サブカル 語る。

サブカルチャーなどについての雑談

百田尚樹の日本国紀が売れている件について考える

こんにちは。

 

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 本日のテーマは小説家、百田尚樹の書いた日本国紀。

 

 

 

 

 間違えた問題を出題する大学(笑)

 本の購入者によるとこの本は歴史書を謳っているくせに引用元や出展本の明記がないそうで、その時点で話にならない代物ですが、このブログで本の内容について是非を書こうとは思いません。ただ著者自身がtwitter上で呟いた以下ツイートから、どんな本かは推して知るべしというところでしょう。

 

 

 思うことは多くあれど、とりあえず百田尚樹には「間違った試験問題を出す大学ってどこか具体的に言ってみろよ!」といいたくなります。本来、この本を批判するなら、本を買って読んでからがスジというやつですけれども、この人はことあるごとにマイノリティーな立場にいる人のデマやヘイトをまき散らしているヘイト野郎。そんな人の本を買って儲けさせるのは金をドブに捨てるような行いなのでブックオフで100円ワゴンセールの棚に溢れたらまぁ買ってやってもいいかな。

 

日本スゴイ!もオウムも同類

 さて本題。この本に限らず数年前から日本の歴史や文化を異常に持ち上げることで「日本スゴイ」を叫ぶ本やテレビ番組の多さに僕自身、ほとほとウンザリさせられています。そこにあるのは他国や他民族を貶めて、ことさら日本や日本人をべた褒めする徹底的な内輪ウケ。それを見るたびに、この国が80年代~90年代に日本を騒がせた「オウム」に近づいているように思えます。

 

 

"さてそれでは、そもそも僕が問題とするオウムの人々の歴史認識とはどのようなものなのか。それはひとつには「陰謀史観」として括りうる歴史観であり、もうひとつは「ハルマゲドン」の語に象徴される終末思想である。それらの歴史認識は無論、オウム独自のものではない。それぞれに相応の出目と歴史を持つものである。しかし80年代消費社会を経て、オウムの中に沈殿していったこれらの思考は、その時点でサブカルチャー化してしまっている。ここでサブカルチャー化というのはその事象が本来、出目として帰属していた大文字の歴史から切り離され、消費社会の中で情報として集積され、引用される事態をいう。 (中略) オウムの人々の歴史認識の危うさは、陰謀史観にせよ、終末思想にせよ、その前提となる大文字の歴史を決定的に欠いており、その空白をサブカルチャーが代行してしまっている点にある。

 大塚英志 戦後民主主義リハビリテーション角川書店)より

オウムの本質は「カルト」でなく「サブカル」であり、それは今この国を覆っている - サブカル 語る。

  

 このマンガ原作者兼評論家の大塚英志による指摘ほど、現在の日本を覆っている空気を言い表している指摘はないと僕は思います。オウムやその信者らは自らの信じる教理やイデオロギーの正当性を保つため社会から遠ざかって引き篭り、自分たちに都合のいい情報だけを集めてつなぎあわせた不格好なパッチワークのような歴史や現実への認識を作り上げていきました。その情報の破片となったものはオカルト系雑誌にありがちな陰謀論やアニメの設定、各宗教の価値観など、単品ではなんのつながりも持たない単なる情報。それらを繋ぎ合わせて「それっぽい」ものを作りあげて、それを無批判に受け入れた。そうすることで彼らは「オウム」という物語を手に入れて、その中で生きていこうと本気で考えていたのです。僕にいわせりゃ、この日本国紀にせよ日本スゴイ!のテレビ番組にせよ自分たちにとって心地よくて都合のいい、断片的でなんの繋がりもない情報=サブカルを集めて悦に浸りながら「美しい日本!」という幻想の中に生きている人たちと、先述したオウム信者は同類でしかありません。

 

自信も元気もなくていい

 そんな日本全国でオウム化の進んだ背景にはおそらく90年代のバブル経済崩壊に伴う「経済大国日本の失墜」というのもあったのでしょう。子どもだった僕を含めみんなが日本=金持ちという幻想に浸り、その中で自分も偉くなった錯覚を味わえていた時代が景気の悪化によって「カン違い」だったという現実を突き付けられた90年代。その後半になって「戦前の日本や嘗てのこの国は凄かった」と声高に吠えたり、他国を必要以上に貶めるような本の出版が目立つようになり、2000年代中盤以降~現在には映画「三丁目の夕日」みたいな昭和30年代への不毛なフィーチャーとそれをなぞる様に計画された2020年の東京オリンピックに2025年の大阪万国博の決定。これらの古代から現在までの歴史の自画自賛追体験は「現代から逃げて、引きこもりたい」という意識の表れなんだろうなと僕は思っています。つまり百田尚樹も、その読者も日本スゴイ!の番組の作り手も自信を持てず元気もないこの時代そのものが大っキライなんですよたぶん。

 だけど、それって甘え以外の何物でもないよね。自信なんてなくたっていい。元気もいらない。あなたの人生は、そんなサブカルで作られたうさん臭い情報で満たされる程度の軽いものなのか?というだけ。本当にプライドがあるなら現実の抱えている諸問題をじっくりと見つめ、少しでも改善できるよう取り組め。そのなかでやるべきこと、やれることを自分の頭の中でで考えながら行動を起こせというだけです。「古き良き日本」という概念に浸って現実から逃げるなと周囲や自分に言い聞かせ僕は今日も仕事に行くのでした。

 

 


 

クリィミーマミたち「魔法少女」はプリキュアの原点

こんにちは。

 

 朝遅く起きて何気なくツイッターを眺めているとこんな情報が流れていました。

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画像は以下のツイートより。

 

