サブカル 語る。

サブカルチャーなどについての雑談

女性を「モノ」としか考えていない、日本という国

こんにちは。

 本日のテーマは週刊SPA!で掲載されたある記事から。

 

 

blogos.com

「SEXできる大学」に集まる批判 

 コレはどういう記事かっていうと男が女性に飲食の料金を全額負担する「ギャラ飲み」というのが流行っており、飲み会の後で女性と性関係に持っていける可能性の高い大学生を、大学別ランキング形式で発表をしているもの。

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 これに対して挙げられた大学に通っている学生や大学関係者、女性は当然激怒。署名サイトで「記事の撤回と謝罪」を求めており、現在2万件をゆうに超える批判が集まっているそうな。これを受けSPA!編集部は以下コメントを発表。

上記リンク記事引用

『より親密になれる』『親密になりやすい』と表記すべき点を読者に訴求したいがために扇情的な表現を行ってしまったこと、(マッチングサービス)運営者の体感に基づくデータを実名でランキング化したこと、購読してくださった読者の皆様の気分を害する可能性のある特集になってしまったことはお詫びしたいと思います」。

 今後は、「セックスや性にまつわる議論については、多種多様なご意見を頂戴しながら、雑誌として我々にできることを行ってまいりたいと思っております」

  こんな記事を掲載している雑誌なので、口だけの謝罪だと思った方がいいでしょう。

 

joshi-spa.jp

大学ランクよりもひどい本

 僕に言わせりゃこの件「何を今更」って感じです。この国のメディアは昔から女性を「性対象」という形で、モノ扱いし続けていたじゃないか!と。この「ヤレる女子大学生ランキング」よりもっとえげつない本があります。「私をスキーに連れてって」という映画などで知られているホイチョイ・プロダクション制作の「東京いい店やれる店」

 

www.hoichoi.jp

 

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東京いい店やれる店。

 1994年、小学館出版。この本は食事などのあとに女性と性関係に持っていきやすくなる店をミシュランみたく星で表現。この本のタイトル「やれる店」という下品さには高校生だった当時の僕でさえ呆れたもんですが、さらにそのランクで使っているマークもひどい。店のランクを、女性の開脚マークの数で表現しているんですから。

 

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 こんな感じで。誰か心ある記者はこのホイチョイプロダクションに取材してくれませんかね?「現在ヤレる大学ランキングで批判が多く集まっているが、かつてこんな本を出版した御社の見解を教えてほしい」と。今でもこの会社は当時のカビくさい価値観を引きずっているはずなので。女性を男の性的欲求の処理道具扱いするだけに留まらず、年明けには「西武そごう」の広告でパイを顔にぶちまけ、さらには国会議員による「国家のための子孫繁栄の道具扱い」ときたもんだ。この国の女性の扱いのひどさには呆れるばかり。

 

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「機械って言っちゃ申し訳ないけど」「機械って言ってごめんなさいね」との言葉を挟みつつ、「15-50歳の女性の数は決まっている。産む機械、装置の数は決まっているから、あとは一人頭で頑張ってもらうしかない」

 

柳澤伯夫 - Wikipedia

 

新 東京いい店やれる店 | 小学館

 ホイチョイプロダクションって2012年にもこんな本を出していやがる。別に僕はフェミニストではないけど、こういう「人間をモノ扱いする価値観」大キライなんだよマジで。「ヤレる」だの「ヤレない」だの「お持ち帰り」だのふざけるな!と思いますよ。人間はモノじゃない!

 

女性の性対象扱いは他人事ではない 

 この話は何も、性的対象としての女性の扱いだけに留まるものではありません。突き詰めていけばこれは職場やあらゆる場面において人を「使える」「使えない」などという自己本位的な価値観で測り、平気でそれを口にできるこの国の在り方、考え方にも繋がっている同根の問題だろうなと僕は思う。だから、決してこれらは他人事じゃありません。今後も僕は人間をモノ扱いするな!と何度も言い続けていく。ブログでもリアルな現実でも。ただ世間的にはこういうバカの方が多数派なのでこの価値観を覆すっていうのは大変だろうけど。

news.livedoor.com

 

 

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東映の特撮プロデューサー募集に40過ぎのおっさんが応募してみた

こんにちは。

 遅くなりましたけれど、新年明けましておめでとうございます。いつもなら年始からちょこちょこブログを更新なんぞしていたけれども、今年はゆっくりさせてもらおうとブログをほったらかしていたら、いざ書こうと思っても全然気が乗らない。僕みたいななまけ者はやっぱり定期的に書いていないとすぐ飽きるので、面倒でもパソコンの前でカチャカチャキーボードを叩き続けるべきなんでしょうね。そんなことをいってみてもふと気づいたらこのブログも5年目。地味に長いっす。

 

 

東映の特撮プロデューサー職に応募!

