サブカル 語る。

サブカルチャーなどについての雑談

サブカルとは何かをわかりやすく語ってみる

こんにちは。

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 日常のマイナー商品やマイナーアニメ、ネット右翼への批判などを書いてきたこのブログ。「サブカル 語る」。といいながらそもそも「サブカルチャー」とは何かについてまったく触れていないことに気づきました。そこで本日は僕の考える「サブカルチャー」とは何かについて語ろうと思います。

 

 

サブカルとは何か?をわかりやすく説明

サブカルとはいったい何か?三省堂の広辞林はこのように述べています。


サブカルチャーとは - Weblio辞書

 

 社会の中心となる支配的な文化に対して、その社会の内部にある集団のもつ独立した文化のことで「下位文化」「部分文化」ともいう。(以下略)フリー百科のウィキペディアでもだいたい似たような意味で説明されています。

 

サブカルチャー - Wikipedia

 

カルチャーとサブカルの違い

 「社会の中心となる支配的な文化」とは日常生活に根付いている振る舞い=風習や習慣だと言い換えられます。僕らの生活の中で具体的に言うと「日本語」「米食」などが日本独自の風習として挙げることができるのではないかと考えます。そしてその支配的な文化の対局にあるものこそがサブカルチャーサブカルであると定義します。

 

 文化の対義語である「サブカルチャー」とは「社会生活に根付いていない風習や習慣」を意味するものであり、エヴァガンダムに代表されるアニメやゲーム、マンガなどは本来、僕らの現実生活から遠く離れたクリエーターの荒唐無稽な想像力により生み出された単なる「物語」でしかありません。だけど現在の日本においては、この物語がヘンな所で現実にリンクさせられている。以前ブログで紹介したシャアのビジネス書などは、この典型ではないでしょうか。

シャア・アズナブルの語る仕事 - サブカル 語る。

 

サブカルとカルチャーが入れ替わった?

 メインカルチャー、文化というものはその社会に生きる人たちの言葉や思考、生活習慣などに深く関わる役を担っていました。ところが現在、サブカルチャーが僕らの行動や言動、さらには思考において大きな影響を持つようになってきており「サブ」がサブとして機能しておらず、サブカルチャーメインカルチャーに成り代わっているといった逆転現象が起こっているのが実態だろうと僕は見ております。そこで次に考えたいのは、過去の日本史においてメインカルチャーとされていた風習や習慣、具体的にいうとよく「日本の伝統」などとされている日本の古典芸能や武道などのシンボリックな日本の文化はどうなったか?という疑問です。

 

メインカルチャーなんてそもそもなかった! 

 あくまでこれは私見ですが、戦後の日本に上記のようなメインカルチャーというものは存在していない。もっとキツいことをいわせてもらうと本来日本にあったメインカルチャーは、以前から消滅していたんじゃないかと考えています。僕のこの意見に「そんなことない!」といって日本の伝統とされているステレオタイプな文化や芸能を列挙する人もいることでしょう。「歌舞伎」「落語」「柔道」「相撲」「日本食」「剣道」「過去の日本を美化する日本史」など、他にもあるけどキリがないのでこの辺で。上述したこれらは日本人の生活や習慣とかつては密接でした。だけど今はどうでしょう?

生で歌舞伎を観にいく人たちはどれだけいるのか?
生の落語を聴きに寄席に通う人はどれだけいるのか?
相撲の観戦を趣味とする人はどれほどいるのか?
柔道着を実際に着たことある人はどれほどいるのか?
竹刀を実際に握ったことある人はどれほどいるのか?
日本食の正確な作法を知る人はどれほどいるのか?
毎年、節分に豆を撒く人はどれほどいるのか?
冬至にゆず湯に入る人はどれほどいるのか?
お正月におせち料理をちゃんと食べた人はどれほどいるのか?
おせちの献立ひとつひとつの意味を知る人はどれほどいるのか?

 これらはみんな昔の日本人の生活と密接につながりを持ち、当たり前のものとして存在していましたが、現代の僕たちは見事にこれらとの接点を失っています。地域や学校などの催しでこの接点を復活させようという動きもあるけど、そういった働きかけがなかったら、たぶんこれらは跡形も残らないでしょう。この「日本人の生活習慣と密接に繋がっている文化」という点については「機動戦士ガンダム」でおなじみの富野由悠季監督が対談本「戦争と平和」で興味深い発言をしています。

 

"富野:たとえば今、時代劇を撮ろうとすると、まず役者の歩き方から直さなければなりません。現代人はもはや、体の中心軸を失った運動性しか持ち合わせていないのです。これは生やさしい問題ではありません。「腹が据わっている」という日本語がありましたがこれは単なるレトリックではなくて、日本人はそういうリアリティの中で暮らしていたはずなんです。しかしもはや、エキストラを訓練しても、本当に使えるような姿勢になるかどうか分かりません。"

出典:戦争と平和 富野由悠季徳間書店

 

 

 ふだん僕たちが伝統と考える文化は実際には日常との接点をすでに喪失しており、ただ単純に「昔からあるものだから伝統」という観念でしかない。先ほど僕は「社会の中心となる支配的な文化」を日常生活に根付いた振る舞い=風習や習慣と定義しました。この定義に当てはめると観念的な日本の伝統こそ僕らにとってはサブカルであり、逆にクリエーターの想像の産物であるサブカルチャーがいつのまにか生活のに根付く「疑似文化」になっており、日本人にとっての言葉や思考の根源を担っているという逆説的な現象に今、日本はあるとおいえます。それを何より雄弁に語っていたのはこの国の首相でした。皆さん、リオデジャネイロオリンピックでのこの光景、まだ覚えていますか?