 妹が子どもの頃に大好きだったアニメで、僕もその隣でなんとなく見ていたのを、今でも覚えています。さて、本題。この「魔法の天使 クリィミーマミ 」は魔法の力を得た女の子が現実世界で活躍する、いわゆる「魔女っ子アニメ」に属する作品ですけど、このジャンルこそ現在の「プリキュア」「セーラームーン」の原点だと僕は考えております。

 

 

 

日本における魔法少女の系譜 

 まずは魔法少女アニメ、マンガのおさらい。日本で「魔法少女」をテーマとするアニメやマンガ作品は横山光輝の 「魔法使いサリー」がこの分野の最初であり、この系統は後に「魔女っ子メグちゃん」や「魔女っ子チックル」「魔法少女ララベル」等の系譜で受け継がれていきます。彼女たちは自らの万能な魔法を使って、周囲のトラブルを解決したりするけど、80年代以降にこの万能な魔法を使う女の子は少なくなり、代わりに台頭してきたのは 「魔法のプリンセスミンキーモモ」、上述の「クリィミーマミ」「ペルシャ」「マジカルエミ」などの変身アイテムを使うことで自分が大人の専門職になり、自分自身の職業スキルでトラブル解決にあたるタイプの主人公たちでした。例えば周囲にけが人がいたら看護師に変身して人助けをしたり、自宅の近くで喧嘩があったら女性警官に変身してトラブルの解決を図ったりなど。(もっとも、クリィミーマミはアイドルでマジカルエミはマジシャンと、職業を固定されているけど)

 

 だけどこれって魔法少女とはいわないんじゃないか?サリーちゃんみたいな万能魔法を使ったほうが合理的だし、百歩譲って変身だったらウルトラマン仮面ライダーみたいな万能の力を持つヒロインになるべきだろう。 長年こういうことをフェミニズムの視点で考えてきたけど、ふとこの間気づきました。これらのアニメが放映されていた「80年代」の日本はバブルによる好景気。もちろん格差はあっただろうけど男女ともに相応のお金を手にできて、自由に使える環境が整っていた時代でもありました。働くことにより女性もそれなりのお金を手にして自由に生きる=大人になって自立をする。つまりこの時代の女の子にとって万能の力を得るということは自立した大人になること。だからこそいきなり大人になれることが、物語の主人公たちにとって最高の魔法だったのだろうと思うのです。

 

女の子にとっての変身とは「大人になること」 

 プリキュアセーラームーンたちは地球を狙う悪と戦うヒロインでありながら、変身スタイルはクリィミーマミ達と同じく着せ替えです。ここにプリキュアセーラームーンらが80年代魔法少女の正当な後継者である根拠を見い出すことができます。歴代プリキュアの変身アイテムには女性の化粧道具であるコンパクトやパフュームを模したものが多く、それらを使って着替えや化粧を施す。セーラームーンたちは変身の際に「変身」じゃなく明確に「メイクアップ(化粧)!」と叫んで変身する。これは女の子にとって「闘いを挑む(問題の解決にあたる)」ための手段は「自分にメイクをして大人になること」だということを暗喩していると解釈もできます。ポイントは姿格好の変身によって少女は大人としての自分を獲得して、物語で困難やトラブルに挑むという点にあります。

 

男の子にとっての変身とは「超人になること」

 では男の子はどうでしょう?男の子の場合の変身は「人知を超えた者との融合による超人への変化」です。ウルトラマンと融合したハヤタや仮面ライダーに改造された本郷猛のように。男の子にとって変身は「超自然的な力と自らを融合させる事で超人となる」ことを意味します。そのことについて具体的に言及したのは漫画家の石ノ森章太郎先生です。石ノ森先生は仮面ライダーについてこう述べています。

 

「『ショッカー』とは、企んだ技術文明の象徴である。その技術の付加によって誕生するのが「仮面ライダー」だ。後には自然の守護神(平和の戦士)になるが、言うなれば“技術文明の申し子”あるいは鬼っ子のモンスターである。したがって、こうなる。自然(バッタによる象徴)が直接人類(文明の象徴)に反旗を翻すのではなく「仮面ライダー」(バッタと人類のハーフ)、即ち自然と人間が協力して“悪”に立ち向う……。」

(以下ブログより)


初代の石ノ森版メモ - 日記

 

安易な「超人」にすがらない強さ 

 本郷が改造手術で「バッタ」の超自然的な力を得て誕生した仮面ライダー。ハヤタが「遠い星の宇宙人」との融合を果たして超人となったのがウルトラマン。このヒーローの誕生の経緯は異なるけれど、両者は人知を越えた力を持つ「超人」という意味では全く同じです。自らの持つ身体性に目を背け、超人となることを求める男の子のマッチョな願望と女性としての自分を強く自覚したうえで、成熟を望むフェミニズムナルシシズム交じりの女の子の願望。両者についての是非を議論するつもりもありませんけど、女の子の考えている「変身」の方が安易な超人願望に縋らず、あくまでも自分の成長によって現実と向き合っていくという点で前向きであり、現実主義だといえるでしょう。

 

 この自分に向き合わない「人知を超えたモノ」との融合願望が、ヘンに国の歴史や伝統と繋がったりするとそれはナショナリズムや対外排外主義に突っ走りかねなくてアブない。非常にアブない。っていうかもうその傾向が強くなっており、頭を抱えています。サブカルとオタクとナショナリズムの親和性っていうのはすごいんだよマジで。

 

 

円満な夫婦よりも以心伝心だった、ある定食屋と常連について

こんにちは。本日は11月22日で「いい夫婦の日」。っていうことでこの記事から。

blog.asimino.com

 

 

 

