サブカル 語る。

サブカルチャーなどについての雑談

安倍総理の吉本新喜劇出演は何がダメなのかを考える。

こんにちは。

 先日は日本各地で統一地方選が行われましたが、皆さんちゃんと投票に行きました?このブログはサブカル関連の雑学が中心で政治専門ブログではないので、各地の結果を徹底分析!みたいなものはやりませんが大阪補選について気になる話題がありました。

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安倍総理吉本新喜劇出演 

www.asahi.com

lite-ra.com

 

劇場型政治から、劇場に立つ政治となる

 ニュースによると安倍総理が大阪の吉本新喜劇にサプライズ出演!舞台の上で6月に大阪で予定されているG20の会議について来場者に協力を求めたっていう話だそうな。協力もなにも世界各国のお偉方が集まる会議で、僕らに何をしろというんだ?というのが率直な疑問ではありますけどもそんなのは単なる建前。大阪では苦戦が予想されていた自民候補のため顔を売りに行ったというのが実際のところなのでしょう。

 

 ただ大阪維新の会安倍総理は昵懇の間柄であり、大阪の北川候補の応援にはあまり乗り気でなかったという情報が週刊誌かなにかに書いてあったので、安倍総理自身の本音はどこにあるのか分かりません。

 

www.jiji.com

 

※大阪の政治情勢って複雑なのよ。

 

 嘗て多くの国民が自民党の政治運営に対して愛想をつかしかけた時、自浄作用として期待された小泉元総理はまるでTVドラマの演出みたいな言動と行動を盛り込んだ演出をメディアの前で見せつける「劇場型政治」「小泉劇場」などといわれる手法で多くの支持を集めましたが、まさか現役の総理が本当に「劇場」に立つなどとは想像もしませんでした。

 

小泉劇場 - Wikipedia

 

ポピュリズムにうんざり

 今さらこの件についての批判をグダグダ言うのも野暮なので「ポピュリズム、ここに極まれり」と、ため息交じりの愚痴を呟いておきましょう。自民や他の野党が付け入ることもできないほど大阪維新の会が人気を集めているだけでなく、リンク先の時事通信の記事が事実だとしたら安倍総理もおそらく本気で自民の候補を応援してもいない。ほぼ大阪維新の候補勝利は確定的。吉本新喜劇云々よりもこの大坂補選を巡るグダグダっぷりのほうがよっぽど喜劇です。

 

 どうせなら投開票日まで大阪に残り、自民敗北の報を受けた後でテレビの前に立ち「今日はこの辺で、勘弁しといたるわ!」といって吉本新喜劇にリスペクトを込めたパロディーで上着を着直して見せるぐらいの度量を見せてやりゃいいのにそんな器も頭の回転もない。僕は大阪から離れた東京でそんなもやもやを一日抱えておりましたとさ。

 

 

大衆は無理解ですぐ忘れてしまう。だから理性で説得するのではなく最低レベルの知的水準の者が分かるくらい演説を単純化しなくてはならない。

アドルフ・ヒトラー

 

※権力者が舞台に立つっていうのはヒトラーのこの発言に繋がっていくもんなんだよ。ポピュリズムを否定はしないけれどこれはやりすぎだ。

 

2019/6/7追記:こんなにもポピュリズムを徹底する総理っていたか?いないわな。

www.jiji.com

 


 

「いちごの学校(きづきあきら+サトウナンキ)」はもっと評価されるべき

こんにちは。

 本日のブログ、本音を言うとあまり書きたくないテーマです。だけどこの数日間に、こういった報道がされているのをツイッターやニュースなど多くのメディアで見ていて書きたくはないけれど、書いておくべきだと思いました。

 

 

文字どおり「女性を食物」にする日本という社会

news.livedoor.com

 

news.livedoor.com

 

 保護者やら、社会人としての先輩やら、政治家やらがこぞって、未成年や社会に出ていない女性を性的対象に扱う事件の多さに頭を抱えたくなる今日、この頃。先日ツイッターで「両者の合意があるなら未成年でも親子でもいいんじゃないの?」なんていう、エロゲーや巷に溢れるメディアのエロ描写などによって頭の回路が狂った輩のつぶやきなどを見て「お前はモニター越しに萌え系エロイラストを見ながら、今後使うこともないだろう汚い男根でも握ってろ」と、いいたくなりました。