 さて本題。本日のテーマは「2019年の抱負」なのでここらで決意表明なんぞを。僕の目標は「なんとしても自分の作品を形にする」。話は前後するけど昨年、「仮面ライダー」や戦隊ヒーローでお馴染みな「東映」がプロデューサー職の募集を大々的に行っておりました。

 

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注意:もう募集してないので送るんじゃねーぞ。

 

おっさんは言い訳が多い(笑)

 アニメ制作に携わりながらも自分の生意気さや未熟さのためにアニメ業界をフェードアウト。その後は以下の職業を経て、現在ネットワーク専門の技術屋になりそのスキルで飯を食っています。

①アニメの制作
②AD(実写)
③書籍編集(バイト)
④フリーペーパーのライター(正社員)
➄アニメの制作
IT技術

 会社をクビになったり、ゲームのシナリオを会社に持ち込んでそれなりの評価をいただいたものの、形にはならず。という努力と挫折を20代~30代まで繰り返していた日々に疲れた僕は今でも趣味で演劇の戯曲を書いたりしてはいるもののその行為は「未練」「夢への惰性」みたいなもので、本気といえるものでもありませんでした。そんな時、この募集を見たのです。

 

「40越えのおっさんが応募したって見向きもされないだろう」
「若い人の応募が多い中での応募。笑い者だろうな」
「映像制作経験者…経験はあるけど…」
「でもこの職歴は案外、人事の目を引くかも」
「年末作業に向けて業務も手一杯。履歴書作る暇などない」
「ふってわいたチャンスを手にできるような実力なんてない」

 

 こんなふうにウダウダと数週間悩みました。人間っていうのは言い訳を作ろうと思ったらいくらでも出て来るもんなんだなとつくづく思います。

 

 さんざん悩んだ挙句、やっぱりやってみたい!という本音には勝てず、募集について詳細を問い合わせ。募集要項を確認して履歴書と書類選考のための課題づくりに励むことに。普段の業務に並行してアイディアを練り込み、終電で帰宅後に提出書類作成。ほぼ徹夜作業になることも多く、眠気に抗いながらの日々。そんなコンディションでも業務でミスを出さなかったのは我ながらさすがだと褒めてやりたいです。業務書類提出の期限ギリギリの追い込み時には「毎回、年末年始の作業に出てもらっているから今年はゆっくり休んで」と思わぬ幸運も。僕には運も味方しているぞ!とボルテージを上げながら提出書類を作成。不安と期待交じりで、書類を郵送できたのでした。

 

人生そんなに甘くない。

 数日後。書類選考の結果は「落選」。人生、そんなに甘くはないわなと笑ってはみたものの、その通知が涙でぼやけていくのがどうやっても止まらない。「全力を出せたら悔いなんてない!」なんていうのは大ウソです。全力で挑んだつもりだったけど、まだ力を絞り出せたのではないか?という後悔。自分の価値観から生み出されたアイデアが通じない失望。40越えじゃどうせ年齢でダメだったんだろ。と年齢を言い訳に、能力不足を認められない弱さ。努力が報われなかった惨めさ。書類の選考で「選ばれた者」たちへの醜い嫉妬、選考に携わった人たちへの逆恨み。今の職業や勤める会社もそれなりに気に入っておきながら、自分はいざとなったら平気で捨てる薄情さ。案外、うまくいったり!とか考えていた思慮の浅さへの苛立ち。そんな感情が押し寄せて耐えられませんでした。そんな想いを引きずりながらも年明け。さて今後どうするべきかと頭を働かせております。

 

夢への情熱が残っていることに気づけたのは収穫

 そんなふうに自分の恥についてダラダラ書いてみましたけど、別に「頑張った自慢」や愚痴をいいたかったわけではありませんよ。「挑戦って素晴らしい!」っていう自己満足でもない。ここで僕がいいたいのは結果がどうあれ行動を起こせばそれなりに得るものはあるよ。っていうことです。書類選考で引っかからなかったのはしょうがない。実力なんだから。今回の応募を振り返って「夢に対する情熱はまだ残っていた」ことに気づけたのは大きな収穫でした。その意味で僕は東映に感謝するべきでしょう。書類選考から漏れた企画も磨けば輝き、どこかに持ち込むことで誰かの目に止まることだってありえる。自分の作品を形にしたいと本気で思っているのなら、落ち込んでいるヒマなんて絶対ありません。そういう面から考えても、僕は甘かったのです。現状把握してすぐ次の手を講じて行動に移すべき。僕が口だけでなく夢に本気だというならね。

