってよかったっすねー!コスタリカに負けて残念でしたねーっ!と呟いてみたものの、まともにどの試合も観ていないので実感もありませんな。

 

 なに?そんなことわざわざ書くな。いやいや、ブログっていうのは毎日の生活の中でブログの書き手の思った、感じた「いいね!」を語ることなんだから「W杯を観るのをやめたら、生活が快適になった」って語るのもアリでしょう?

 

 サッカー日本代表が世界の大舞台で強豪国相手に勝利!僕だってそりゃ嬉しいです。今回のドイツだけでなく、過去の大会でも日本が多くの強豪国に勝ったり、苦しめたりなどの姿を見るのはやはり痛快です。だけど、ふと同時に対戦国に対して「この国相手だと強すぎて勝てない」と卑屈になったり「この国は弱いから勝てるぞ!」とか勝手に相手を見下したりするのに疲れた。勝って嬉しいよりもそういう感情に振り回されたりするのがアホらしくなったと思っていたら「W杯を観ない」選択となった。というだけのことです。とはいってもその話題にまったく触れないのも不可能なので結果だけはネットやTVニュースで情報を仕入れますけれど。

 

 オリンピックもそうだけど、スポーツの国際大会って一度距離を置くとほんとどうでもよくなってくる。それは他人から「つまらない奴」などと思われるだろうけれども、日常の一喜一憂が減るってのも案外快適だよ。その感情のアップダウンもたった2~3週間程度のお祭り騒ぎと思って騒いだり楽しめるならおおいに結構。だけど、ドイツ戦とコスタリカ戦を振りかえっての歓喜や失望、リーグ戦途中での「捕らぬ狸の皮算用」な勝ち点計算、対戦国と日本の過度な情報などそれらをどこか鬱陶しく感じているなら、「2022W杯を楽しんでいる自分」を思い切って手放してみるのもいいと思う。

 

 

 そもそも僕がサッカーのワールドカップに全く関心を持てなくなったのは前回から。

arrow1953.hatenablog.com

 

 筋のとおらないハリルホジッチの解任に納得できず「こんな道理の通らない代表など応援できるか!」と僕が勝手に怒り、大会のTV観戦をやめたという話をブログで述べたところ「俺らが大会を楽しんでいるのをジャマするな」だの「自分の意見を押し付けるな」だのたくさんの意見をいただきました。別に誰も押し付けておらず、ただ「俺はTVでワールドカップ見てねぇぞ」って書いただけなんだけどね。だけどこんなマイナーな雑感ブログを読んだだけで「楽しい」という価値観が揺らいだり、気分を害するなら最初から興味を持たず、観なけりゃストレス溜まらんぞ。とは思います。

 

 


 

 

※リンク先の本にあるかどうかわからんけども、ここで次戦国スペインのトリビア

 

「スペイン国歌には歌詞がない」

 

 

「表現の自由」「エロ」について考えるなら、土田世紀の編集王を読むべきだ

こんにちは。

 

 今日のブログのテーマは「表現の自由」。だけど今回は僕ではなく、ある漫画で語られた「表現の自由」についての見解から、その辺について考えていきたく思っています。その作品とは土田世紀の「編集王」。20年以上前に小学館の「週刊ビッグコミックスピリッツ」で連載された作品です。

 

 

編集王の物語について

 物語は小学生の頃に「あしたのジョー」を読んで感銘を受けた「桃井環八」が主人公。環八は「俺もジョーになりたい!」と誓い、プロボクサーになったもののなかなか勝てずに伸び悩んでいました。

 そんなある日、環八は健康診断で「網膜剥離」と診断を受けてプロ引退を余儀なくされることに。アパートにはあしたのジョーの単行本全20巻だけを持ち込み、他の生活道具は必要最低限。10代から現在までの青春全てを捧げたボクシングを奪われて「ボクシングのない世界で、あしたのジョーみたく生きられるのか」と深い絶望を味わいます。

 その絶望から環八を救ったのは環八が子どもの頃から「ヒロ兄」と呼び、慕う兄貴分の「青梅」でした。青梅は「お前の人生はジョーみたく全20巻ではない。お前には明日も明後日も来る。ネクタイを締めたリングもある」といって自分の勤める漫画誌の編集部にアルバイトで誘い、環八もその編集者の中でのチャンピオン「編集王」になる!と新たな夢を抱き、日々奮闘。

 まぁ、大まかな物語はだいたいこんな具合でしょうか。その編集王では漫画編集という職業をクローズアップして漫画の制作や表現などに関わる問題について作者が多くの想いを読者に投げかけてくるのですがあらためて読み直すとこの作品、「エロ表現と漫画」はどうあるべきか?というテーマが根底にあることに最近気づきました。その中から、今回は「コミケ編」をピックアップして作者は「表現の自由」についてどう考えていたかを紹介したく思っています。

 

表現の自由」と「エロ」

 この「コミケ編」では環八が、同僚の本占地の趣味であるコミケの話を聞き、新人発掘にうってつけと意気込んで本占地とコミケ会場へ。会場では多くのアマチュアが作品を売り買いしており、そこで環八は制作に携わる雑誌連載のキャラが凌辱されているだけの同人誌を発見。その同人のエグさを嬉々として語るサークルに環八は怒ります。