 そんな中、紹介したいのがこの漫画。

 

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妊娠させた男性が主体の物語 

 白泉社青年漫画誌「ヤングアニマル」などで連載を手がけている「きづきあきら+サトウナンキ」さんの作品です。この作品は嘗て高校の国語教諭だった「大宮壱吾」、その妻であり教え子だった「くるみ」と愛娘の赤ちゃん「あおい」の生活を綴ったファミリーもの。なんだけど物語は母親になったくるみでなく、父であり教え子を妊娠させた「壱吾」の目線を中心に語られていきます。コレってすごく珍しいでしょ。

 

 ムダのない的確な授業で生徒たちや周囲の教員からの評判や信頼も上々。教員が天職だと思ってノッていた壱吾は人間社会の倫理などについて独特の価値観を持っており、それを自分に問いかけてくるくるみに興味を抱き、踏み込んだら引き返せなくなるのを承知で深みにはまっていきます。人目を憚るように二人は交際を続けた結果、くるみは妊娠。それを機に壱吾は教員の職を辞めて結婚。パソコンの量販店に再就職を果たしてくるみ、アオイとの生活をスタートさせます。

 

 くるみの元同級生の来訪ほか娘を連れて実家帰り、風邪をひいたくるみの看病など、楽しくて賑やかな家族イベントの最中に壱吾の頭を過る回想。くるみの笑顔を遠巻きに壱吾は常に「自らの責任」に苦悩するのです。

 

 教員は懲戒免職でなく、あくまで自主的な退職の扱い。自分の行為の軽率さを社会的に罰せられることを望んでいた壱吾に校長は「教員としてはあるまじき、恥ずべき行為だからこそ。あってはならないことだから公的に罰することはできない。社会的制裁というならPTA総会、教育委員会ヒアリングなどで生徒のプライバシーを公にしなくてはいけない。そのプライバシー公表後、失った信頼を取り戻すために残った教員は全力で取り組まなければいけなくなる。社会的制裁なんていうのは単なる自己満足」と言い、信頼していたベテラン教員にも突き放される。熟慮のうえにくるみの希望に応えるべく結婚、出産を選んでも周囲はそれを「責任」とは認めてくれません。

 

 壱吾の実父からは「相手を幸せにしたからといって教師の道義的責任を果たせると思うな!お前の責任とは、誰に対するどんなものか考えろ」とこれまた答えを拒否されて、さらには出産を控えて陣痛に苦しむくるみが思わず発する「うち(実家)に戻って元の生活に戻りたい」という弱音に壱吾は未成年の教え子を妊娠させるような行為は社会的に許される、許されない云々の話じゃなく前途のある若者の自己決定権を奪いかねないものであること。さらにくるみを妊娠させたことは、身も蓋もない言い方をすると子どもの可能性を育てる立場にある大人がその未来を奪うものだったということをこの機にやっと理解するのです。そしてその責任を巡る問い、苦悩は娘の誕生後も続いていく。たとえ自分たちが家族としての幸せを手にしたとしても。

 

あまりにも苦いエピローグ 

 物語のエピローグは、そんな紆余曲折を乗り越えた家族三人が手をつないで帰宅。全編に重い空気が漂っていただけに救われる気持ちになるんですけども、この作者は実に根性が曲がっている(ほめ言葉よもちろん)。最後の最後でその幸せな光景に、強烈なノイズが走るのです。そのノイズはくるみにとって壱吾が家族であると同時に自分の多様な可能性を奪った加害者であるという残酷な現実を突きつけて読者を怯ませます。このコマについてはもう直接、単行本を手に取って見ていただきたいので詳しくは書きません。ただ、先述したエロアニメ見て使うあてのない汚い性器を握るだけのキモオタや表現の自由戦士らはバカだから通じないだろうけど。

 