 こういうときによくありがちな「無駄なことなんてない!」とかいうフレーズをキレイごとにするか、そこから何かしらの突破口を見つけるか。それはもう僕の持っている人間力にかかっているだろうと思っています。今年はそんな感じで自分の人脈を掘り起こしたり、積極的に営業をかけて新規の人脈発掘、書き溜めた作品の研磨と日々のIT業務への集中(本職に手を抜くようなガキじゃない)ほか、その作品の一環であるこのブログのクオリティー向上、さらに家庭においてもサービス精神を向上させることで良き旦那、パパになって家族に喜んでもらうことを目標として今後も弛まぬ努力を続けるってたくさん目標を述べたところで本日のブログはこれで!なんかやることいっぱいだ。

 

 


 

 

今週のお題「2019年の抱負」

クリスマスイブなので好きな女の子にベルマークをプレゼントしてみた。

こんにちは。

 

 

 

山下達郎もマライアもワムゥもうるせぇ! 

 本日はクリスマスイブ。恋人がいる人も、いない人も浮かれまくりな日ですけど、ここで気をつけていただきたいのが「女性に贈るプレゼント」。もしこの選択を誤ったりしたら折角の楽しいひと時も全部台無しになります。36年彼女がいなかった僕としては自らの経験を多くの人に語り、僕みたいなさびしく孤独な青春を送って貰いたくない。そういう思いで、本日はこの記事を書いています。

 

プレゼントは人柄の伝わるものを

 思い起こせば20年近く前。大学生だった僕にも好きな女の子がいました。その娘っ子とはアルバイトを通じて仲良くなり、もう少しで「お付き合い」も可能な雰囲気に発展。そんでもってその想いの集大成となる12月。彼女にイブになにか欲しいものはある?と聞いてみたところ、彼女は僕にこう言ったのです。「AMネットワーク君の人柄がわかるものが欲しい」
 

 だけど、よく考えてみたらこれってめちゃくちゃ難問だと思いません?ミナミの帝王みたいに「すべては銭(ゼニ)でんがな!」といって、指を丸めてくれるのなら分かりやすいのですが、自分の人柄を伝えることができるものっていざ、考えてみるとなかなか思いつかない。そうはいっても好きな女の子が欲しいっていうなら。と、頭を絞って考えに考え、その結果たどり着いた答えが中学2年ごろからその頃まで集め続けたベルマーク3000枚。それをラッピングして、彼女にプレゼントしたのでした。これはマジでツラかった。大事なコレクションでしたから。

 

ベルマークにこめたプラトニックな想い 

 ベルマークを集め続けていたのは「これを個人で集めても、なんの得にもならないから」という理由からでした。ベルマークってあくまで学校などに寄贈して学用品などと交換できるクーポン券なので、個人で収集しても何ももらえませんし、絵柄もまったく同じなので集めていても面白くもなんにもない。でも、だからこそ「集める」という行為そのものへの情熱とプラトン的なイデアへの思いの純度が問われると思い、ベルマークを集め続けることでその境地を極めたいと本気で思っていた。だからこそ、そのコレクションを手放すことはもう断腸の思いでした。
 

 結果的にその女の子は僕のコレクションを怒りにまかせで道路にぶちまけ帰宅。僕は女の子にフラレて悲しいという思いよりもその時は、その娘の「審美眼」のなさにひどく絶望していました。ふつうに考えて見て下さい。ベルマークを3000枚。それだけの数を集めるのにどれだけ時間と労力を使ったか。その労力の結晶から見える自分の人柄とは「根気強さ」。二人で付き合いを始めても、その道のりは楽しいだけでなく、苦痛も伴うだろう。だけど、そういった苦痛さえも乗り越え、二人の時間を積み上げていきたい。自分にはその覚悟がある!僕のベルマークのプレゼントはそんなメッセージも込めていました。そしてまた、その女の子も「クリスマスプレゼントに、ベルマークをもらった女の子はおそらく世界でも自分だけ」というプライスレスな価値を手に出来るのチャンスだったのにそれさえも目先の欲にくらみ、その権利を放り捨てる。そんなバカに自分の時間を使っていた愚かしさを嘆き、世間の女の子って自分だけを特別な存在にしてくれる男性がスキ!なんていっているくせに徹底していないなぁと思ったもんだ。

 

    結論。もしもあなたの彼女や現在、好意を持っている女の子が俗物だったらベルマークをあげるのはやめておけ。もし独自の美学を持っている女の子だったら、おそらく喜ぶと僕は思う。

 

 


 

 

※こういうのがほしいとかその娘にいわれても、僕は買わなかっただろうな

 

アニメ版グリッドマン(GRIDMAN)全12話の感想と評価について。

こんにちは。

 

 本日で多くの話題となったアニメ「GRIDMAN(グリッドマン)」も今回の放送にてフィナーレとなり、なんともいえない淋しさを感じております。

 

 

gridman.net

 