 

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www.sponichi.co.jp

 

メインカルチャーがないことに無自覚なこの国

 リンク先記事の見出しには「笑った」とか書いてあるけど、コレは笑い事じゃありません。マンガやアニメ、ゲームなどのサブカルが持つ記号的なわかりやすさは人々から思考を奪うことにも繋がりかねないため「政治」などのパブリックな分野がサブカル的な表現に擦り寄りがちな傾向が僕は大っキライです。こんなのポピュリズム以外の何物でもない。

 

 映像を所狭しと走り回るアニメキャラ。国際舞台でお披露目された首相のコスプレ。 これらは「日本を国際的にPRできるものってこんなサブカル以外にないんだ。僕らの思考や生活の根幹にあるのは長いこの国の歴史や風習などに育まれた『文化』ではなく、瞬間的で継続性のない情報や記号などを寄せ集めて生み出した『サブカル』以外にこの国を表現できるものがない。緑と水に囲まれた豊か自然を持ちながら、そこに根ざした風習や文化から培われた思考。そういった生活を支える『根っこ』みたいなものを僕らは持ってないんだ」と、この国のリーダーが自ら露呈させたということに他なりません。根無し草な僕たちはこの配管工のおっさんゲームキャラにコスプレをした首相にただ、賞賛と拍手。演じる役者も観客も全部ニセモノで固めた予定調和、やらせみたいで苛立ちます。 

  

 安倍首相のコスプレは「マリオは世界的に人気あるから盛り上がっていい」とかそういう話ではありません。メディアなどが「日本スゴイ!」「日本の伝統的な文化って世界に自慢できるものだぞ!」と偉そうにほざいているくせしてその実態はTVゲームのキャラクターを通じて日本が伝統を喪失した国であるかを世界に向けて発信している。そういった行為のバカバカしさに多くの「オタク」たちが気づいていないという現状に、僕は頭を抱えたくなるのです。そういう意味でも自称「オタク」たちの知的レベルの低下も本当に笑えない。少なくても70〜80年代のオタクたちは、サブカルの胡散臭さにはある程度自覚的で、わかっててそれらに踊っているようなところがありました。ところが現在のオタクたちは本気で「サブカルは日本の誇る文化」だと思っている。これももう時代の流れなのでしょう。

 

 10年前に堂高しげるが述べた適切なオタク評

 僕にとって「オタク」の理想像とは、ある分野における専門知識のスペシャリストであり、同時に「茶人」でもあった1970〜80年代前後にあります。その頃のオタク像を適切に言い表したのは漫画家の堂高しげるさん。堂高さんは「全日本妹選手権!!」という作品の中で、柳沢きみおの独特な説教くささがイヤミな「大市民」のパロディーを描き、オタクについてこう述べていました。

 

「かつてオタクに愛されたキャラは最初からオタク向けに作られてはいなかった。世間的な一般の標準的な嗜好を持つ人たち向けの作品にこそ萌えはあり、オタクはそのキャラのプライベートやサイドストーリーを考え、そこからキャラの持っている潜在的な魅力を見つけていた。その魅力を『萌え」と読んでいたのである」と。

 

 本来のオタクとは最初から「お前らオタクが大好きな女の子ってこういうのだろ?」といいたげに大きく描いた瞳、ツインテールの髪など出来合いのデザインを集めて作ったキャラたちにではなく、自らの価値観を頼りにキャラの持っている潜在的なエロスを見つけることのできる茶人みたいな人たちであった。というのです。

 

 この意見を読んだ時、なるほど!と納得できました。これは何もキャラに限った話ではありません。ガンダムエヴァも物語はもともと本編だけの世界に留まっていました。だけど、多くのファンが物語を深く楽しむために設定の空白や矛盾を自らの想像力で補い、クリエイターたちもそのフィードバックを受けて続編や外伝などのスピンオフを作っていくことで世界観を増築していく。 オタクは物語の受用者でありながら、間接的なクリエイターの役割を担っていた。そんな時代は確かにあり、その時代こそが現在のサブカル隆盛の礎になっています。上述したクリエイターとユーザーたちの想像力の握手は減り、ユーザーは受け手に回っている印象を受けます。この漫画の指摘通り「萌え」の女の子のイラストや量産される物語が似たり寄ったりになっているのも結局の所ユーザー側の怠慢であり、その怠慢はマンネリを招きます。妹選手権は西暦2000年前半の作品であり、このオタク=茶人説にしてももう10年以上前のものですが、現在でもその風潮は続いているのではないでしょうか。この先10年後、20年後も現在のオタクたちは変わらずにあり続けるのか。茶人の心意気を取り戻せるのか。現在オタクたちはその分岐点にいるといっても過言ではないでしょう。

 

 このオタク論と現在の日本スゴイ論!や日本のネトウヨ歴史観は「誰かの作った物語」に対して批評精神を働かせず、安易に同調しているという点で共通します。他人の物語に自分自身のプライドやアイデンティティーを相乗りさせようとする人の根性がつくづく情けない。

 

追記:このブログを書いた数日後に、こんな話題。

news.tv-asahi.co.jp

以下リンクの記事引用

安倍総理は最近、自らも始めたインスタグラムを引き合いに出し、地方にインスタ映えする風景を増やすことで観光客を増やしたいと強調しました。また「お寺でミュージカル、遺跡のパワースポットでヨガ。アイデア次第で観光客を集めるキラーコンテンツに生まれ変わる」として文化財保護法の改正案を来年の通常国会に提出する方針を明らかにしました。」

 

 この人には自分にとって言語化出来る文化、つまり自分の根っこというものがまったくありません。だからリンクの記事のようなバカなことがいえるのであり、そんなバカがこの国のトップであるということを僕は憂いているのです。

 

 

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