夫婦の会話は交渉である

 どちらの味方をするつもりもありませんが、基本は夫婦といえども他人。互いに見ているものや聞いているものが同じでも、各々が子供のころから生活を通じて培ってきた価値観はまったくの別物であって、そのフィルターを通して生きているかぎり、両者の認識や意識には、大なり小なりの誤差があるもんです。だからこそ、その差分をできるだけ縮めるために会話ですり合わせしなきゃいけないなと思うんだけど、話せば話すほどその差がでかくなることも時にはあったりもするもんで。まぁ人間関係っていうのは難しい。両者の意識の完全合致を目指すよりは夫婦も親子も会話を「交渉」であると考えて、お互いの要求が異なった時には両者お互い60%の満足度を得られるポイントで妥協する。または交渉で6:4或いは7:3の割合で自分の要求を多く通せたら、次回は4:6或いは3:7で相手に負けてやろうと考える。そうやって帳尻を合わせていくのが最もスマートではないだろうかと思います。ぶっちゃけていわせてもらうと、夫婦っていうのはどこまでいっても他人同士。おまけに毎日顔を合わさざるを得ない他人なので細かい意識合わせは絶対欠かせないのです。

 

irorio.jp

 

ddnavi.com

 

夫婦よりもツーカーな他人 

 さて本題。長い間共に生活をしている夫婦、家族でも意思疎通っていうのはとても難しい。だけど、時にはその意思疎通を赤の他人同士がやってのけることもあります。今から10年ほど前でしたでしょうか。東京の多摩地域で仕事をしていた時のことです。昼食を食べるため、職場近くの小さな食堂で同僚と昼飯を食っていた時のこと。店にお婆さんがふらっとやってきました。店に入ると同時に、そのお婆さんは「とんかつある?」と質問をしながら着席。その慣れている様子からしてたぶん、常連さんだったんでしょうか?店のおやじはろくにお婆さんを観もせず「おぅ、今揚げたてあるよ!」と威勢よく応答。それを聞いたお婆さんは「じゃ、カレーね」と答えたのでした。それを聞いた同僚はすげー勢いで口に含んでいた昼食を吹き、僕もギリギリで笑いを堪えました。僕らは二人で「何?どういうこと?どういう流れでそこでカレーになる?」「とんかつ食いたいっていう話だったんじゃねーの?」とヒソヒソ声で話しましたが、店のおやじは別に気にせずに調理を続けているだけ。そんでもって、そのお婆さんのテーブルに運ばれたのは「カツカレー」。僕らは「おやじ、勝手にメニューをフュージョンさせやがった!」と、更に込み上げる笑いに耐えて経緯を見守ることに。お婆さんはどんな反応をみせるのか?困惑か?激怒か?お婆さんは何事もなく普通に「いただきます」と、満足そうに食べ始めたのでした。

 

関係性に甘えるな

 そのお婆さんは認知症で、自分が頼んでいたメニューを忘れていたのか?いや。たぶん店のおやじは長年のつきあいからお客のデフォルトメニューや注文の傾向、注文の仕方などをすべて把握しており、それぞれに適したメニューを提供できる関係性を作っていったのでしょう。世間にはそんな奇跡みたいなやりとりもあるけれども夫婦だから、親子だからっていう関係性に甘えてお互いの関係性を育てていく努力を怠ったら駄目だよ!という教訓めいたお話でした!!

 

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歴代プリキュアの中で「キュアエール」のみが持つ強さ

こんにちは。

 毎週家族揃って観ている「HUGっと!プリキュア」。プリキュア15周年と相まって、公開前から話題性の高かった映画「 HUGっと!プリキュアふたりはプリキュア オールスターズ」を昨日、娘と妻とで観てきました。

 

 

歴代プリキュアの背負ってきたフェミニズム

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©2018 映画HUGっと!プリキュア製作委員会
©ABC-A・東映アニメーション

http://www.precure-movie.com

 作品の感想についてはネタバレを書いて、人の楽しみを奪うのも野暮なので、本日のブログではこの作品をずっと見続けているお父さんファンという立場から考えた「HUGっと!プリキュア論」を書いてみたく思います。

 

女の子も暴れたい!から始まったプリキュア 

 さて本題。このプリキュアという作品は最初の「ふたりはプリキュア」以来、ずっとシリーズのプロデューサーを務めている「鷲尾 天(わしお たかし)」さんによると「女の子も暴れたい」という発案から生まれたものだそうな。

 

news.livedoor.com

以下、記事引用

プロデューサーが交代する時期に、これまでと違うテイストのアニメをできないかというので、私が出した企画がプリキュアでした。企画書に「女の子だって暴れたい」という一文を入れました。最初の発想は、自分が子どもの頃に好きだったキカイダーハカイダーが協力して戦ったらカッコいいだろうな、その女の子版をやってみたいな、というあたりだったんです。

ーバディもので、アクションをやりたかったのですね。

あの頃は、女の子向けでアクションはほとんどなかった。でもやっぱり、カッコいいとか、憧れがあるだろうなって。女の子も仮面ライダーや戦隊ヒーローを観ているようだし、やってみてもいいんじゃないかと。男の子だから、女の子だから、という垣根をなくしたいというのは、当時『ドラゴンボールZ』や『金田一少年の事件簿』などを担当していた西尾(大介)監督に声をかけたときに、最初にお互いに一致した部分でもあったんですよ。

  

 そしてそのアイディアから企画を発案させた鷲尾プロデューサーは、作品のシリーズ監督との打ち合わせで「ジェンダーロール」という考え方に触れます。

 

ー第1作『ふたりはプリキュア』のときは、西尾大介シリーズディレクターと二人三脚で、そもそもプリキュアをどんな内容にしていくか、議論を重ねていったんですね。 

 ジェンダーの概念も、私は西尾さんから聞いたくらいだったんです。西尾さんはずっとそういうことを考えていた方で、彼の説明を聞いて落とし込んでいった部分もたくさんありました。

ー西尾さんの説明とは?