 学生の頃に見ていた「電光超人グリッドマン」というマイナー特撮作品のリメイクということで、懐かしさと期待を同居させた想いでこのアニメを見続けていましたけれど率直な感想を述べると「GRIDMAN≠グリッドマンという一言に尽きます。え?作品の否定?まぁ焦るな。きっちり語ってやっから。ネタバレは許せ。

 

グリッドマンとGRIDMANの共通点 / 相違点

①放棄されたグリッドマン同盟

 「GRIDMAN≠グリッドマンである理由その①。この両作品は、「街」という空間を拠点に世界を混乱させる敵の打倒を目的とするヒーロー「グリッドマン(ハイパーエージェント)」と、三人一組の少年少女たちの戦いの物語という点では同じですけれど、その関わり方は異なります。実写版ではそのうち一人の少年がグリッドマンと合体(アクセスフラッシュ)して一人のヒーローとなって怪獣に挑み、残り2人の男女はグリッドマンの参謀兼サポートとして活躍。手作りパソコン「ジャンク」の回線から怪獣が暴れ回る「コンピューターワールド」に接続して戦うグリッドマンのピンチに併せて適切な武器を転送したり、グリッドマンのパワーアップを図るサポートアイテムを開発したりなどパソコンの知識をフルに活用してバックアップ。いわばこの2人組は、グリッドマンの戦いで要ともいえる役割を担っていました。

 

 ところがアニメ版では男女三人組(グリッドマン同盟)の一人、響裕太がグリッドマンになった後で残りの二人組はまるで空気みたいになり、戦いに直接関わりません。これは実写版では二人が開発していたサポート兵器がアニメ版だと「独自の意思を持ってグリッドマンと戦う人間」になり、必要に応じて武器に変身する設定に変更されたため二人の存在意義が薄れたことで起こった事象です。

 

 確かに擬人化された武器たちはそれぞれに個性もあり、その絡みも面白かったけれどその分だけ同盟二人の男女は置いてきぼりになった。疾走感あるムービーで高らかに歌うオープニングテーマでは「同盟を結ぼう!」という割に、少年少女の同盟設定を放棄している点でテーマと物語に齟齬があるのは否めません。旧作のオンボロ手作りPCを前に悪戦苦闘していたパソコン少年たちの姿を知る者として淋しい限りです。

 

②救いのないセカイ系

 続いて②。実写版もアニメ版も原則的には先述の通り「街」という狭い空間が舞台であり、その中でグリッドマンと怪獣たちの戦いは繰り広げられます。実写の怪獣たちは「悪の帝王カーンデジファー」に唆されたPC少年「タケシ」の手によってコンピューターウイルスのように作られており、電子機器内部に広がる仮想空間「コンピューターワールド」で暴れさせることで機器を誤作動させ、パニックを発生させる。グリッドマンは怪獣を倒した後に破壊されたコンピューターワールドを修復して街のパニックも収束。こういった基本に沿った「無害なセカイ系」の物語構成になっています。

 

 ところがアニメ版は現実の街の中で同じく悪の帝王「アレクシス」に唆された怪獣大好き少女「アカネ」の作る怪獣とグリッドマンが戦い、先述した修復能力も現実が舞台のためか発揮されません。怪獣を倒した後は後述の理由で破壊された街も元通りになるけれども犠牲になった人々は、歴史そのものから消去されるという実に救いのない設定のうえにこの物語は成立しているのです。実写版では怪獣が暴れ回っても、それは人間のいない仮想空間の話であるため、直接的な犠牲者はいませんでした。そのため作品にもどこかのん気な空気が漂っておりそれもまたこの作品の魅力でもあったのです。その作品の持っていたのん気さを捨てたことが実写版とアニメ版の相違の大きな本質でありそれはこの作品のエピローグの根幹に関わってくることに。それについては次章以降で述べさせて貰います。

 

怪獣少女「アカネ」は本当に救われたのか?

①ハッピーエンドという解釈への疑問

    そんでもって最後のエピソード。最後の戦いは特撮版ファンの懐かしさを誘い、前述した実写版グリッドマンの修復能力の有無が物語の伏線という予想外の展開でした。

 

 物語の舞台となっていた街は現実でなく、怪獣少女「アカネ」の作った「コンピューターワールド」そのものだったことも判明。箱庭のような街で、データから生み出された人間たちが暮らす仮想世界の物語だったことを明かしながら繰り広げられる最後の戦いもアニメ+実写+ウルトラマンメビウスウルトラセブンULTRASEVEN Xあしたのジョーみたいな演出で盛り上がります。エピローグはさらに映画エヴァの「まごころを、君に」と貞本版の漫画エヴァを加えたようなものになっており、旧作や他作品のエッセンスを混ぜ合わせていてすごく面白い。実写版もアニメも悪に唆されていた少年少女を改心させ、同盟三人と和解させたことや狭い世界の「セカイ系」で話をコンパクトに収めているのを見ても確かにこの作品は実写版の踏襲でありリスペクトでもあるといえます。