 もうこの物語は単行本のラスト直前ページをめくらせるためだけにあったんじゃないのか?って思わせる構成にはただ唸るばかり。実際、この漫画を読んだのはもう10年以上前になるけれども、未だにこれを超えたと思える恋愛もの、ファミリーものを僕は知りません。機会があったら、読んでみて下さい。マジでこれを漫画にやられたら文学の立場がないぞ。と思う。 

 

作品はマイナーだけどこのとおり評価は高いのよ。

bookmeter.com

 

 

 


 

 

 ※これはもっと注目されて、再評価されるべき作品。復刊してもらいたいなぁ。

 

 

クニミツの政(まつり)の続編を、今回の地方選で。

こんにちは。

 先日から始まった統一地方選。国政選挙より規模も小さいため、みんな軽く考がえがちになるけども地方選っていうのは僕らの生活に深く関わる大切な選挙です。

 

 

 クニミツの政に反映された「まともな政治への渇望」

 「国づくり」というものを深く考えず知名度だけで議員を当選させたり、まだそれでも投票にいくのはマシな人で半数以上がせっかくの選挙権を放棄するというこの国の体たらく。「政治を信じない国民、その不信に胡座をかいて増長をする政治家」との関係は長年続くこの国の課題そのものです。そういや今から10年程前に「無党派層には寝ていてもらいたい」と選挙前を前に口走ったことで国民を怒らせたアホな政治家もいたけど、今の政府はそのアホ政治家よりも国民をナメているということだけはこのブログでいわせていただきます。

 

さて本題。

「国民と政治」について考えていたら、以前週刊少年マガジンで連載されていた「クニミツの政」という漫画を思い出しました。

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出典:クニミツの政_安童夕馬 / 朝基まさし(講談社) 

 

 この「クニミツの政」という漫画は「将来は総理大臣!」と豪語するヤンキーあがりの少年、武藤国光がある自治体の市長候補の弟子兼秘書となり、奮闘することで周囲の政治への関心を盛り上げ、その勢いを町全体に広げながら最後には市長選に向けて大きなうねりを作っていくプロセスを描いた作品です。

 

 選挙にて無関心だった市民がクニミツの熱気に心を揺さぶられて「政治って何?」と自らに問い、それが想像を超える投票率を記録する形となって実るのがこの漫画の見所ではあるんだけども所詮はマンガの話。現実はそう甘くありません。


 この作品の連載時期は2001年〜2005年。コミックスも30巻近く発行されていた、当時の人気作品です。政治なんて少年マンガにはもっともふさわしくないテーマにも思えますけど、数年に渡る連載を支えたのは単に物語の面白さだけではなく、そこには「政治を諦めない、諦めたくない人達の願い」みたいなものがあったのではないかと思うのです。そしてこの作品の特筆すべき点は、選挙の舞台を「地方自治」にしていること。

 

地方選挙は民主主義の学校 

 選挙でもメディアで注目を集めがちなのは衆議院参議院都道府県知事選など大規模なものが殆どですが、各区市町村の議員と首長を決める地方選挙はある意味国政選挙より大事なものです。地方選で選ばれる議員は僕らの「衣食住」の拠点になる「街」のデザインを担うからです。

  

 国政選挙は大規模なため、大勢の興味は「与党」「野党」の対決に集まりがちでその勝敗の結果に偏ってしまう。だけど、本来政治は勝ち負けの二元論ではなく、その選挙を経て僕らの生活がどう変わるか、どう変わったかこそが本質だと思うのです。それを実感できるのは「国」という大きな共同体でなく、自分を含めた周囲の顔が見える「まち」という共同体の選挙である。地域の住民が自分達の暮らすコミュニティのグランドデザインを考えて、それに近い考えを持っている人材を議員として選び、意見や政策を吟味しながら街をつくる。その自治の経験から人々は政治参加へのメソッドを学び、「国」づくりへつなげていく。

 

