サブカル 語る。

サブカルチャーなどについての雑談

「うっせぇわ」はたぶん、今後も語られ続ける曲にはなりえない

こんにちは。

 

 世間はゴールデンウィークですけど、仕事が休みの時までわざわざ人ごみにでかけることもなかろう。行政のいいなりになるっていうのも癪だが、ステイホームでのんびり家族団らんを満喫しようかな?と考えている今日この頃です。

 

 さて本題。

 

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   今回は先月のブログで書いたオウムとうっせぇわの共通点なんぞについて考えてみたく思っています。

 

この歌の怒鳴りたてる世界みたいな、狭くて暗い閉塞感に覆われた現在の日本を作りあげた老害のひとりである、僕の戯言なんぞ「うっせえわ」っていいたくもなるでしょうけど、それでもいわせてもらうとその「うっせぇわ」な世界観の先にあったのはかつての「オウム」的な、さらなる閉塞した世界ではなかっただろうか?と90年代に青春真っ只中だったおじさんとしては注意喚起でもしておこうと思います。よく考えてみたら「うっせぇ、うっせぇ!」と「ショーコーショーコー」ってフレーズの繰り返しにはなにか通ずるものがあるな。この曲と対比するべきはかつての大人社会への反発ソングではなく「尊師マーチ」なのかもしれません。

うっせぇわの歌詞に対して共感どころかストレスを感じるあなたに - サブカル 語る。

  話は前後するんだけど、今回丸々一ヶ月記事の更新をせずにいたのは、この曲が話題になっているのはあとどの程度の期間かを見極めたく思ったからです。後だしジャンケンみたいになってイヤですが、僕は4月下旬ごろには誰も話題にしなくなり、人々の記憶から消えているだろうと思っていました。え?皆さんもそう思っていた?だよねー!って思っていたら今週の週刊少年ジャンプで「うっせぇわ」の特集。今更この曲の特集を組むっていうセンスのなさは、もうこの雑誌の凋落ぶりをまざまざ読者に見せつけた印象さえあります。数年前は「再び黄金時代の到来?」みたいなブログ記事を書いたんだけどなぁ。

 

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 まぁ、いいや。話に戻るべ。このうっせえわとオウムの共通点。それは先述している「うっせぇわ」と「ショーコーショーコー」という単調な歌詞のリピートにあるのではありません。この二つを並べたうえで注目すべきは、どちらも「複数の異なる世界観をパッチワークみたいに張り合わせることで作られた『つぎはぎ』な光景をユーザーに見せている」という点にあります。オウムはノストラダムスの大予言的な世界の終末論やSF、超能力に神話の世界などから引っ張ってきた、実に多くの断片的な世界観を張り合わせてひとつの大きな『オウム」という世界観をでっちあげた。そのため、その「オウム」を構成する細かく小さいパーツをていねいに見ていくとその内容の薄っぺらさ、陳腐さに驚かされます。僕がうっせぇわを聞き、曲の歌詞を読んでいて感じたのはその「使い古されまくった感の強く漂う陳腐さ」「うすっぺらさ」でした。経済の動向把握を当然としているサラリーマンや飲み会で焼き鳥の串を外す気配り社会人、そういうものをルールとしているこの社会。それを歌で語られても「ステレオタイプ」でベタな写真を見せられているようで、正直「なんだかなぁ」「こんなにもステレオタイプ且つベタで断片的な風景の写真にみんな共感させられちゃうのかなぁ」という印象だったし、何より歌に「物語がない」ことに正直言って困惑させられたというのが本音です。

 

 物語。もう少しそれを具体的に言わせてもらうと「曲に出てくる人物のストーリー」です。その「経済動向把握と飲み会の焼き鳥の串外し」を求めてくる社会で、主人公はどう生きているか。というのが、あまりにもベタな風景描写だけで受け手の想像力を掻き立てるものがまったくないっていう点であまりにも物足りない。このブログでわざわざいうほどのことでもありませんが、僕と同じような印象を多くの人が抱いたからこそそのブームも長続きせずあっさり消えたんだろうね。何度も述べた通り、パッチワーク的手法で「独自っぽい世界観」をでっちあげて瞬間風速的な勢いで消費させた後は何も残らない、残さない。この『読み終わったら持ち帰られることもなく、電車の網棚に捨てられるだけの漫画雑誌』みたいな消費のありかたはサブカルの本質っていう観点でいうと極めてまっとうともいえます。

 

 そうはいっても所詮このブログは40超えたおっさんの価値観によるもの。うっせぇわに対する共感を否定するつもりもまったくありませんし、それが流行するなら、現在の世相そのものがそれを求めているということ。うっせぇわの流行、おおいに結構。っていうところ。いやマジで。ただ、この「消費」の後に何が残るのだろうか?ってのは、割合大きな問題だよなとも思ったりしています。この曲を語るために、よく引き合いに出されていた「尾崎豊」などの曲もあらためて考えるとこれまた「ステレオタイプな描写」でしかないんだけども、ある一定の世代においては自分の心境を語るための「リアリズムを伴った言葉」だったというのは確かなのです。だからこそ半分ネタであっても尾崎豊について語る人は今もいる。だけどもこの「うっせぇわ」を数年、数十年後に、誰かが語ったりするだろうか?っていうと、僕は分からない。どうなんだろう?って、首を傾げているところで、本日はこれにて。

 

 

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 ※何に共感しても自由だし尊重もするけどこの曲やオウムみたく「深い中身がありそうでいて、実は何の意味もない空っぽなモノ」に対する無自覚な共感っていうのはやはり危うい。皆さんもどうぞお気をつけて。