サブカル 語る。

サブカルチャーなどについての雑談

「HUGっと!プリキュア」こそ平成の最高傑作アニメだと思う理由

こんにちは。

 娘と会話の手段を探るつもりで見始め、気づいたら家族で僕が最もハマっていた「プリキュア」。今回の「HUGっと!プリキュア」はほぼ欠かさず見続けていたため、先週のラストバトルから数年後を描いた後日譚になる本日のエピローグの余韻に浸ると同時に淋しさを抱いております。

 

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©2018 映画HUGっと!プリキュア製作委員会
©ABC-A・東映アニメーション

 

 原点回帰 / 発展を両立させた「はぐプリ」

 昨年はプリキュアシリーズ放映15周年ということもあり、大々的な初代プリキュアのプロモーションなども含めて注目を集めていた「はぐプリ」。映画でも全シリーズの総勢50人を超えるプリキュア全員が集っただけでなく、作品のメインを務めたのは「はぐプリ」のメンバーと「ふたりはプリキュア」主役のキュアブラック / キュアホワイトの二人でした。最初は二人で一つだったプリキュアも今やスーパー戦隊シリーズみたく5人前後のチーム体制に進化。はぐプリメンバーでも以下の通りチーム体制です。

 

元気のプリキュア
キュアエール

知恵のプリキュア
「キュアアンジュ」

力のプリキュア
「キュアエトワール」

愛のプリキュア
「キュアマシェリ / キュアアムール」

 

 それぞれ「元気」「知恵」「力」の象徴ですが「愛」のプリキュアであるキュアマシェリとキュアアムールだけは二人で一つのプリキュア構成になっており、二人揃っていないと変身できません。これは「愛」が自分だけでなく、相手がいて成り立つものであるからであると同時に、同じく二人がいないと変身ができなかった初代プリキュアへのオマージュなのでしょう。現在のプリキュアのフォーマットである「チーム体制」と原点であるふたりでひとつの「タッグ体制」。この両体制を同居させ、かつチームとしてのプリキュアやメンバー一人一人の物語だけではなく、「キュアマシェリ」と「キュアアムール」二人の友情や互いの衝突、葛藤、和解など初代みたいな「二人で一つのプリキュア」としての物語を描くことで現体制の踏襲のみならずタッグ体制への原点回帰を成立させた構成にはただ唸らざるをえません。さて、そんなはぐプリの物語の本質をそろそろ語っていきましょうか。

 

「はぐプリ」に集まる賛否両論

 今回の「HUGっと!プリキュア」=「はぐプリ」の物語には「老若男女問わずなりたい自分を大事にしよう!そしてそれを互いに尊重しあおう」というテーマが込められており、年齢や性別という壁を超越するシリーズ初のオフィシャルな男の子プリキュア登場など多くの話題を提供して世間を驚かせました。それらの挑戦、冒険は概ね好意的に受け入れられていると認識しています。

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 これらについては前回の記事で書いているので、今更いうこともありません。今回のブログで取り上げたいのは先週のラストバトル。物語最大の敵「プレジデント・クライ」とプリキュアたちとの戦いから考える「ヒーローとは何か?」ということについてです。

 

ヒーロー=人々のため戦いを強いられる生贄

 このプレジデント・クライはプリキュアのいる現在と離れた未来からやってきており「際限のない欲望や身勝手さを改めない人間の未来に待つものは絶望のみ。だから人間が『幸せ』を味わえている現在で時間を止め、人間から未来を奪うこと」を企んでいました。もちろんプリキュアたちは「未来を奪う権利は誰にもない!私たちは未来を信じている」と反論しますがメンバーの中でも特に強く異議を唱えるキュアエール(野乃はな)にクライは「君が民衆のため戦えば戦うほど傷つくことになる。未来を信じるという理想も人々の嘲笑の的になる」とその戦いの不毛さを語り、プリキュアは人間の欲望や身勝手さの犠牲者とでもいわんばかりの主張を説きます。

 

 それでもキュアエールは「生きることは辛くて思いどおりにならないこともある。だけど自分も含めみんなそうだから、その思いを抱きしめて応援したい。それが私のなりたい『野乃はな』なんだ!」と強い決意をクライに示します。これは最初のエピソードで怪物オシマイダーに狙われている赤ちゃん「はぐたん」を身を挺して守ろうとした時「逃げたらカッコ悪い!そんなの私がなりたい野乃はなじゃない!」と叫んだ少女がなりたい自分を初めて言語化できた瞬間でもありました。

 

 