 たとえば、「王子様はやめようね」と。「誰かが助けに来てくれる、それが男性である」というストーリーはやめようと話していたんです。男性のほうが上位概念だから、そこに助けを求めるものだというイメージはつけたくない。そうじゃなくて、自分たちの力できちんと解決したほうがカッコいいよ、って。プリキュアが成立するために必要なことは、自分の足で立っていること。女の子が凛々しくあることが、最初の番組コンセプトでした。

 

 こんなふうにプリキュアとは「女の子は守られるものである」というジェンダーロールを乗り越え、自分の足で歩ける女の子の活躍を描こうというフェミニズム的な発想から生まれた作品だったのです。

 

 ただ今回の「HUGっと!プリキュア」の製作が発表された時、テーマは「子育て」という情報から僕は最初この作品を軽視していました。

この「HUGっと!プリキュア」のメインテーマとは「子どもを守るお母さん」。物語をカンタンに説明すると大人の女性に憧れる中学2年生の転校生少女「野乃はな」がある日、いきなり空から降ってきた赤ちゃん「はぐたん」と、世話係のハムスターみたいな妖精「ハリー」に遭遇。その「はぐたん」の持つ不思議なアイテムを狙う組織と戦うために、はなはプリキュアに変身できる力を得る。はなは組織の放つ怪物と戦いながら「はぐたん」の子育てにも励むというものになるそうな。

HUGっと!プリキュア以前にあった、嘗ての子育てアニメを振り返る - サブカル 語る。

mantan-web.jp

 

 子どもを守るお母さんがテーマって、ずいぶん最初のテーマとかけ離れたな、というのが最初の印象。そして、今作プリキュアで中心的な役を担う「野乃はな」の夢が「イケてるお姉さん」になることだというのも抽象的でステレオタイプなイメージだったため「コレは駄作だ」と思っていました。ただ、娘は小さいのでそんなことを考えないだろうということを思いながらも「まぁ、とりあえずは作品を見るか」と第一話を視聴。その時は特に何も感じませんでしたが、その数ヶ月後。DVDで録画していた一話を娘が見ていた時、初めてのプリキュア変身場面で野乃はなが発したセリフの持つ「力強さ」に気づいたのです。

 

歴代プリキュア変身の中で、初めて叫んだ「自我」 

 プリキュアのシリーズは原則的に「異世界から妖精とその妖精を追って怪物が人間のいる世界にやってくる。その騒ぎに巻き込まれた女の子が怪物の手で壊される街、怪物に襲われる妖精や友人、または奪われようとする自分の大切なもの(友だちとの思い出の品など)のピンチを見過ごせず、妖精から力をもらってプリキュアに変身!っていう物語構成になっています。このHUGっと!プリキュアでも歴代のフォーマットを踏襲して、未来からやってきた赤ちゃん「はぐたん」を狙って人間世界で暴れる怪物「オシマイダー」に立ち向かうためプリキュアの変身能力を得るのですがその時、はなは怪物に向かってこう叫びます。

 

「ここで逃げたらカッコ悪い!そんなの、私がなりたい野乃はなじゃない!」 

 

 つまり、はなは怪物から街やはぐたんを守るためだけではなくこうありたいと考えている自分。言い換えると自分自身の生き方、在り方という「自我」そのものを守るため立ち上がるのです。ここまで明確に自我を守るため戦うプリキュアって、ひょっとしたらこの作品が最初じゃないか?と思った僕は初代プリキュアから、HUGっと!プリキュアまで歴代プリキュアの第1話(とくに最初の変身)を全部確認してみたところ「自分の在り方」を守るため戦うことをこんなに明確に言及したプリキュアは、この野乃はなが変身する「キュアエール」だけでした。

※諦めない自分を守る!プリンセスになる夢を守る!という類似のセリフを叫ぶ作品もあるけど、はなと比べると 「自我」が弱い印象です。

 

 そして野乃はなはプリキュアになった後も自分を含め、他人の生き方を決める「自我」について並々ならぬこだわりを見せます。ではその野乃はなのこうありたいと思う自分(自我)=イケてるお姉さん像とはいったい何なのか?

www.huffingtonpost.jp

 

 

"「はぐプリ」は、中学生の女の子・野乃はな達が、不思議な赤ちゃん「はぐたん」を守るため、そして世界の未来を守るために、伝説の戦士「プリキュア」に変身して悪に立ち向かっていくストーリーだ。そんな「はぐプリ」の19話(6月10日放送)でのキャラクターの発言が、Twitter上で「ジェンダーに切り込んでいる」と反響を呼んでいる。(中略) 19話では、主人公・野乃はなの妹の同級生・愛崎えみるが、新進気鋭のデザイナー吉見リタ氏からギターの腕を買われてファッションショー出演のオファーを受けるところから始まる。ショーのテーマは「女の子もヒーローになれる!」だ。

 えみるは、ヒーローに憧れる、エレキギターが好きな女の子。だが、いまいち自分に自信が持てず、心配性も相まってオファーを受けることを渋っていた。ギターも兄・正人に「女の子らしくないし、家風に合わない」と反対されている。そして正人は、同じくファッションショーでモデルを務める同級生の男子、若宮アンリにも、敵意を向けていた。アニメの中ではネクタイをリボンのように結んでいたアンリに向かって「女子みたいだよ、君の格好。男子の中で浮いているのが心配なんだ」とからかい、ショーのテーマに反発して、えみるに「自分の考える理想の女子像」を押し付ける"