 英国の政治家ジェームズ・ブライス(1832~1922)はこの考えから地方自治「民主主義の学校」と呼びました。ただ、現在の日本では都市機能の集中化のせいで生活の拠点と日中の活動拠点が二分化されているため、生活拠点であるまちは飯を食って寝るだけの拠点となっている。そのため街で活動する機会を殆ど持てず、コミュニティーという概念が崩壊しかけている東京やその周辺の地域では国政選挙以上に興味を持てない人も多くいるのではと思えます。

 

あなたの街にも「クニミツ」はいる筈だ

 上記で紹介した漫画の「クニミツの政」ではフィクションの自治体において実施される市長選が舞台でした。漫画はフィクションで現実じゃない。僕らはそう思い込んでいるけど本当にそうなのか?ひょっとしたら僕の町にも、あなたの街にも主人公の武藤国光のような一本気な人材が、街頭で熱意を込めた政策をつづったパンフレットを手渡しているかもしれない。僕らが議員候補から手渡されて無意識に捨てているパンフレットには、街の生活を魅力あるものに変化させる可能性のあるアイディアが詰まっているかもしれない。

 

「政治を熟成させていくためには地方自治など小さい規模から地道に、時間をかけて『市民』『国民』が街や国のあり方を考えていく以外ない」

 

 マンガみたいに破天荒な行動はできないけど、マンガでクニミツが語るようなセリフを語り、実現させたいと願う「リアル国光」は、たぶんいる筈。だから僕は政治を決して諦めていません。っていうか、僕も選挙出たいな。野党の候補として当選したら周囲の無所属議員たちと「日本野党の会」を結成して、双眼鏡片手に居眠りしている議員を野鳥みたく数えて国民にその数を公開するという公約を掲げて。

 

※この国の政治で何が必要か?景気回復か?憲法の遵守か?改憲か?政治腐敗防止か?社会保障?テロ対策?僕はどれでもなく、この国の政治に求められているものは「結果よりも誠実さを求める僕らの辛抱」だろうと思います。

 

 リーダーシップを持つ政治家による政治の改善!そんなのを求めるなんてそれこそ漫画です。この国の政治の改善には10年、ヘタしたら20年待たなきゃいけない。自分の現役時代で恩恵は受けられないけど、後の世のために自分達が踏み台になろう!今の政権より頼りになりそうな人材じゃなくても選挙を通じて見込みのあるヤツを長年かけて育てていこう。なにより僕らも政治家の適正を見抜く目を鍛えていこう!くらいの気概がなけりゃ何も変わらない。

 こういうことを文章で書くと「理想論だ」と笑う人たちもいるでしょう。そのとおり、理想論です。理想だからこそ希求するのは困難で甘くありません。だけども「国民主権」とはそもそも「国づくりの究極的な責任者は国民」ということでもあるのです。それを選んだ政治家に任せっきりだっただけでなく、僕らはその政治家を選ぶことさえも満足にやってこなかった。僕らは「そのツケを今払わされているんだ」ということを、強く自覚するべきなのでしょう。

 

news.kodansha.co.jp

 

 

 

アニメ業界で声優に出会える方法?男女の出会いはそんな甘くない

こんにちは。

 最近はサブカル制作に携わった経験から現在のオタクたちに向けての苦言めいた堅苦しい記事も多かったので、今回は今週のブログのお題 である「桜舞う季節」にちなみ、アニメ制作時代の色気あるエピソードを。

 

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ハケンアニメもSHIROBAKOもファンタジー

 テーマはズバリ「アニメ業界における男女の出会い」。最近は「ハケンアニメ!」や「 SHIROBAKO」など美女がアニメ業界で活躍する物語が増えているため、この辺については気になっている人もさぞ多いだろうと思います。

 

 何度でも言わせてもらいますが、上記二つの物語などしょせんファンタジー朝10:00から始まり、早く自宅に帰れて終電前後。男性だって1年も経たない内に逃げる人が9割前後の業務を続けながら、あんだけ身奇麗な格好で業務に励める女性なんているはずもありません。僕の知っている限りでは最初こそ格好に気をつかっていたけどだんだん生活に疲れていき、身だしなみなどどうでもよくなる人がほとんどでした。っていうより会社に残れるだけでもすごい事なんですけど。男女ともに業務に追われているためか、恋愛する時間も余裕も無い。おまけに業務がハードなため、女性スタッフも少ない。こんな環境で恋愛っていうのも厳しい話ではあります。

