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マジンガーZの映画に、日本におけるロボットとは何かを考える

こんにちは。

 

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 明日1/13は日本や世界でもヒットしたロボットアニメ「マジンガーZ」のリメイク版映画公開。

www.mazinger-z.jp

 

 マジンガーZといえば以前、こんな記事を書いたこともありました。

 

arrow1953.hatenablog.com

  マジンガーZの発信基地を実際に作るとしたら実際にどれだけの工期と費用がかかるのか?前田建設の見積もり価格によると工期は6年5ヶ月で費用は72億円になるという話みたいです。

 

 このエピソードからもわかる通り、マジンガーZガンダムなどのロボットアニメはゲームや新作リメイクを通じて世代を越えて広く知られる「共通言語」になっています。なぜ我々はこうもロボットアニメが好きなのか。子どもから大人になってもロボットアニメを「卒業」できない私達のメンタリティーは何に由来するのか。そこで本日は日本ロボットアニメの歴史を辿りながら、日本人にとってロボットとはなにか?を考えてみます。その前にマジンガーZってなに?っていう人がいたらどうぞ。

 

マジンガーZ - Wikipedia

 

 さて本題。まずは日本で知られるロボットアニメや漫画を、以下の3タイプに分類。

 

①自律型タイプ

ドラえもん鉄腕アトムなど)

 

②外部操縦型タイプ

(鉄人28号、ジャイアントロボなど)

 

③内部操縦型タイプ

マジンガーZガンダムなど)

 

日本で通常ロボットアニメとして知られるのは③の内部操縦型になります。ちなみに日本初のロボット漫画とも言われている阪本牙城(1895~1973)の『タンクタンクロー(1934)』は自らの意思で動き、穴の空いた胴体から拳銃や大砲などで悪と戦うという活劇であり、このような自分で考えて動く主人公は①のドラえもん、アトムなどのルーツ。その後、自律型ロボットのスタイルで物語に登場したロボットは横山光輝(1934~2004)の『鉄人28号』『ジャイアントロボ』などにより「人間に操縦される」②の外部操縦型タイプになり、さらに永井豪(1945~)の『マジンガーZ』などを経て「主人公がロボットに乗り込む」③の内部操縦型主人公へ変貌を遂げます。

 

ロボットは辞書によると「電気・磁気などを動力源として、精巧な機械装置で人に似た動作を見せる人形。人造人間」などと定義されています。その元祖をたどっていくとイギリスの女性作家メアリー・シェリー(1797~1857)が1818年に執筆した『フランケンシュタイン、あるいは現代のプロメシュース』やアメリカの作家ライマン・フランク・ボーム(1856~1919)の書いた『オズの魔法使い』に出てくるブリキ人形、ぜんまいで動く日本や西洋の「からくり人形、オートマタ」などが連想できるでしょう。でもこのロボットという単語は元々、旧チェコスロバキアの劇作家カレル・チャペック(1890~1938)が「労働」を意味する母国語「rabota(ラボル)」から作った造語。カレルは戯曲『R.U.R.(エルウーエル)』を発表。人間の指示に従って動く人造人間が意思を持って、人間に反逆するという近代批判の物語を描く上でこの単語を作りました。やがてこの「自律思考を持ちあわせた非生命体」というコンセプトは、SF作家アイザック・アシモフ(1920~1992)による『ロボット工学三原則』により具体化されます。ちなみこの三原則は以下の通り。

 

① 人に危害を及ぼさない
② 人間に従わなくてはならない
③ ①、②に反しない限り自己を守らなくてはいけない

 

