こんにちは。
先月書いた記事で、僕はキャラの肌の色に抱く違和感から「差別」を考えるために、このような記事を書いてみました。
白人のイメージが強いキャラがその枠組みを越え、白人でない人も物語で重用されるようになった風潮について多くの人が「差別ではない」という前置きをしながらそれについて違和感を唱える。その「違和感」は差別ではないのか?っていうテーマを嘗て、日本人や白人でないキャラが主人公のアニメを避けていた自分を振り返って考えていくのがこのテーマでした。その記事についていただいた感想が嬉しかったので、ご本人の快諾を得て紹介させていただきます。
『「僕らは現実の登場人物としても日本人以外の白人ではない人たちをさほど重要視してこなかった」』確かに一瞬、驚きはした。∀のロランにはそんなに違和感も覚えなかったのに>「肌の色の違い」を僕らはどのように組み込んでいくべきかを考える - サブカル 語る。 https://t.co/ZtInZSEy3B
— 墨汁 (@vok_zehn) 2022年10月4日
墨汁さんはこのツイートで「AMみたく白人でない∀のロランについては違和感を抱いていなかった。だが確かに白人や日本人でないルーツを持つ人やアニメキャラを目にする時、違和感を抱くこともある」としてその違和感を認め、そこから差別についてを考えることは「どこかにある差別意識」に抗うために重要なのではないのか?と意見を述べてくれました。
ブログを見てくれた人が僕の「差別体験」を取り込んで、そのうえで差別についての考えを言葉にしてくれた。これは文章書きとしてはとても嬉しいことです。
この情報の「身体化」「言語化」は社会への理解や他者性を育てるためにも大切なものだと僕は思います。以前、ガンダムで有名な富野由悠季監督がたまたま斧を手に持った時「あぁイヤだな」という想いが沸き起こったそうな。富野さん自身は小学生のころから薪割りで斧を使っているけど、その感覚を忘れている。だから「斧で人を傷つけたりすることもできるんだ」という感覚を人間は体験的に学習しておくべきだと思う。と語っていました。その「斧で人を傷つけることもできる」という感覚の体験的な学習を経たからこそ富野監督も斧を「イヤだな」と思えたのでしょう。つまり、これこそ先ほどから述べている情報の「身体化」「言語化」っていうこと。その感覚を育てておかなきゃロクな人間にならんぞ!という話です。
さて。その情報の身体化と言語化と並べてこの問題を考えてみたいと思います。
以下、記事の引用&リンク
10月3日、「2ちゃんねる」の創設者で、現在はコメンテーターとしても活躍する西村博之氏(通称ひろゆき)が辺野古のゲート前を訪れ、「座り込み抗議3011日」の看板の横で笑顔を浮かべる画像とともに、こうツイートした。
「座り込み抗議が誰も居なかったので、0日にした方がよくない?」
ー大袈裟太郎
ひろゆき氏を直撃「辺野古座り込み抗議」で議論、SNSに溢れる沖縄巡る誤解の数々
よりー
この座り込み抗議を茶化すような呟きを見て富野さんでもないけど「イヤだなぁ」という思いを強く持ちました。それはこのツイートを身体化するプロセスで、嘗て自分にとって不本意なものを強制させられた時に「異議」を叫んでいた光景を思い出したからです。皆さんにもそういうのありませんか?家庭でも、学校でも、職場でもなんでもいい。問題が大きくたって小さくたっていい。皆さんは、「イヤだ」と思うものに対して声を上げたことはありませんか?あなたがそういう時に声を上げていたとしたら、それをふざけた態度で笑うような人をどう思いますか?それは「いいね!」を押すに値する人ですか?笑われている当事者の怒りを前にふざけながら「論破!」とかいう人をカッコいいと思いますか?
それでも「ひろゆきっぽいもの」をカッコいいと捉えるなら何も言いません。ただ、嘗てのあなたが何らかの不本意なものに抗い、怒りを抱いた経験があるなら「ひろゆきっぽいもの」を見てそれを身体化した時「イヤだな」という感情を持ってそれらを言語化できるのになと僕は思う。
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