 

アニメ業界で声優と出会い、仲良くなる方法 

 だけども出会いが全くないというわけでもありません。カップリングについても、原画・動画さんと制作、制作と制作、演出と制作など色々な組み合わせの男女交際は結構あったりします。そこで気になるのは皆さんが期待しそうな声優と制作っていう組み合わせ。実際にあるかどうかっていうと、まぁアフレコとかで自分が大好きな声優さんと接する機会を持てたことをきっかけに男女のお付き合いに発展!っていかにもありそうだけど、直接お話できるのは作品の演出とか監督、プロデューサーなどの上役でありむしろ上役は自分の会社の人間と声優とのトラブルを起こさないため制作を近づけようとしません。

 

 そんな機会があったとして作品放映終了後の打ち上げとか程度なので、よほどの美男美女でない限りそんな縁を持つことはほぼありません。僕も制作会社に入った頃、会社の先輩に「お前、この仕事で声優と仲良くなれるとか思うんじゃないぞ」と作品を担当する前に言われた事がありましたが、逆に「そんなことを考えてアニメ業界に来るアホってやっぱり多くいるんだな」と驚きでした。「僕にいわせりゃ若手の声優なんてみんな貧乏なんだから貧乏な声優×貧乏な制作なんて悲劇以外の何者でもない!好きな声優?そんなもんいるわけないっす!まぁ、林原めぐみクラスの声優のヒモとかだったら金もっているだろうからなってもいいかな」と、その先輩に言ったらドン引きされました。そんな理由で、もしあなたがアニメ業界の門をたたいてお気に入りの声優に仲良くなりたいという野心を抱いていたとしたらその手段はぶっちゃけ「偉くなりな」というほかありません。

 

アニメ業界の奇妙な男女関係

 アニメ業界で男女の関係を長続きさせるのが難しいのは想像を超える激務のため、お互い心が荒んでいくからだと思われます。アニメ業界で男女交際が始まるきっかけは、会社に入ってきた希少価値の女の子に、不器用ながらも男性がせいいっぱいのアプローチを続けていき、根負けした女の子が言い寄ってきた男たちの中から「いくぶんマシ」な男を選ぶというパターンが圧倒的ですが、変わったところではある会社で男性制作が業務で多忙に陥り、毎日の食事が偏ったため栄養失調になり入院。その間に男の業務のサポートやお見舞いをするうちに女の子が男のダメオーラで判断力が狂っていき、逆アプローチをかけたことで実った男女交際っつーのがあるそうな。あと事実かネタかどうか分からないけどある女性の原画さんと交際中の制作さんが、ふと彼女の机にノートを置いていたのを見つけ、たまたまそれを広げたらなにやら漫画の下書きっぽい。それをよく読んでみたら自分がモデルになっているBLの同人誌の下書きだったとのこと。その物語では制作さんは強引なプロデューサーのお誘いを断れずにだんだん深い仲になっていき、マゾッ気な性格を秘めていたプロデューサーと制作の立場が逆転。作画に使う道具をアダルトグッズ代わりにプロデューサーを責めまくっていたそうな。もちろんその制作さんは速攻でその原画さんの娘と別れたって話でした。

 

 このエピソードは別の話として、原則的にアニメ業界の男どものアプローチはたまに不器用を超えて「男から見ても気持ち悪い」ものになることも少なくありません。僕が同僚の女の子から受けた相談では、その子がベテランの独身制作と車に同乗した時、いきなりアツ(苦し)い結婚観を延々語られたり、別の制作からは会社間の移動の際、オートマ車でなくマニュアルで車を運転した際、同乗した先輩の男性制作に「クラッチ踏むタイミングはこう!」などとかいって、いきなり膝を鷲づかみされたそうな。そういうのを世間一般ではアプローチとはいわない。単なるセクハラといいます。まぁ、元々の出会いの機会が少ないため、女性に対してやたら目を血走らせがちとなるのも「生物の種の存続と繁栄」という本能を考えたらまったく理解できなくもない話だけど、男性たるもの、普段からの心構えこそ大事であり、いくら出会いが少ないからとて異性を目の当たりにした際に舞い上がって突っ走るのだけは避けていただきたい。今回の話はあくまで、僕の見た会社のエピソードが中心なので全部が全部そうとはいいませんけど。

