こんにちは。
今日のブログのテーマは「表現の自由」。だけど今回は僕ではなく、ある漫画で語られた「表現の自由」についての見解から、その辺について考えていきたく思っています。その作品とは土田世紀の「編集王」。20年以上前に小学館の「週刊ビッグコミックスピリッツ」で連載された作品です。
編集王の物語について
物語は小学生の頃に「あしたのジョー」を読んで感銘を受けた「桃井環八」が主人公。環八は「俺もジョーになりたい!」と誓い、プロボクサーになったもののなかなか勝てずに伸び悩んでいました。
そんなある日、環八は健康診断で「網膜剥離」と診断を受けてプロ引退を余儀なくされることに。アパートにはあしたのジョーの単行本全20巻だけを持ち込み、他の生活道具は必要最低限。10代から現在までの青春全てを捧げたボクシングを奪われて「ボクシングのない世界で、あしたのジョーみたく生きられるのか」と深い絶望を味わいます。
その絶望から環八を救ったのは環八が子どもの頃から「ヒロ兄」と呼び、慕う兄貴分の「青梅」でした。青梅は「お前の人生はジョーみたく全20巻ではない。お前には明日も明後日も来る。ネクタイを締めたリングもある」といって自分の勤める漫画誌の編集部にアルバイトで誘い、環八もその編集者の中でのチャンピオン「編集王」になる!と新たな夢を抱き、日々奮闘。
まぁ、大まかな物語はだいたいこんな具合でしょうか。その編集王では漫画編集という職業をクローズアップして漫画の制作や表現などに関わる問題について作者が多くの想いを読者に投げかけてくるのですがあらためて読み直すとこの作品、「エロ表現と漫画」はどうあるべきか?というテーマが根底にあることに最近気づきました。その中から、今回は「コミケ編」をピックアップして作者は「表現の自由」についてどう考えていたかを紹介したく思っています。
「表現の自由」と「エロ」
この「コミケ編」では環八が、同僚の本占地の趣味であるコミケの話を聞き、新人発掘にうってつけと意気込んで本占地とコミケ会場へ。会場では多くのアマチュアが作品を売り買いしており、そこで環八は制作に携わる雑誌連載のキャラが凌辱されているだけの同人誌を発見。その同人のエグさを嬉々として語るサークルに環八は怒ります。
他人のキャラクターを勝手に使ったエグい凌辱のオンパレード。環八の怒りや非難について、エロ同人本の愛好者たちは「表現の自由」を語ってこう主張します。
「俺たちは表現の自由の名のもとに主催者から許可を得ている。あんたは不愉快でも俺らにとってはファンタジーなんだ!」そのオタクの主張に対して、環八も暴力混じりの反論。
「何が表現の自由だ!汚いケツの穴を広げて見物料取ることのどこが表現だ!」と。そしてエロ表現への嫌悪から同人やコミケそのものまで否定的な環八の暴走で騒然となった会場である男性が叫びます。
「コミケみたいな楽しみ方や関わり方も立派なマンガファンのものだろう?」この人物こそ、コミケの実行委員長「四面道渡(しめんどうわたる)」。エロを「表現の自由」と言い張るオタクたちに納得できない環八と四面道はコミケや表現の自由のあり方についての意見をぶつけ合います。
「コミケは本来、漫画を通じた学校の文化祭のようなもの」という四面道に「そのコミケでエロ本を売るのを許可するのはなぜか」と問う環八。それについて四面道は「やりすぎなサークルも確かにあり、それは自分も嫌いであるのと同時に迷惑」といいながらもこう続けるのです。
「それでも多くのサークルは健全で、みんなその中で純粋に遊んでいる。その遊びすべてを包む風呂敷がこのイベントであり、風呂敷だからこそサークルの表現形態に規制をかけないのが委員会の鉄則なのだ。毒なサークルもあるが『表現の自由』を守るためそれらを認めざるを得ない。だからこそサークルのモラルを信じるほかない。どんな表現の自由も包む風呂敷という美学がコミケの本質」
環八はエロは理解できないが「コミケについての説明は筋が通っている」と納得。そのうえで巨大ビジョンからコミケやそこに携わる人たちに「誤解して迷惑をかけてごめん」と謝罪。でもやっぱりエロは納得できないものとしてこう語りかけます。
「表現の自由はやっぱり見てくれる人あってだろ?なんでこんなもん(エロ)を描くのかを人に聞かれたら、ちゃんと答えられる動機は用意しておけよ」
「表現の自由」についての「理由」を理論武装できるか?
この作品で描かれたのは90年代。作品そのものも「荒唐無稽」とか「エロ、同人を見下している」など賛否も多いものではあります。ただ、この頃から作者の土田はエロな表現が物語を離れてひとり歩きすることを憂慮していた。ということはできます。
この物語でコミケのブースの一角にある世界でしかなかった「エロ表現」はコミケの枠を越えて巷に溢れており、コマにあるオタクが「あんたは不愉快でも俺らにとってはファンタジー」だと語ったエロは、現在のオタクがその不愉快を訴えている人たちに噛みつくための道具になっている。「エロは他者の『不愉快な感情の自由』を侵害していても守られるべき『表現の自由』」であるとして。この作品でエロ表現を見た環八の叫ぶ「(エロ)は何も表現をしていない」っていうのもある意味暴言で、エロを「こんなもん」呼ばわりをする物語はエロを下に見ている!という批判も当然な面もあります。
ただやっぱり自分たちの好むエロが社会、他者からはどう見られているかということを「表現の自由」を大義名分にして考えない、見ない聞こえないふりというのは卑怯だよなとは思う。「どうしてこんなエロ表現を大勢の目に触れさせたいのか?」と聞かれたら『表現の自由は認められているのにお前らはどうして文句をつけるんだ?表現の自由の侵害だ!規制だ!弾圧だ!」とか妄想めいたことを叫ぶ前に「こういうエロが好きだから町のいたるところで観たいんですよ」と素直に答えりゃいい。まぁドン引きされるだろうけど。なに?わざわざエロを街でみたいからではなく、表現の自由を守るため反論しているだけ?だったら否定派側の主張も「批判」という表現なんだからその自由をあんたも守って否定派側の主張の自由も保証なさい。
エロ好きは誰にも否定されるものではないし、当然それを愛する権利だってある。だけどオタクたちのエロな価値観が「風呂敷」を飛び出してエロを街に溢れさせた以上、それに異を唱える意見に対峙しないのはやはり無責任だと思う。エロ表現に否定的な声を受け続けてもオタクにとっての都合のいい「表現の自由」を手に入れたいなら、万人の納得できる理論武装でそれを使って否定派の意見に挑んでやるぜ!ぐらいの気概をもっていただきたい。そういった気概もなく、ただ「表現の自由」を叫んでみたって誰も相手にせんぞ。
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※この作品を改めて読み返してみたら、「物語とエロ」についてかなりの部分を割いているのに気づいた。どちらかというとエロに否定的な立場の主張が多いがそれでも物語における「エロ」について、作者なりに掘り下げたというのが強く伝わってくる。