 

 だったらこのアニメのどこに不満があるかって?不満はありません。あるのは「コレって、ひょっとしてハッピーエンドではないんじゃ?」という率直な疑問です。

 

②過ちを償なった少年と償えなかった少女

 グリッドマンという物語は実写もアニメも「ヒーロー側」と「敵側」から見ることのできる二面性を持っています。作品をヒーロー側の視点で見ると「闘う少年少女の物語」。逆に敵側視点で見ると「悪の誘惑に染まり、社会に敵意を抱いて引きこもった少年少女の自立の物語」になる。この点で実にユニークであり、そのユニークさこそ実はこの作品で最も評価すべきだったのではと、僕は最近思っています。

 

 実写版は失敗続きでカーンデジファーから見限られたタケシが今までの自分を振り返って過ちに気づき、罪を償うためグリッドマンに勝利の鍵となる力を与える。つまり、ヒーローと共に闘うことで責任を取らせる機会があった。ところがアニメ版は最後の敵に取り込まれたアカネを助けるため、みんなで力を合わせて戦う。結果、アカネはヒーローに助けられる。平穏の戻ったセカイ(コンピューターワールド)でアカネは友達(仮想データ)の説得で現実の世界に戻る決意を固め、現実と少女の作ったコンピューターワールドはパラレルで時が流れていく。という空気でハッピーエンド。

 

③少年と少女の背負う「罪」の重さの違い 

 コレって一見、ハッピーエンドかのように思えますけど本当にそうなのでしょうか?アニメ版の最初のエピソードで、少女は学校の昼食時にふざけていた同級生や合コンで強引だった大学生に苛立ち、消去するためだけに怪獣を作り、その餌食にしたという経緯がありました。

 

 怪獣を作って多くの人を犠牲にしたのも現実ではなくバーチャルなコンピューターワールドという「セカイ」の出来事のため、少女は痛みも責任を追うこともなく過去の過ちをリセットできているようだけど、実際はそうではありません。物語ではコンピューターワールドの住人たちも元はデータでありながら現実と同じく「生命」をもっていることが示唆されています。つまりアカネは身勝手な理由で意図的に他者の生命に手をかけたことになるのです。どれだけ怪獣を暴れさせて現実を混乱させても、グリッドマンにより修復されていた特撮版のタケシと比べると、アニメ版のアカネの背負う罪はあまりに重い。

 

 最後のエピソードでも手にかけた同級生や大学生たちの笑顔がアカネを責め立てたり戦いの後にアカネが「取り返しのつかないことをした」といって泣いている場面がありましたが、戦いの後でその同級生たちが元通りになっているという描写は見当たりませんでした。その辺りを考えてみると、この作品を手放しでハッピーエンドとは呼べないんじゃないか。脚本や演出の見落としなのか、意図的にそれを行わなかったのかわかりませんが物語を通して観た限りでは、この少女は他者の生命に手をかけた点において、何の責任も償いも果たせていない。だからこそ僕は「GRIDMAN」は平和なセカイ系でハッピーエンドだった電光超人グリッドマンとは異なる救いのないファンタジーであり「GRIDMAN≠グリッドマン」だと最初に述べたのです。

 

 いっておくけど、コレは粗探ししてケチをつけているのではありません。物語の舞台が犠牲者の生命が戻らない「取り返しのつかないセカイ系」だと分かってから、この作品は元通りに戻らない「生命」をどう扱うのか?という点にずっと注目していたんです。イヤミを込めて逆に言わせてもらうとtwitterなどのSNSでもこの点について言及している声はほとんどありませんでした。僕にいわせりゃ「あんたらこんな大事なポイントを観てないの?」っていう感じだけど。

 

④引きこもり脱却ドラマの再生産が続くこの国

 ただ。物語の解釈なんて正解などないものであり、この解釈だって僕の曲解だったり単なる勘違いっていうこともありえなくはありません。でも仮にこの物語がハッピーエンドだったにしても、90年代以降続く「引きこもりからの解放」が未だ多くの人に受け入れられている現状ってなんなのか?という考察は重要なので、その点については別の機会で改めて。

 

アニメ版と特撮版、最大の違い 

あとやっぱ「GRIDMAN≠グリッドマン」である大きな理由はアニメのラストエピソードを実写版みたく年明け一発目に放映しなかったことだよな。

 

 

みんな「あけましておめでとう。今年もどうぞよろしく」と、挨拶をしあっている中でグリッドマンだけ「さらば!グリッドマン」というタイトルのエピソードを放映。あのシュールさにはほんとビビった。

 