 

アニメ業界における最低な男女の出会い 

 アニメ業界の男女出会いについて他人のことをあーだこーだ書きましたが自分の事を語らないのもフェアではないので、この辺りで自分の経験について語りましょう。僕自身、会社内で女性との出会いなどありませんでしたし、さほど期待していませんでした。というのも大学卒業の前後に手酷い失恋をしていたもんで、正直恋愛なんてどうでもいいと思っていたのもあります。だけど、一度だけ合コンを経験しました。もう二度とやりたくないと思った合コンを。

 

 きっかけは担当するアニメ作品の背景を手がけていた、会社の女の子のお誘い。この子が「今度、ご飯一緒に食べませんか?」と僕を誘ってくれたので、だったら人数を集めて男女で・・・っていう話になったのでした。正直に言わせてもらいます。浮かれましたよ、ええ。ただ、社会性のない会社の同僚や先輩を誘うと後々面倒なことになりそうだったので僕は高校時代の友人たちに声をかけることにしました。僕と同じ女性と出会いのない友人と、彼女はいるけど合コン初体験の友人2人。僕を含めた男3人と背景会社の子を含めた女3人の構成で楽しくやろうと思っていたら思わぬアクシデント。女の子の側で1人、欠席者が出たのでした。背景会社の女の子は「別な人を誘って、何とか人数を確保していくので心配ない」との話だったので、大丈夫だろうと安心していたけど甘かった。待ち合わせ場所にいくと、女の子の集団3人組を発見。どんな子たちかと遠目で覗いてみると、女子2人のほかに先日飲酒運転で逮捕されたガリガリガリクソン、またはサモハン・キンポーみたいなどうみても男にしか見えない人物が1人、混じっている。頭をグルグルと回る?マーク。僕を見つけた女の子は僕に近寄り、言いました。

 

「ごめん。女の子3人のはずだったけど確保できなかった。」

「うん、まぁ仕方ないね。そんで、あの男なに?

「今日の話をしたら、俺も行きたいってついてきちゃった彼女の友人の男の子」

そういって女の子は少し離れたところにいる自分の友人を指差しました。

 

そんな奴を連れてくるな!バカ野郎!!

 

 合コンの前提が崩れまくった、もはや合コンともいえない合コン。男女3対3どころか女2対男4。おまけにその中の野郎は場の空気を全く読むことさえできずに、背景会社の娘の連れてきた子とベタベタいちゃついてやがる。話を聞いたら二人はほぼつきあっている関係とのこと。そんな変則的なメンバーで始まった集まりにもう、気分など盛り上がるはずもありません。初っ端から敗北の決まった野球の試合みたいな空気を醸し出しておりました。そんな僕たちの心境を知ってか知らずか二人の世界でベタついているサモハン。お前、何しに来た!!と怒鳴りつけるところを僕はギリギリで堪えました。

 

 この羨ましくもないカップリングになんとなく敗北感を感じていたら調子こいてるサモハンはふと僕の顔を見て年下のクセに偉そうなタメ口で「君、ジェット・リーに似てるね」と指摘。ありがとう。でも嬉しくない。「君、会話で空気を読まなさそうだから、そこを直したら彼女できるよ」とドヤ顔で続けるサモハン。

 この日の合コンはテーブルを囲み、往年の香港映画アクションスターが後輩に説教をたれて悦に入っているヘンテコなものとなりました。目の前の二人に敗北感にも似た苛立ちと怒りを抱いている僕と、納得いかなそうな僕の誘った友人2人。その中の1人はこの合コンを楽しみにしておりました。連休中だったので趣味の車で遠出していたのに、僕のいきなりな合コンの誘いを受け、迷いながらも彼はこの日のためだけに車で5時間近くかけて東京に帰って来るほど期待していた事を知り、心底コイツを巻き込んで申し訳なかったという思いがこみ上げ、ただ唇を噛みしめるだけの僕。その友人も現在、結婚してはいますがあの日を思い出すと今も胸が痛くなります。