プリキュアのシリーズは原則的に「異世界から妖精とその妖精を追って怪物が人間のいる世界にやってくる。その騒ぎに巻き込まれた女の子が怪物の手で壊される街、怪物に襲われる妖精や友人、または奪われようとする自分の大切なもの(友だちとの思い出がつまったレコードやケーキなど)のピンチを見過ごせず、妖精から力をもらってプリキュアに変身!っていう物語構成になっています。このHUGっと!プリキュアでも同じく未来からやってきた赤ちゃん「はぐたん」を狙って人間世界で暴れる怪物「オシマイダー」に立ち向かうためプリキュアの変身能力を得るのですがその時、はなは怪物に向かってこう叫びます。 「ここで逃げたらカッコ悪い!そんなの、私がなりたい野乃はなじゃない!」 つまり、はなは怪物から街や妖精(今回については赤ちゃん)を守るだけではなく、こうありたいと考える自分。言い換えると自分自身の生き方、在り方という「自我」そのものを守ろうと立ち上がるのです。ここまで明確に自我を守るため戦うプリキュアってこの作品が最初じゃないか?と思った僕は初代プリキュアから、HUGっと!プリキュアまでの第1話(とくに最初の変身)を全部確認したのですが、「自分の在り方」を守るため戦うことをこんなに明確に言及したプリキュアは、この野乃はなが変身する「キュアエール」だけに思えます。

プリキュアの歴代変身シーンに見た「キュアエール」というキャラの意義 - サブカル 語る。

 

 クライによって止められた時間はキュアエールの想いに呼応して動き出し、はなの家族や人々はプリキュアの戦いを応援。そしてプリキュアへの応援はさらに増幅して世界を包み、人々みんなをプリキュアに変身させます。男も女も。子どもも大人も。世界すべての人がプリキュアになり、全員の手で放った決め技を受けてクライは敗北。この戦いの結末をたぶん誰も想像できなかったと僕は思います。もっと細かく言うと人々の力を合わせて戦うのは想像できたかもしれないけど、世界のみんながプリキュアになるのはたぶん誰も思いつかなかったと思います。

 

英雄をめぐる二つの物語 

 キュアエールとクライ。この二人のセリフのやり取りを見て、僕はふと90年代に発表された二つの物語を思い出しました。それはプレステのRPGワイルドアームズ 2nd IGNITION」と平成初期のウルトラマンウルトラマンティガ」です。

 

ワイルドアームズセカンドイグニッション

ワイルドアームズ セカンドイグニッション - Wikipedia

 

 ワイルドアームズ2のテーマは「英雄」。物語の主人公「アシュレー」は人々を救う力を持つ英雄に憧れており、冒険の中でその力を手にします。人知を超える力で世界のために戦うアシュレーを人々は英雄と称えますが、恋人のマリナはそんなアシュレーと人々を見て「英雄って誰かのため戦うことを強いられる生贄みたい」と、クライと全く同じ疑問をアシュレーに呟きます。その呟きに困惑するアシュレーですが戦い続け、多くの出会いと別れを経てその呟きへの返答を見つけます。

  

 世界を破滅へと導く物語最大の敵を前に、アシュレーは「僕らの世界は『たった一人の英雄』の力で支えられるほど小さくない。多くの生命と想いが溢れる世界だからそれを支えるのはこの世界全ての生命の力だ。英雄のいない世界ではなく、英雄なんていらないんだ!そんなものに守られる世界に価値などない!」と叫び、叫びに呼応する人々の「共に世界を守る」という意思と力がアシュレーの元に集まり、それを束ねてアシュレーは最後の戦いに挑みます。

 

 

 そんでもって次。平成で最初のウルトラシリーズウルトラマンティガ

 

ウルトラマンティガ

ウルトラマンティガ - Wikipedia

 

 この世界ではウルトラマン=ティガとは人々を導き救う「光」であり、その力を受けた「ダイゴ」という青年は怪獣から人々を守るためティガになります。そのティガを待ち受けていたのは3000万年前にいた古代文明を壊滅させた「闇」の象徴ともいうべき怪獣「ガタノゾーア」でした。ティガは果敢に挑むも、ガタノゾーアの力に敗れ石化。その圧倒的な力を前に人々も絶望に陥ります。その時、ティガの力を信じる子どもたちが世界各地で一斉に立ち上がり「ティガ!」と叫ぶと同時に光の粒子に。粒子はティガの元に集まります。人類を導く光ではなく未来を信じる人間たちの意思そのものが「光」であり、その化身こそがウルトラマンだと悟ったティガは復活。光の粒子になった子どもたちもティガの意識と融合しており、互いに連動してパンチとキック、光線技を放つことで怪獣ガタノゾーアを倒します。いってみれば子どもたちとダイゴがひとつになりみんながウルトラマンティガという超人になるのです。

 