物語のシュールさや、演技のヘタさが醸し出す味わい深さを楽しんでいたけれど、この番組はたぶん一般ウケしないだろうと思っていた僕らはおそらく2クールで番組打ち切りになるだろうなと思っていました。番組が4月スタートだから10月に終了か。そう考えていたら2クールの10月を越えたので「おぉっ!通年で放映!4月まで楽しめるぞ!」と喜んでいた矢先、番組は年末にグリッドマンと先述した悪の帝王カーンデジファーとの直接対決を放映。「え?第3クールの最後でラスボス戦?第4クールどうなる?」と僕らを困惑させ、そんでもって年明け最初になる放映タイトルは「さらばグリッドマン」。で、第4クールスタートと同時に放映終了。 世間では正月で「今年もよろしく」という挨拶がされている中、この番組では高らかに「さらば!」と叫ぶ。どこまでシュールなんだよこの番組!!

グリッドマンという、時代を30年先どりした特撮作品の感想 - サブカル 語る。

 

 

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クリスマスにおすすめ!ウルトラの父と母の「賢者の贈り物」

こんにちは。

 あっというまに今年も後少しになりました。来週にはクリスマス・イブを控えて、街には思わず「うるせー!」と怒鳴りたくなるほどワムゥとマライヤ・キャリーと山下達郎などの曲で溢れています。

 

 

 

    さて本題。今回「理想のコンビって?」というテーマに沿ってこのブログを書いていますが、ついでにクリスマスにも便乗させてもらいましょう。理想のコンビっていったらそりゃいうまでもなく「円満な夫婦」ですよ。そんな夫婦の美しさを題材にした音楽や映画、文学は数多くありますけれど最もよく知られているのは、クリスマスを舞台にしたオー・ヘンリー作「賢者の贈り物」じゃないでしょうか。

賢者の贈り物 - Wikipedia

 

名作「賢者の贈り物」をウルトラマンの世界で表現 

 ある貧乏な夫婦が相手にクリスマスプレゼントをあげたいとお互いに思っており、夫は大事な時計を売って作ったお金で美しい妻の髪のために高級な櫛を、妻は自慢の髪の毛を売って作ったお金で、夫の宝物である懐中時計の鎖をそれぞれ買った。お互いにプレゼントを秘密にしていたため、海中時計の鎖と櫛は二人にとって不要なものになった。だけどその行き違いはお互いを思いやる心ゆえのものであり、何よりも尊いものである。この物語に理想の夫婦像を見る人もいるでしょう。

このエピソードをウルトラマンの世界で表現したらこうなった。

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 物語の主役はウルトラの父こと「ウルトラマンケン」。そしてウルトラの母こと「ウルトラウーマンマリー」。大事な宝物を手放して、お互いのプレゼントを工面する美しい夫婦愛を描いているところは原作と同じなんだけども、なにせこのお二人は表情がお硬いせいで喜怒哀楽がぜんぜん読めないため、物語の良さがあまり伝わってこないのがこの本の最大の欠点。本来は心温まる夫婦の物語なのに、全然心が温まらない「何だこりゃ?」なアイテムです。あ、ちなみに「ケン」と「マリー」は二人の本名。

 

遠くの星から来た男たちの教える愛と勇気 

 こんなふうにイマイチな作品もあるけど、この「ウルトラ怪獣絵本」は子どもの絵本の読み聞かせにおススメ。僕も娘に絵本の読み聞かせなどをやっていますけれど物語に興味を持てなかったり、昔からある本のため内容を知っていたりとかするとダラけてきて、その朗読もついつい手を抜きがちになりがち。そういうところに子どもというのは敏感なのでできるだけ親子揃って本を楽しみたい。そんな全国のお父さんにぜひともお試しいただきたいシリーズです。

 

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  ウルトラかいじゅう絵本シリーズ。写真は「バルタンとてぶくろ」。こんなふうに描かれるとウルトラマンのライバルであるバルタン星人も可愛く見えてくるから不思議。

この絵本の詳細は以下ホームページ

あいうえお館

 

 

 古今東西の名作童話や民話、オリジナルの物語を交えて「手洗いうがい」や「あいさつ」など子どものしつけに大切なものを、ウルトラ兄弟や愛嬌たっぷりの怪獣たちが教えてくれる絵本。今回、僕の買ったのは狐のこどもが母親狐に手を人間のものにしてもらい、人間の街に手袋を買いに行く新見南吉さんの名作童話「手ぶくろを買いに」をバルタン星人の親子に置き換えた「バルタンとてぶくろ」。ほか2冊。ウルトラマンジードやオーブを通じてウルトラマンを知った娘も「ウルトラマンだ!」と笑いながら読み聞かせを聞いてくれます。子どもの頃から好きだったヒーローを通じて名作童話に親しめるこの本。かつてウルトラマン好きだったお父さんと、今なおウルトラマン好きなお父さんにおすすめ。ぜひ手にとって、親子で読んでもらいたい!!