5人戦隊モノの特撮で、今までレッドを女性が務めていないのがこの国の限界 - サブカル 語る。

  この時には自分の勝手な価値観を妹や同級生に押し付ける男子に「誰にもヒーローはいる!人の心を縛るな!」とはなは怒鳴りつけます。さらにはプリキュア打倒失敗から「俺はここぞという時に頑張れない!何の才能もない!」と、自分の情けなさや弱さを嘆き、プリキュアに怯える敵にもとどめを刺さず「違う。コレは私のなりたいプリキュアじゃない!」と、最初の時のように「なりたい自分」についてのこだわりを叫び、「私にも頑張れない時がある。だけどあなたにも未来はある」と、敵の弱さに寄り添い優しく声をかけます。

 

 このことから野乃はなのなりたいイケてるお姉さんというのは「他人の痛みに寄り添える感受性や優しさと、時には自分や他人の人生、生き方を否定する圧力に堂々と立ち向かう強さを持った女性」となり、その逆にいる大人というのはカッコ悪く尊敬にも値しない人物となります。

 

プリキュアの目指す、フェミニズムの先

 女の子も男の子と同じように戦いたいとの発想からスタートしたプリキュアは15年を経て、女の子が凛々しく自分で立つだけではなく「自分と他人の生き方」を尊重して、男女の違いや敵味方を越えて共に未来を歩もう!と訴える強さを持つキュアエール誕生に繋がったといえるのではないか。物語もそろそろ佳境に入るころですが、この「HUGっと!プリキュア」以降の作品がこの先どんな進化を遂げるかに興味を持っている反面、キュアエールたちにも強く愛着を抱く僕はもう少し彼女たちの活躍を見ていたいという二律背反に悩む今日、この頃です。いずれにしても、女の子対象のバトルものアニメから性別、種族を越える「人生そのものの応援歌」に成長を遂げたという点において、このHUGっと!プリキュアは歴代の中でも高く評価されるべき。

 

補足:記事を読んでプリキュアに興味を持った人は以下のサイト参照。簡単に物語のポイント押さえられるだけでなく、おさらいもできるので便利!

 

www.animatetimes.com

 

 

 

arrow1953.hatenablog.com

 

  この間、驚きの展開でエピローグとなった「HUGっと!プリキュア」まとめ感想。

 

 


 

ゆるキャラグランプリとそのブームの後に待つものについて

こんにちは。

 

 

 

ゆるキャラグランプリに大注目!もう飽きた?

 毎年11月に行われる「ゆるキャラグランプリ」。今年はどのゆるキャラがグランプリの座を射止めるか注目だ!っていう人、皆さんの周りにどれだけいます?

 

sp.yurugp.jp

 

 リンク先のサイトにいるゆるキャラ。皆さんどれだけ知ってます?そうはいっても数も多いから全キャラを列挙しろとはいいませんけど、今年のグランプリ投票ランキングで発表された上位3キャラの名称とその地域を言える人ってどれ程いるのでしょう。

 

ゆるキャラグランプリとそのブームの後に残るもの

 以前、僕は広島県ゆるキャラであり「ゆるキャラ」という概念そのもののルーツ「ブンカッキー」の紹介から、ゆるキャラについて以下のとおり書きました。

 

 2014年度のゆるキャラグランプリ オフィシャルウェブサイトを調べると 各キャラのエントリー数・投票ID登録数共に過去最高を記録したとのこと。相変わらず、ゆるキャラ達は高い注目度と人気を誇っています。誰だっておらが町代表の人物やモノが世間で注目を集めりゃ嬉しくなりますが、だからといってグランプリを獲得したゆるキャラが地域復興につながるかというと、必ずしもそうともいえないと思います。 確かに、グランプリ受賞のゆるキャラがいる地域にはそれを目当てに観光客もある見込めるでしょうし、地域そのものの知名度も高まります。だけど、それは所詮一過性のものであって長くは続きません。ゆるキャラはフォロワーの氾濫によりブームが生じた結果、現在は日本各地で生産され続けていますが、どのキャラも「消費期限」後は何も残ることのない「消耗品」となっているからです。(中略)

 

 ゆるキャラで町おこしという甘い考えはたぶんもう通用しない。 くまモン、さのまるみたいなキャラがいたら、それを目当てに来る観光客も増える。ふなっしーみたいなキャラがいたら市民税の増収も見込める。だけどもそれらはキャラの人気の終焉で打ち止めとなり、後に続きません。ただ外部から人と金を集めるだけではなく、地方はこの先10年、20年後もその地域があり続けるためのアイディアを本気になって考えなきゃいけない。人を集めてお金を落としてもらうことも大事ですが、現在100人程度の人口を、どうやって10年後に110人に増やすべきかを考えた行動こそ、ほんとうの地域振興じゃないのでしょうか。 ゆるキャラによる町おこしのブームは本質的な地方の「過疎」という問題から、当事者達の目を背けさせ続ける結果にもなりかねない。この事は認識しておいたほうがいいと僕は考えています。

ゆるキャラの歴史と人気のその後を考える -ブンカッキーからすべてはじまった- - サブカル 語る。

  このブログ記事を書いた2014年には、まだそれなりの知名度を持っているキャラもクローズアップされていましたが、最近ではテレビなどのメディアでも彼らの姿を見る機会はめっきり減りました。2013年のグランプリに輝いた「さのまる」の栃木県佐野市の人口将来推計人口(2013年)を見ると、さのまるのグランプリ受賞後も減少傾向から上方修正されておらず、その他のグランプリゆるキャラを輩出した都道府県でも人口は軒並み減少傾向。結局の所、ゆるキャラグランプリの称号は「地域振興」には何の寄与もしていなかったことを思わせます。

