サブカル 語る。

サブカルチャーなどについての雑談

僕らの周りに溢れるエロ文法に、みんな麻痺していないかを考える

こんにちは。

 

 先月はあまりにも業務が立て込んでいたためブログ更新をサボることになりました。とかいっても所詮、このブログは新聞広告の裏紙にテキトーなよしなしごとなんぞを、そこはかとなく書き綴っただけの駄文集なので、サボったところで誰かに怒られるっていうものでもございません。ただ、更新を行っていなかった間にも読者の人が地味に増えており心から感謝!あーこうやってこのブログを読んでくれて気に入ったという酔狂な人もいるんだなぁ。ありがてぇ話だ。だったらせめて更新数は少なくてもそれなりに「読ませる文章というものは追求するべきだろうなぁ」なんて思いながらキーボードを叩いてます。

 

 

温泉むすめの設定に見る「男性にとっての都合のよさ」

 さてそろそろ本題。今回のブログのテーマは以前僕がツイッターで呟いたことから。

 

 あまり気は進まず、またもや以前のブログ記事のリライトっぽくなってきているけどやっぱり何度でも書いておこう。この問題については多くの意見が出ていますが、ただどの人も地域振興、観光のPR目的で女性のキャラクターを使うことの是非はともかく、これらのキャラ設定の「夜這い」「スカート捲り」など『男性を喜ばせる対象としての女性性』がなぜこんなにも絡んでいるのだろうかという、この温泉むすめたちの『背後にある男性にとって都合のいい女性性』について誰もしっかり語ってくれていないのはあまりにも物足りないというところです。

 何度も言っているとおり、この手の問題の根源は「衆目を集めるため、エロ的文法に
あてはめた女性が商品広告のPR材料になぜ使われ続けているのか?」という素朴な疑問であって、それ以上のものなどありません。これは温泉むすめだけの話でなく、昭和や平成以前の頃まで遡ってみんなで考えた方がいいテーマなんではないのか?と思い数年前からこのブログで何度も同じことをダラダラ書き続けています。最近流行の「兵器や競馬など、別事象の女性擬人化」の是非などを含めるとまたややこしくなるので、ここでは話を切り分けます。ここで述べたいのはあくまでも女性に対する表現における「内在的エロ文法」だけとさせていただきます。

 

記号的なエロ文法の溢れる社会

「内在的エロ文法」と単語だけ抜き出しても多くの人には「なんじゃそりゃ?」と首を傾げさせるだけでしょう。それについて言葉で説明しても伝わらないので具体的に。

 

f:id:arrow1953:20211130014107j:plain

出典 page.auctions.yahoo.co.jp

 

 こういうことです。

 

middle-edge.jp

 

 リンク先の記事ではライターが水着女性を広告に使ってきた最大の理由に「男は基本的にオネーチャンの水着姿が好き!(同性愛者については別。)」というのを上げており「そうだろうね」と僕もうなずくところです。記事によるとビールメーカーも「男性の性的欲求」に働きかけるのが目的だったとはっきり述べています。だけど、その男性対象の性的欲求への訴求もニーズの多様化とか女性ユーザーの増加などの背景で減少、廃止せざるを得なくなったそうな。そりゃそうだ。

 

サブカルにだけあり続ける「記号的なエロ文法」

 で。話に戻ります。こんなふうなユーザーの多様化により「男性的な性的欲求」への訴求」がだんだんと廃れていった背景に逆行していくようにアニメやゲーム、漫画などいわゆる「サブカル」な分野では「エロ文法」満載な描写、表現が増加しているのはなぜか。これは実写だから、非実在キャラだからといった乱雑なくくりや「表現の自由云々」などといった議論に逃げずオタク、非オタクな人、老若男女などを含めもう一度深く考えるべきではないだろうかと思うのです。何度もいいますがビールの水着ポスターも温泉むすめのキャラ設定もユーザー訴求の根源にあるものは「男性の性的欲求」であり、「女性だって温泉むすめをかわいいと思う人も少なくない」とか、そういった議論の枝葉の部分に逃げたらいけない。これらに「男性の性的欲求への訴求」を読み取った人の声を「表現多様性の否定」「お気持ち」という言い逃れをつかって耳を塞ぐべきではない。その問いかけについてどんな結論を出すかは人によってさまざまでしょうけれど、少なくてもそこから僕たちは「自らの性的欲求と社会」について自問自答や議論を紡いでいくべきなのではないか?それは述べてきたエロ的文法に沿った性描写や性表現などに長年お世話になった、あるいはお世話になり続けている社会に生きる者としての最低限の誠意だと僕は思うのです。