 

  


 

 

賢者の贈り物=コミュニケーション不足論に膝を打った

 後、この賢者の贈り物について僕の妹は「この夫婦って単なるコミュニケーション不足だね。実はあまり仲良くないんじゃないのかと思うよ」というド正論を語っており、その説得力ある意見に、思わず僕も納得させられました。夫婦の会話もっと増やそう。

 

そんなこんなで皆さんもいいクリスマスを。

 

 

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タロウを育てたウルトラの父ウルトラの母みたいな夫婦が僕の理想。

 

 

 

クリスマスの夜、プレゼントで裸エプロンをお願いした結果

こんにちは。

 世間はもうすぐクリスマスですけど皆さんのご予定はいかがでしょう。AM宅では妻と娘でAMの実家に行ってチキンでも食べてのんびりというプランがあるのでまぁそれなりにほのぼのなクリスマスを過ごせそうです。

 

 

クリスマスのプレゼントに欲しいもの

 話は変わるけど、クリスマスと聞いていつも思い出すのが大学時代の友人W君。その頃、W君にはもったいない程かわいい彼女がいました。その2人がイブを前に大喧嘩。喧嘩の原因はW君のとあるお願いでした。W君はイイ奴だけど大のアダルトビデオ愛好家。イブのプレゼントに何が欲しい?と聞いてきた彼女に対してW君は床に膝をつけ本物の裸エプロンを観たい!!とお願いしたそうな。

 

クリスマスのプレゼントに「裸エプロン

 いうまでもなく、そのお願いは彼女をひどく怒らせる羽目に。彼女は「バカじゃない!そんなこと、できるわけないじゃない!!」と絶叫。僕だってその彼女と同じ立場だったら同じく怒鳴りますよ。だけどW君は、その彼女に対して逆にこう怒鳴り返したそうなのです。

 

「できない、できないって・・・やりもしないのに諦めるな!」

 

 そういう問題じゃないんじゃないかなと思うんですよね。今でも。その後、W君はその喧嘩から破局へと突っ走るかと思われました。実際に僕もW君から直接の相談を受けるというなにかの罰ゲームっぽい役回りになったことでそうとうゲンナリさせられました。僕は「彼女と別れたくなかったら、そんなバカげたお願いした事をさっさと謝っちゃえ。コレに懲りたらもう二度とそんなバカなこというなよ」と、常識的な意見をW君に述べました。それにW君も応じるものだと思っていたのです。だけどもW君の馬鹿さは僕の想像をはるかに超えていました。結局、W君は彼女のアパートへ直接出向き、彼女に謝るどころか裸エプロンの持つエロスについて3時間ほど熱く語り続けたそうな。この話を本人から聞いて、僕は頭を抱えました。

 

人それぞれな愛のカタチ

 そして数日後。二人を待っていたのは破局ではなく「今年は心の準備ができないのでダメだけど・・・裸エプロンをいつかやってあげる」という彼女との約束でした。その彼女いわく「こんなに真剣になっている彼氏を見ていたらそれに応えたくなるのが彼女っていうもんだ」と思ったとのこと。男女の仲ってそういうものなんでしょうかね。たぶん違うだろうと思うけど。そのW君とも疎遠になってもう10年以上。あまりにもプライベートな事なので実際に裸エプロンを味わえたかどうかは聞いていませんけれど、この時期になるとついW君を思い出しては苦笑させられているきょうこの頃。

 

※僕の周りには変な人が多かったなと、改めて思う。実際、僕のいた学部ってなんかアーティスト気質で変な奴が多くおもしろかったんだよな。

 

 

2025年の大阪万博開催に映画の「クレヨンしんちゃん」を考える

こんにちは。

 先日のブログでもちょっぴり触れましたが、2025年の万博が大阪に決まりました。

 

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 その報道で賑わっていたこの間の日曜日、のんびり休日を過ごすため家族でDVDでも見て過ごそう!と思ってTSUTAYAで借りてきたのが映画の「クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲」。

 

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 単に周囲での評価が高いという理由だけで選んだんですけど、物語の舞台が「万博」だったとは本当に知らなくて驚きでした。借りてきたとはいえクレヨンしんちゃんには興味を持っていなかった僕は妻と娘の隣で寝そべり、ブログを書きながら横目で何度かチラ見。大まかに物語を理解できていりゃいいという感覚でいたけれど、ある場面をきっかけにこの映画をちゃんと見ておこうと思い直したのです。

 

クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲 - Wikipedia

 

 

 

 