90年代ヒーローの課題

 みんなの「元気」を集めて巨大な力に変える、ドラゴンボールの技「元気玉」もそうだけど、この90年代前後は主人公単独の強さよりも「自分だけじゃなく、みんなの力を合わせて強くなるヒーロー」っていうのがやたらクローズアップされていた印象があります。考えてみると、同時期のJ-POPも「ひとりじゃない!」というフレーズが量産されていましたね、そういや。

 

 それはその通りで異論はないんだけど、その「ひとりじゃない物語」を見ていて僕はある違和感も感じていました。これらのみんなの意思(総意)を集めて戦うような物語は主人公との親和性っていうか同調性があり、それは本当に心地いい。だけどそこには「もしその総意が道を誤ったら?」という危なさも潜んでいるようにも思えたのです。ワイルドアームズもティガもフィクションなのでそれはありえない前提だけど、現実社会においてそれは案外重要な問題だったりします。人々の総意によって生み出された英雄がエゴに走って独裁政治体制を作ったり、みんなの国家という総意が暴走した結果が戦争だった。など、僕らの現実世界は時に「みんなの総意」によって狂うことも少なくないのは世界史が証明しているじゃありませんか。

 

 90年代のヒーローをめぐる物語はヒーローと敵だけではなく、ヒーローにより守られる立場の「人々」も物語の当事者として絡めることで、ストーリーに深みと広がりを持たせることに成功してはいます。だけども「ヒーロー」と「それを支える『みんなの力』」、そして「その力を構成する一人ひとりの個性」をどう扱うべきか?という点において先述した課題を残してもいたのです。

 

プリキュア(ヒーロー)になるということ。

 これらの「みんなの総意」という物語の美しさとその背後にある「総意の危なさ」。これをどう両立させるべきなのか?というヒーローたちの背負った課題についてひとつの回答を今回の「HUGっと!プリキュア」は提示してくれたように思います。

 

 世界を守るため戦っているプリキュアの姿を目にした人々が「頑張れ」という声援を送るだけでなく、自らもプリキュア(ヒーロー)になり戦う。これはみんなの力を集めて戦うワイルドアームズのアシュレーや元気玉を放つドラゴンボールの悟空、子どもたちの意識が集まりみんなでウルトラマンになったティガとは明らかに異なります。それぞれの個性が反映されたスーツをまとい、前線で戦うキュアエールたちの元に駆け付けて最後の決め技を共に放つ人々の姿には「自分の未来を人任せにしない」「各々の『個性』を捨てずに力を合わせて困難に挑むんだ」という、行動に責任を持った主体としての姿勢が従来のアニメ作品よりも強く描かれています。

 

 このはぐプリの世界観におけるプリキュアとは世界を救う少女でなくキュアエールのセリフどおり「誰もがプリキュア」。いってみれば「プリキュアとは世界の危機を救うため戦う少女ではなく、こうありたいと思う自分や社会の在り方を実現させるため戦う自立した人物。自分や周囲の『個性』をお互いに認め合い、社会の中で助け合っていこう!という確固たる自我をもった人物」ということなのだろうと思います。

 

女の子も男の子と同じように戦いたいとの発想からスタートしたプリキュアは15年を経て、女の子が凛々しく自分で立つだけではなく「自分と他人の生き方」を尊重して、男女の違いや敵味方を越えて共に未来を歩もう!と訴える強さを持つキュアエール誕生に繋がったといえるのではないか。物語もそろそろ佳境に入るころですが、この「HUGっと!プリキュア」以降の作品がこの先どんな進化を遂げるかに興味を持っている反面、キュアエールたちにも強く愛着を抱く僕はもう少し彼女たちの活躍を見ていたいという二律背反に悩む今日、この頃です。いずれにしても、女の子対象のバトルものアニメから性別、種族を越える「人生そのものの応援歌」に成長を遂げたという点において、このHUGっと!プリキュアは高く評価されるべき。

プリキュアの歴代変身シーンに見た「キュアエール」というキャラの意義 - サブカル 語る。

  

 これは昨年に書いた記事ですが、プリキュアは「女の子のバトルモノ」という枠をとっくに越えただけではなく、みんなの総意とそれを形作る「個性」について答えを示したという意味で僕はこの「はぐプリ」を平成を締めくくるに相応しい最高傑作アニメである。と強く訴えたい。異論も反論もあるだろうけど僕は今後もそう訴え続けます。「誰もがプリキュアだ!」と叫んだキュアエールみたくワイルドアームズ2にも「誰かが英雄になるのなら、誰もが英雄になれる」というセリフがありますが、これは「万能な力を持つ英雄の出現を願ったり縋ったりして世界を変えて貰おうという弱さを捨てろ。世界を変えるために必要なのはオールマイティーな英雄じゃなく力は弱くても責任と勇気をもって信念をつらぬこうとする小さな英雄たちである。」という意味だと僕は思うのです。