この自律思考型ロボット」の物語は戦後~昭和50年代まで隆盛を誇っていました。『鉄腕アトム』『エイトマン』などのヒーローもの以降、核家族化や夫婦の共働きなどで家庭・地域のコミュニティ意識が希薄化してきた昭和40年代後半~50年代には『ろぼっ子ビートン』『めちゃっ子ドタコン』『ロボタン(リメイク版)』、実写では漫画家、石ノ森章太郎19381998)原作の『がんばれ!ロボコン』『ロボット8ちゃん』『バッテンロボ丸』など「家庭用ロボが町で騒動を繰り広げる活劇」が数多く放映。だがこれらは子ども番組である程度の位置を確立できたジャンルだったものの、昭和60年代を境に影を潜めることに。同様の構造を持つロボット物語は国民的なアニメとなった『ドラえもん』以外では僕の知る限り、91年の『丸出だめ夫(実写をアニメでリメイク)』、98年の『ビーロボカブタック(実写)』、翌99年の『燃えろ!ロボコン(実写リメイク)』くらいだと記憶しています。その理由はおそらく「ファミリーコンピュータいわゆるファミコンの普及だったのではないか。それを端的に示した漫画が、85年に小学館コロコロコミック1月号に掲載されたかつきかずよし(1956~)の読み切り『すてロボドンキー』という作品でした。

 

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日本ロボット作品の元祖「タンクタンクロー」

 

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ろぼっ子ビートン

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『めちゃっこドタコン』 

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ロボタン

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『ロボットを主人公にした実写作品』

 

 

前述したこの『すてロボドンキー』は子犬を拾った少年が、近くでダンボール箱に捨てられていたロボット「ドンキー」と出会ったところからスタート。ドンキーは少年に拾ってもらうため、ゲームソフトを口に入れると自分がファミコンになれるという機能をアピールします。自律思考を持つ高性能ロボットが子どもにウケるため、自分より低スペックのゲーム機に迎合するこの構図は考えてみたら異様な話です。でも僕みたいになかなか親にファミコンを買ってもらえなかった子どもにとってはロボットよりもファミコンを求める少年の志向はリアルであり、共感できるものでした。この漫画はそんな子どもたちの心情をリアルに描写するだけでなく、図らずも子どもの空想の友だちだった「身近なロボット」の敗北宣言でもあったのだと僕は思います。

 

このような「家庭用ロボット」の本質となっているものは母性であり、常に居候する家の少年・少女の側に寄り添い、彼らの遊び相手や理解者となって行動を受け入れる。それは家に帰っても両親が共働きのため誰もいない子どもの潜在的な受け皿であり、憧れでもありました。でもファミコンの普及は両親の不在を子どもに容認させるものとなっていく。むしろ親はゲームで遊ぶ子どもにとって障害であり、時間を気にしないで遊びたいと思う子ども達にとって邪魔でしかなかった。彼らの退屈な時間を満たすものは母性ではなくゲーム。作者のかつき氏は「すてロボドンキー」で、子どもたちの憧れだったロボットが、ゲーム機というリアルのコンピュータに追いやられていったという皮肉な現実を描いていたのです。ちなみにこの作品を掲載しているコロコロコミックは今、手元にはありません。せいぜいコロコロの漫画作品目録を作っているような個人のホームページで、かろうじて名前を見つけられる程度(この作品も記憶にあるタイトルと物語の概要を頼りに、いつ頃の掲載だったのかをつきとめたほどマイナー)。日本の漫画史で注目されることもない短編だけど、ロボットの「母性」の終焉を描いてみせたものとして再評価されるべき。

※さすがにこのすてロボドンキーの写真はありませんでした。以下のデータベースで、作品の名を見つけられる程度のマイナー作。

 

『月刊コロコロコミック超名鑑!」

http://www2u.biglobe.ne.jp/~comefx99/corocoro.htm

 

 以上の理由から、日本には自立思考型ロボットを扱ったアニメは「ドラえもん」程度しか存在しておらず、おそらくこのジャンルが再び隆盛を誇るようなことはないと推測します。ハリウッドを擁する「物語大国」の米国からきたロボットの物語が「トランスフォーマー」「ターミネーター」「A.I.」、ロボットものではなくとも「スターウォーズ」のR2-D2C-3PO等々、作品の主人公や脇役ロボットたちが自立思考型であるのとは対照的に、日本のロボットはあくまで人間の動かす「乗物」が中心になった理由。これこそ日本のロボットアニメ・漫画が物語の主軸はあくまで人間という視点でヒューマンドラマを描いてきたことの証明だと僕は考えます。