2025年大阪万博の開催を予見するクレヨンしんちゃん

 この作品を簡単にまとめると「20世紀(昭和30年代)」をテーマにした万博を訪れた野原一家の大黒柱「野原ひろし」と妻の「野原みさえ」は万博主催者らが会場で意図的に漂わせていた「20世紀のノスタルジー」を喚起させる匂いに洗脳されて、心が子どもに戻ってしまう。その匂いは二人だけでなく周囲の大人にも影響を与えており、いつのまにか町全域の大人が子どもに戻っていた。息子のしんのすけ(しんちゃん)とその友だちたちは子どもになった大人を助けるため奮闘する。という物語です。僕がこの映画をしっかり見ておこう!と思ったのはひろしの洗脳を解くために、息子のしんのすけが「臭いひろしの靴の匂い」をかがせる場面。その足の臭さで洗脳が解けるというのはいかにもギャグに思えますが、ひろしは万博の洗脳が解けた瞬間に号泣します。

 

大阪万博の思い出に涙する野原ひろしの強さ

 子どもの頃、大阪万博で楽しみだった「月の石」の展示を見られなかったことで駄々をこねていた頃や親の漕いでいる自転車の荷台に乗って笑顔でいた時の思い出、初恋、上京、就職、失敗をやらかした苦い経験、妻みさえとの出会い、息子と娘の誕生…。

 

 ひろしの流した涙には多くの意味があるのでしょう。思い描いていた未来とのギャップに抱いている後悔、幼き日への郷愁、あの日々に戻りたいという願い、それがかなわぬものと知るからこその嘆き、洗脳が解けたことへの空しさやその幻想に浸って現実に背を向けていた自分自身の情けなさ、そして何より共に生きている家族への深い愛情。そんな複雑な感情を抱えながらも現在、自分の手にした「幸せ」もかけがえのない大事なものであることも分かっている。涙をボロボロ流しながら息子を抱くひろしはこの先も、今の「自分のやりたいこと」「自分のできること」「自分のやるべきこと」について悩み、その時々の選択に後悔や満足をしながらも生き、そんな自分の人生を「幸せ」と笑って胸を張るだろう。それは「諦め」でなく「強さ」だと僕は思うのです。同時にその涙と強さはどんな形であれ人生を愚直に生きている者だけが持てる特権であることも付け加えておきます。

 

※洗脳で号泣っていうとこんな記事も書いたっけ。

鴻上尚史さんのエッセイ「ドン・キホーテのピアス」で紹介された、あるエピソードを思い出しました。そのエピソードはオウム真理教サリン事件を通じて読者に「批判精神」がどういうプロセスで鈍っていくかを自らの体験談を交えて語ったものです。 鴻上さんは学生の頃、友人があるカルトにハマったのを放っておけなくなり、友人のカルト脱会をサポートした経験があるそうです。

 

 鴻上さんいわく「人間には誰でも批判精神があるけれど、誰かに自分の価値観を受け入れてもらえた!という体験を味わった途端に脆くなる。自分と自分を受け入れたものの間にある「ズレ」に対して批判精神も抗うけど、その葛藤に疲れ果てた時、人は「私をだましてよ」と自分を受け入れた人物や団体に「騙されること」を望むようになり、それらに依存度を深めて外と世界との拒絶を深めることになる。鴻上さんはその友人をカルトのコミュニティから引き剥がして、丁寧に「人生を理解できる都合のいい答えなどない。それは自分で考えて生きていかなきゃいけない」と説得を続け、結果的に友人は「真理なんていうものなどなく、自分で考えて物事の答えを見つけるしかない」ことを受け入れてカルトを脱会。人生や物の理を丸ごと理解できる解などない。その当たり前だけど残酷できびしい現実を認め、号泣する友人を目の当たりにして自らも涙をこぼしたそうな。

ヘイトスピーチとは何かを知る記事に日本のカルト化を考える - サブカル 語る。

 ノスタルジーもカルトもネトウヨも「自分が肯定されたい」という感情に訴える点で、同類。困ったことに現在の日本ではその三者が入り交じっている空気が漂っているのは何度でも指摘させていただく。

 

大阪万博の開催で夢見る「昭和の成功体験」

 大阪万博の開催決定!成功体験をもう一度?うん、いいんじゃないかな。東京でオリンピック?そりゃ結構だね。だけどいくら美化された昭和30年代をなぞっても、たぶんそこに未来はないよ。甘い思い出は現在に疲れた時、口にするからうまいんだよ。それを毎日食べていたらダメだよ。と僕はこのブログで語ります。昭和の成功体験にすがったり、ウィキペディアの記事を引用しまくって戦前や日本の古代はサイコー!と煽る本読んだりして涙を流すより、俺は野原ひろしのような強くて前向きな涙を流したいと思える大人であり続けたい。同時にこの、20年近く前に作られた映画のパロディーみたいなこの国の情けない有り様を批判する。