 その友人はか細い声で「こんな集まりに金を払いたくねぇ」と呟きました。僕もこの2人に金を払わせたくないと思っていたので自分の分と友人2人の分を合わせた、会費7500円を支払って店を出たのでした。合コン会場の新宿をぶらぶらあてなく歩き、立ち止まったのは光と音の溢れる賑やかなゲーセン。僕らはそこで気分直しに遊びまくりました。そして合コンのため遠距離移動してきた僕の友人がこう呟きました。

 

「この3人で遊んでる時間が最も楽しい」

 

あれからもう20年。時の流れは速い。

 

  

今週のお題「桜」

卒業式前に告白!俺の失敗エピソードは想像を超えていた

こんにちは。

 今日のブログは「恋バナ」。

 

 

卒業できない恋という物語

 このエピソードもブログを始めて読者さんも少ない頃に書いたため、殆どの人に読まれることもなかったので、リライトして紹介させていただきます。常連読者さんにはもう、おなじみの悲劇の失恋物語。今、思い出しても胸が苦しくなるっていうか、その結末があまりに想像のナナメ上をいっていたため、困惑させられるっていうか。そんな物語。確か、渡辺美里が「幾つになっても卒業できない失恋」について歌っていたけれど僕の場合だと卒業っていうか「失恋の強制退学」でした。その方が後を引かないため、結果論的には良かったので複雑な心境ではあるけど。

 

友達以上恋人未満を越えた関係

 さて本題。大学1年だった頃、僕には好きだった女の子に贈ったクリスマスプレゼントのせいでこっぴどくフラれた僕はその後もめげずに2年生になり、別の女の子を好きになりました。その子はアルバイト先で知り合い、大学も別だったんですけど業務の合間の雑談でウマが合ったこともあってか気づいたらバイト先だけでなく、二人で待ち合わせて出かけたりしていました。「今日、渋谷で5時ね!」ってお前は鈴木雅之か。

 

 そのアルバイトは平日の18時〜21時でほぼ週に3〜4日。休みもなんだかんだ言って行動を共にしていたのでほぼ毎日会っている感覚。顔を合わさない日も電話していた程でした。大学2年から大学4年までそんな関係が続き、この友だちとも恋人とも言えない関係が楽しくもあり、もどかしくもあった日々。普通の感覚だったらコレはほのかな相思相愛っていうやつで、僕か彼女かどちらかが踏み込めば恋人になれる!と思っても当たり前じゃないっすか?自分自身も卒業を控えていたのでこれをダラダラ続けるのはもうできないと思ったことと周囲の後押しを受けた事もあったので、意を決して告白しました。数十秒、数分の間を置いた後に彼女が呟いたひとこと。

 

 

「ごめんなさい、AM君と付き合えない・・・」

 

 その答えは意外でもあり、ある意味で納得もできる不思議な感覚に僕を陥らせました。いっしょに友だちでい続けた時間の長さがそうさせたのか。離れる事も近づく事もできない、紙一重の関係が逆に僕らを遠ざけたのか。鼻腔の奥が痛くなり、目の前の風景は濡れたまつ毛のためにぼやけて僕には見えました。何をいったらいいのか僕も分からず、ただ「友だち以上、恋人未満ってやつか」と、使い古された陳腐な言い回しをぼそっと口にした時、彼女はこういったのでした。

 

「AM君は友だち未満だから・・・」
「友だちでもなかったのか!?」

 