 

 ロボットアニメで人間の活躍や葛藤を描くなら、当然物語のイニシアティブは人間がとらなくてはならない。そのため日本ではロボットから思考を抜き去り、人間に譲渡するタイプ②や③の形態が生まれていったと僕は推測していますが、ここである疑問が浮かびました。鉄人28号みたくリモコンで外部からロボを操って敵と戦うタイプ②から、人が乗り込んで操縦するタイプ③の変貌にはどんな必然性があったのか。その疑問の鍵は、臨床心理士の阿世賀浩一郎さんが97年に出版した「エヴァンゲリオンの深層心理」で、主人公の少年がロボに乗る背景についての指摘にあります。以下引用になります。

 

「巨大ロボに乗り、必殺技で悪の組織と戦う体験は操縦者が万能の力を持つ『超男性的な存在』になりたいという自己愛を満たせる経験である。同時にロボのコクピットは母親の子宮のような空間でもあり、主人公がロボに乗るということは子宮回帰への憧れを実現させるものともいえる。その意味でロボットは『超母親的な存在』でもあるのだろう。主人公の父親は『超母親』のロボットを子に与えて戦わせることで、ここにロボットという母親を巡り父と子が葛藤するという、フロイトいうところの『エディプスコンプレックス』が生まれるのである」

 

 マジンガーZを作り、兜甲児に託したのは祖父の兜十蔵、ガンダムを設計したのはアムロの父のテム。碇シンジエヴァに乗ることを命じたのは同じく父の碇ゲンドウ。確かに代表作と言われる作品には阿世賀さんの指摘が当てはまっています。少年はロボットに乗ることで超人になり、同時にコクピットに入ることでロボットと一体化を果たして自分は「グレートマザー」に守られているという子宮回帰の欲求も満たせる。

 

 ただ、同書で阿世賀さんは「超母親」の概念が現れたのはマジンガーZからであるとしたけど、僕はそう考えていません。フリー百科「ウィキペディア」によると日本の乗り込み型巨大ロボットアニメの元祖はマジンガーZ(諸説あり)だとされているみたいですが、マジンガーは主人公を超人化させるものの、子宮回帰願望を満たす役割はない。そう断言する根拠は2つ。永井はマジンガーZのTV放映前後に「デビルマン」とその原型の「魔王ダンテ」を執筆しています。デビルマンもダンテも普通の少年が悪魔という「超男性的」な存在と融合して超人となる物語であり、時期的に考えてこの両作品の根底にある「超人願望」をタイプ②のロボットアニメと合わせて作られたのがマジンガーZなのではないでしょうか。従ってこの段階でのロボットの役目は主人公を超人にすることであり、ロボットに「母性」を背負わせる発想はなかった。その仮説の根拠はロボのコクピットの位置。マジンガーZは頭部にジョイントがあり、そこにパイロットの乗る飛行メカが合体して動く。つまりそれは無力な人間の頭脳が万能の身体を得る体験、歩けない赤子が歩行器に跨って歩けるようになったかのプロセスを思わせるからです。

 

 ではこの阿世賀さんの語る「巨大ロボット」と母性との関係は、いつ頃生じたのだろうか?その時期を明確に言い表せませんが、おそらくそれは富野由悠季さんの作った「機動戦士ガンダム」前後になるのでは?と僕は考えています。家庭用ロボットの物語の衰退以降、ロボットが少年・少女を包み込む「母性」は歪な形でタイプ③の物語に引き継ぎをされていたんだけども、話が長くなったので、本日はこの辺で。

 

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※実際には操縦型ロボットの元祖は諸説あるけど、今回はマジンガーZ説にのっとり論考