 

佐野市ホームページ [統計情報-「日本の地域別将来推計人口(平成25年3月推計)」について]

  

 行政もおそらくだけど「おらが町でゆるキャラを作り、グランプリを獲ったとしても何も変わらない」と分かっているのではないか。それでも、まだこのイベントが続いているのはゆるキャラづくりが行政の「やってる感」を満たすのに好都合だからだろうと僕は思うのです。

 

 ゆるキャラの企画立案にキャラコンセプトの作成、デザインの発注や募集、紆余曲折を経て作ったキャラの知名度を上げるためのドさ周りやプロモーション、そんでもってゆるキャラグランプリ応募。そこまでのプロセスにかかる手間ひまはおそらく相当なものでしょう。そしてグランプリの栄誉に輝けばその努力は報われたと大騒ぎ。なにも受賞できなくっても、「俺たちは頑張った!やるだけのことをやったんだ」という自画自賛の結果だけは残る。それを欲してのゆるキャラグランプリ参加にしか思えません。

 

www.nhk.or.jp

 

ゆるキャラで地域振興?ムリムリ!

 だけど。現実はそんなに甘くはない。ゆるキャラグランプリ受賞の町だって人口は減少傾向。そもそもゆるキャラそのものも大勢に飽きられてきており、今さら話題にもならない。それでも行政は目先の「やってる感」を求め、ゆるキャラ作り邁進。結果、その間に日本各地の人口現象は更に進んでいく。それがこの現在のゆるキャラを巡る情勢です。僕も町おこしの専門家ではないので、具体的な地域振興策を出してみろ!といわれても困りますけど、ゆるキャラが地域振興の打開策ではないということは言えます。人口減に対する危機意識を持っているなら、各自治体はゆるキャラグランプリ参加をきっぱりやめるべき。テレビ特集で取り上げられているようにグランプリの受賞のため、組織票なんてやっているヒマがあったらその分「現在100人程度の人口を、どうやって10年後に110人に増やすのか」というテーマに知恵を絞るべきです。

 

 人口の減少によって活気もなく、周辺にはブームの後で人々に忘れられた多くのゆるキャラグッズが街角のゴミ箱に捨てられているような寒々とした光景。それは単なる絵空事ではなく、目前に迫っていることを僕らも本気で考えなきゃだめ。行政の「やってる感」に付き合っているヒマはありません。そもそも断片的情報を繋ぎ合わせて作り、ある時期が来たら使い捨てされて、後には何も残らないサブカルそのものの性質を持つゆるキャラの地域振興なんて、アホかと思う。

 

 

arrow1953.hatenablog.com

 

 


 

GRIDMAN(グリッドマン)の抱き枕はアニメや女性をナメている

こんにちは。

 10月からON AIR中のアニメ「GRIDMAN」。およそ30年前のマニアックな特撮作品リメイクということもあって放映の前から話題になっており、実写版のグリッドマンをこよなく愛する自分にとっても期待の高かった作品です。

gridman.net

 

 

arrow1953.hatenablog.com

 

 

 現在まで欠かさず観ていますが、評価は「面白いけどこれはグリッドマンではない。『GRIDMAN≠グリッドマン』」という印象。まぁ作品の評価はいずれゆっくり語らせて貰いましょうか。

 本日の話題はこちら。

 

 

 

gridman.net

 

 作品の中で人気を集める美少女ヒロイン二人の抱き枕が公式アイテムとして販売。

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円谷プロ 

Ⓒ2018 TRIGGER・雨宮哲「GRIDMAN」製作委員会

 

GRIDMAN製作委員会はアニメをナメている 

 このアイテムの是非を問う意見がまたネット上を賑わせています。以前、キズナアイというVtuberを巡る論争についての記事を書いた時も述べているのですが僕は過剰なフェミニズムに与するつもりはありません。何度もこのブログで語っているけれど、人間でない記号の集合体であるキャラクターに抱く性欲というものはありえるし、それは否定できるものではない。だから、せめてゾーニングきっちりやれよ。その性欲はプライベートな空間だけで楽しむだけにして「公的空間=表」には出すなよというだけです。なのでこの抱き枕についても抗議して販売中止に追い込もうとも思わない。ただアニメ制作経験者から言わせて貰うと「この番組の製作委員会は、アニメをナメているな」という失望があるだけです。

 

抱き枕に萌え系アニメ絵が多い理由 

 ブログ記事を読んでいる読者さんは試しに「抱き枕」という単語でgoogle画像検索をかけてみて下さい。そこには抱き枕関連画像がたくさん表示されますがおそらく90%がアニメやマンガの若い女性キャラの半裸やヌードなどがデザインされているモノだと思います。

 GRIDMANの女性キャラ抱き枕やgoogleで検索した画像を見つめていてふと「殆どの抱き枕デザインが萌え系アニメ絵画像なのはどうしてなのか」。という疑問が湧き起こりました。コレ、どうしてか皆さんわかります?おそらくだけどそれはアニメやマンガの持つ「記号性」にあります。萌えイラストの記号性についてはプロのイラストレーターさんがご自身のブログでこんなふうに定義されていたので引用させていただきます。

 

①髪の毛や瞳を書き込み、キラキラ、サラサラさせて質感を出す。
②身体の立体感と質感を表現。
③ふわっとしたスカートの動きや腰のひねりなどで躍動感を持たせる。
目的:キャラクターの魅力や個性をアピール

キズナアイの問題については「萌えという2次元ラブドールは相応しくない」というだけ。 - サブカル 語る。

 