 

 

引用_小学館編集王土田世紀

 

 他人のキャラクターを勝手に使ったエグい凌辱のオンパレード。環八の怒りや非難について、エロ同人本の愛好者たちは「表現の自由」を語ってこう主張します。

 

「俺たちは表現の自由の名のもとに主催者から許可を得ている。あんたは不愉快でも俺らにとってはファンタジーなんだ!」そのオタクの主張に対して、環八も暴力混じりの反論。

 

引用_小学館編集王土田世紀

 

「何が表現の自由だ!汚いケツの穴を広げて見物料取ることのどこが表現だ!」と。そしてエロ表現への嫌悪から同人やコミケそのものまで否定的な環八の暴走で騒然となった会場である男性が叫びます。

 

コミケみたいな楽しみ方や関わり方も立派なマンガファンのものだろう?」この人物こそ、コミケの実行委員長「四面道渡(しめんどうわたる)」。エロを「表現の自由」と言い張るオタクたちに納得できない環八と四面道はコミケ表現の自由のあり方についての意見をぶつけ合います。

 

コミケは本来、漫画を通じた学校の文化祭のようなもの」という四面道に「そのコミケでエロ本を売るのを許可するのはなぜか」と問う環八。それについて四面道は「やりすぎなサークルも確かにあり、それは自分も嫌いであるのと同時に迷惑」といいながらもこう続けるのです。

 

「それでも多くのサークルは健全で、みんなその中で純粋に遊んでいる。その遊びすべてを包む風呂敷がこのイベントであり、風呂敷だからこそサークルの表現形態に規制をかけないのが委員会の鉄則なのだ。毒なサークルもあるが『表現の自由』を守るためそれらを認めざるを得ない。だからこそサークルのモラルを信じるほかない。どんな表現の自由も包む風呂敷という美学がコミケの本質」

 

 環八はエロは理解できないが「コミケについての説明は筋が通っている」と納得。そのうえで巨大ビジョンからコミケやそこに携わる人たちに「誤解して迷惑をかけてごめん」と謝罪。でもやっぱりエロは納得できないものとしてこう語りかけます。

 

表現の自由はやっぱり見てくれる人あってだろ?なんでこんなもん(エロ)を描くのかを人に聞かれたら、ちゃんと答えられる動機は用意しておけよ」

 

表現の自由」についての「理由」を理論武装できるか?

 この作品で描かれたのは90年代。作品そのものも「荒唐無稽」とか「エロ、同人を見下している」など賛否も多いものではあります。ただ、この頃から作者の土田はエロな表現が物語を離れてひとり歩きすることを憂慮していた。ということはできます。

 この物語でコミケのブースの一角にある世界でしかなかった「エロ表現」はコミケの枠を越えて巷に溢れており、コマにあるオタクが「あんたは不愉快でも俺らにとってはファンタジー」だと語ったエロは、現在のオタクがその不愉快を訴えている人たちに噛みつくための道具になっている。「エロは他者の『不愉快な感情の自由』を侵害していても守られるべき『表現の自由』」であるとして。この作品でエロ表現を見た環八の叫ぶ「(エロ)は何も表現をしていない」っていうのもある意味暴言で、エロを「こんなもん」呼ばわりをする物語はエロを下に見ている!という批判も当然な面もあります。

 ただやっぱり自分たちの好むエロが社会、他者からはどう見られているかということを「表現の自由」を大義名分にして考えない、見ない聞こえないふりというのは卑怯だよなとは思う。「どうしてこんなエロ表現を大勢の目に触れさせたいのか?」と聞かれたら『表現の自由は認められているのにお前らはどうして文句をつけるんだ?表現の自由の侵害だ!規制だ!弾圧だ!」とか妄想めいたことを叫ぶ前に「こういうエロが好きだから町のいたるところで観たいんですよ」と素直に答えりゃいい。まぁドン引きされるだろうけど。なに?わざわざエロを街でみたいからではなく、表現の自由を守るため反論しているだけ?だったら否定派側の主張も「批判」という表現なんだからその自由をあんたも守って否定派側の主張の自由も保証なさい。

 エロ好きは誰にも否定されるものではないし、当然それを愛する権利だってある。だけどオタクたちのエロな価値観が「風呂敷」を飛び出してエロを街に溢れさせた以上、それに異を唱える意見に対峙しないのはやはり無責任だと思う。エロ表現に否定的な声を受け続けてもオタクにとっての都合のいい「表現の自由」を手に入れたいなら、万人の納得できる理論武装でそれを使って否定派の意見に挑んでやるぜ!ぐらいの気概をもっていただきたい。そういった気概もなく、ただ「表現の自由」を叫んでみたって誰も相手にせんぞ。

 

 


 

 

※この作品を改めて読み返してみたら、「物語とエロ」についてかなりの部分を割いているのに気づいた。どちらかというとエロに否定的な立場の主張が多いがそれでも物語における「エロ」について、作者なりに掘り下げたというのが強く伝わってくる。