参照ブログ 

萌え絵と汎用的なイラストって何が違うの? 広告系イラストレーターの私が考える「役割」の違い – かわいいイラスト制作所 イラストレーターよぴんこ

 

 ①~③を基本路線としてすべすべな肌や胸、お尻などを強調するようなポーズを付け加えていくことで「エロさを伴う萌え系イラスト」は作られます。それは実際の女性が移っているヌードグラビアと比べればいかにも「マンガ」で現実的なものじゃありません。ですが女性の胸、お尻や太腿などの部位がデフォルメされたそれらには個人差もあるけど、性欲に訴えるものがあることを認めなくてはなりません。そしてその女性の部位を強調したキャラは「主体性」を持っていません。服を脱がされても、胸やお尻、肌が露になっていても「イヤだ」とも「恥ずかしい」とも語らない。そのためキャラクターとユーザーには、服を脱がされる側と脱がす側の関係性が成立しません。だからこそ男はそのキャラへの疑似的な凌辱に躊躇いや後ろめたさを持たなくて済むのです。GRIDMANと同じ円谷プロ製作の「ウルトラマンジード」のヒロインキャラ「ライハ」や、放映中の「ウルトラマンルーブ」のヒロインキャラ「アサヒ」の抱き枕がないのは上記の理由からです。実写とアニメ、どちらも架空の物語ですが実写は演じる女優さんの主体性を切り離せない。仮に両者の実写抱き枕があってもユーザーはその写真の目線に耐えられないでしょう。だったらライハとアサヒをアニメ絵キャラ化してみたらどうか?おそらくそれでもユーザーはそのイラストに実写の二人の面影を見るため、商品として成り立たないでしょう。もっともそんな企画があったら女優さんの事務所が猛抗議するだろうけど。つまり、萌え系アニメ絵の抱き枕は作り手も買い手も「主体性も身体性もないキャラクターが対象だから好き勝手な欲望を発露できる」内弁慶なニーズの産物なのです。

 

エロをエロと認めない二枚舌はズルい

 GRIDMANは深夜アニメなので子どもが観ない。そのためゾーニングできているという言い分もありうるのですが、ヒロインのセミヌードグッズを売るなら最初から作品を18禁にしておけよ!と僕はいいたい。ちなみに90年代の18禁エロゲー専門メーカーに「同級生」「下級生」など多数の作品で人気を博したエルフ(現在は倒産)という会社があり、そこはキャラのオナホールを作って売るなど、手がけた作品が18禁のエロだったことに自覚的でした(このメーカーはエロゲーのヒロインが描かれた抱き枕も売っていました。つまり抱き枕っていうのは本来そういうものなんだよ)。GRIDMAN製作委員会も大きなお友達に金を使わせたいんだったらオリエント工業とコラボでヒロインのラブドールを作ったらいい。たぶんそこそこ売れるでしょう。

 

arrow1953.hatenablog.com

 

 だけど製作委員会はそれをやらない。エロで金を稼ぐという行為にそこまで徹底できない。「GRIDMANはエロ目的の作品ではなく、アニメだから」という建前があるからです。エロ作品ではないけどヒロインの服は脱がせて小銭は稼ぎたい。アニメだったらそれは許されるんだ。という二枚舌というか、グレーゾーンでお金を稼ぎたがるミエミエのアコギな態度は、アニメだろうが実写だろうがそこに意味を込めて物語ろうとする人たちの努力に対する「冒涜」に他なりません。だからこそ僕は抱き枕を作品公式アイテムとして売ろうとしているGRIDMAN製作委員会が「アニメをナメている!」と訴えているのです。

 


 

 

※もっともGRIDMAN製作委員会だけじゃなく、アニメとエロのグレーゾーンでお金を稼ごうっていう態度については90年代後半以降のアニメ業界全体が抱えているでかい課題ではあるんだけど。心あるアニメ制作者らがどんだけその環境を憂いているかを業界も考えてもらいたい。何度もいうけどこんなの「物語の敗北」であり、つきつめていくと自分たちの仕事の全否定になるっていうことを分かっている人たちがどれだけいるだろうかと強く思う。また、GRIDMANのファンだけでなく自称オタクやアニメ愛好家もその辺について少しは真面目に考えろ。抱き枕を買うなとは言わない。欲しいんだったら買ったらいい。買って主体性も身体性もない二次元ダッチワイフとなったキャラを相手にハァハァいってろ。だけど、それらはユーザーの内弁慶な性欲の産物と自覚しろ。まかり間違ってもそれを「表現の自由」という言葉で逃げるな。

追記:ファンがツイッターで「ヒロインの水着!」と盛り上がっている11/4のエピソードを見た。抱き枕と本編の水着のデザインがまったく同じだったため、GRIDMANの制作スタッフはアニメ本編を抱き枕のプロモーションに利用したんじゃないか?という印象を持っている。考えすぎだろうと思うんだけども。

 

ハロウィンの騒動に見る人々の集団心理について

こんにちは。

 本日は日本国内でもメジャーなイベントとして根付いてきた「ハロウィン」。

 

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ハロウィン - Wikipedia

 

 みんなで仮想して大騒ぎ!で日ごろの鬱憤ばらしも結構ですけど、先日渋谷でこのような事件も起こったこともあり、この行事についてあまり手放しで歓迎できない人も多いんではないかと思います。

 

wezz-y.com

 

 渋谷での集団バカ騒ぎトラブルについてはサッカーW杯の日本代表勝利などの時にも見られますが代表勝利とハロウィン、どちらのケースにも「そういう騒ぎが起こった時に制御が効かなくなるのはなぜなのだろうか?」を考えていくと、そこにはやはりこの国の国民性が関わっているような気がしてなりません。

 

 

僕らのモラルは「世間」が作っている

 僕らは日常生活で何らかの行動を起こしたり、発言したりする時などにそれらが適切かを自らの判断基準に照らし合わせ、その結果の是非を考えたうえでアクションを起こします。その基準を僕らは「モラル」と呼びます。そのモラルの原点となるものとは何か?劇作家の鴻上尚史さんは「世間」だとしています。20年ほど前に書かれたエッセイ「ドン・キホーテのピアス」で鴻上さんは「西洋は生まれた時に神様とね一対一の契約を行う。その契約に基づいて西洋の人は物事の是非を神様に問い、その対話で「個」の在り方を自問自答する。それに対して日本は物事の是非を共に暮らす集団「世間」に問い、その集団におけるルール内での「個」を考える。その証拠が「世間様」という言い回しであり、その世間様という考えが常にご近所や、世間の目などを気にして行動しなくてはいけないということの窮屈さに繋がっている。とかいうようなことを語っていました(手元に原本がないため、記憶の限り)。だからこそ僕らは学校や職場だけではなく、今、自分が立っている場所で「空気」を読むということを常に強いられており、そしてその環境に慣れきっているのです。

 

「大阪リンゴ事件」と「渋谷のトラック横転」

 上記の話を踏まえたうえで、話を進めます。唐突ですが皆さん、今から30年ほど前に起きた「大阪リンゴ事件」というものを知ってますか?

 

megalodon.jp

 

以下、リンク記事を引用

 
 昭和59年4月23日、大阪・京阪天満橋駅前。青森からトラックで行商にきた人が、はるばる運んできた赤いりんご80箱をトラックの荷台に積んで売っていた。桜の季節で、駅前は近くの桜の名所、造幣局の「通り抜け」に訪れた人たちでにぎわっていた。事件はその人が、電話をかけるため目を離したわずかなすきに起こった。

 リンゴの山に、「試食をしていただいて結構です」と垂れ幕がしてあった。それをみた人が、つい一つ、手にした。「リンゴはただやで」ということになり、1個どころか何個も手にする人が出た。「押さんといて」。群集心理に火がつきトラックの前には身動きもできない人だかりがした。興奮してかリンゴの山にのぼり、人がきを目がけてボンボンとリンゴを投げる背広姿の男の人もいたという。千数百個のリンゴはアッという間になくなってしまった。

 かえってきた青森の人は、ぼうぜんとした。最初は何が起こったかわからない。

 

 商売のため試食用としてお客さんに食べて貰い、気に入ったら買っていただこう。と考えていたリンゴの行商人はその有様を見て、さぞ驚いたことでしょう。常識で考えればトラックの荷台にあるリンゴが全部タダなんてありえません。おそらく多くの人もそれを分かっており、タダで持っていくのが泥棒行為であることも承知していた。だけどもその場は「リンゴはタダで持って行っていいもの」といった空気に支配されていたため「赤信号だけどみんなで渡っちゃえ!」と、ばかりにリンゴに手を伸ばしたというのが実際のところではなかったのか。それはおそらく心ある人が「普通に考えてリンゴは商品でタダなんかじゃないよ。勝手に持っていくのをやめようよ」と周囲を咎めたところで止まらなかった。「みんな持って行っているからいいじゃないか。お前、アホか」と笑われたりバカにされるのがオチだったと思います。つまりリンゴの周りにいた世間様はリンゴ泥棒を認めていたということです。

 

ハロウィンの騒動に見る人々の集団心理

 大阪リンゴ事件からおよそ30年後。群衆はどさくさに紛れたリンゴのコソ泥からエスカレートしてトラックの横転という直接的な暴力を他者に働くようになりました。この時もおそらく「いくらなんでもそれはやりすぎだ」と思いながらも、周囲に漂う狂気に対して言葉を飲むほかなかった人もいたのでしょう。そしてトラックを横転させるなど日本代表の勝利時より人々が暴力的な行為に走ったのは「仮装」というイベントの特殊性によるものじゃないのだろうか?と僕は想像します。

 

 その発想のヒントになったのは、僕がライター時代に取材させていただいたとある能楽師さんの話でした。日本の古典芸能「能楽」は演者が役に応じた仮面をつけて舞台に立ちますが、その仮面(面)は顔を全部覆うことができない程の大きさであり、あごや頬などの部分がどうしてもはみ出ている。それは「肉体の部分をわざと見せることで人間と面が融合してひとつになっていることを表現するためです。他の仮面は顔を全部覆うことでその人の人格が隠されて別人格になる。それこそが能と他の芸能の違い」というふうなことを語っていました。つまり、能楽は演者の人格と面の役柄の人格が融合された存在が演じているものであり、顔を覆って隠す仮面は演者の人格を仮面の奥に封じる。そのため仮面をつけた者は本来の人格を失って仮面の人格に取り込まれる。ということです。そんでもって、このハロウィンの仮装も本来お化け=他者になりきるためのものであり、顔を覆う仮面に近い要素を含んでいるものだろう。と思われます。従って仮装した人々が周囲に多く集まっていた渋谷には周囲の空気に合わせることに疲れた人たちが本来の人格を捨てて別の人格になることで、普段心の底に秘めている粗暴な心理が表面化しやすい空気に溢れていたのではないか?と僕は考えています。心理学も社会学も専門ではない、あくまで一般人な僕の仮説だけど。

 

 ただ、この仮説の是非はともかく周囲の空気に左右されることのない「個」のモラルのあり方っていうのは考えたほうがいいと思うよ。そうでなきゃ今後、行政によるハロウィンの規制とかいう話になっていっても文句はいえねーぞ。

 


 

 

今週のお題「ハロウィン」