怒りも度を越えると悲劇でなく喜劇 

 いやね、驚いた。ほんと驚いたマジで。僕は想像を超える彼女の回答に怒り、怒鳴ったつもりだったんだけど周囲からすると単なる大声ツッコミ。っていうか実際に言われてみ?船場吉兆の若旦那のごとく頭が真っ白になるから。結局の所、彼女は前々から思いを寄せていた大学の同級生とお付きあいをすることになったため僕だけただひとり。この思いもよらない青春のどんでん返しに、もう人間不信手前でした。ついでにいうと彼女の自宅には僕もよく遊びに出かけており、そこで彼女のお母さんと世間話をダベることも多かったためか、お母さんとも仲良くなっていたんですよ。僕の失恋を知って、その娘のお母さんは「ごめんねAMちゃん!私は、娘とはAMちゃんと付き合ってもらいたかったのよ」と心配して電話をかけてくれたんだけど僕としては「それを僕に言われても困る」と返答。そりゃそうだよな。さらにお母さんは「こんなことになっちゃったけどAMちゃん、また家に遊びに来てね」といってくれたんだけど、そりゃムリっす。と、答えるのが精いっぱいでした。

 

 それ以来、その彼女と僕はほとんど話をする事もなく、いつのまにか携帯電話の番号もつながらなくなっていたのでその発言は本心だったのか「友達以上恋人未満」をいい間違えたのかを確かめる術もありません。「友だち未満って言い間違えだろ?」と質問できればよかったかもと思ったりすることもあるけど、このエピソードを「20年を経ても未だ解けない青春の謎」「一人では解くことのできないい愛のパズル」として、飲み会の席で語るのが自分にはお似合い。またこの失恋エピソードはべつの衝撃的失恋エピソードの伏線になっているんだけど、それについてはまた、別の機会にあらためて。

 

torentoren.com

 

※告白せずに後悔するのと、告白してトラウマもんのひどい思いをするのはどちらがいいんだろうか ?

kaimyou.biz

 

 

 

※単純に相手が自分のことをきじゃなかったからじゃねーの?

 

 

 

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 ※「失恋の特効薬は失った恋(心)を別の恋(こころ)に『変』えることである」。

 

 

どうして自衛隊は隊員募集にキモい「萌えイラスト」を使うか分かった!

こんにちは。

 昨日に続いて今回のブログのテーマは何度も述べてきた「エロ絵と社会のあり方」。そこで、呟きのように書き続けてきた「物語の敗北」というフレーズを改めて考えているうちにこれって実はサブカルだけでなく、まさに今のこの国の国防が抱えている問題そのものを表した言葉でもあるんじゃないだろうか?という想いが湧きました。

 

 

そういやアニメ制作だった時代に監督から「AMは現在のアニメのエロ表現をどう思う?」と質問されたこともあり、そういう表現に頼らなきゃ作品が売れないんだとしたらはっきりいって表現の敗北と答えたこともありました。その時に監督は怒らずただ「そのお前の言い方にはムカつくけど、これ程適切な分析もない」と、ため息をついたのを、僕は今でも覚えています。

キモいオタクどもが表現の自由を「エロ」の言い訳に使う醜さ - サブカル 語る。

 

 

国防のリアリティ欠如を補う「萌え」

 以前、僕は自衛隊萌え要素のある女の子のイラストをポスターに使って自衛官募集をかけている現状について批判したことがあります。

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現在のアニメ表現はポルノではないけれどポルノ的要素を含む表現であることは否定できないというのが僕の考えです。それを「個人の趣味」レベルで消費することは批判されるのに行政みたいな「パブリック」が市民権を得るため広報で利用されているっていうことについてオタクはもう少し真面目に考えるべきです。 僕自身のいいたいことは「女の子のセミヌード表現や、萌え要素の強いキャラクターが全盛となっている現在のアニメ環境を『セクハラ』と思う人はいるだろうね。ただ、そのアニメ表現を犯罪の温床みたいに扱いながら町おこしや自衛隊の勧誘に使っているこの国の空気って何?」ということです。町おこしや自衛隊員勧誘に「萌え」を利用している一方で行政が「非実在青少年」表現を巡って条例を改正しようとしたりするこの二枚舌な現状について、アニメファンは本来「お前らどっちなんだ!」と怒るべきなのです。

自衛隊の募集も地域振興もキモいオタクの萌えに頼るな! - サブカル 語る。

  

 以下のニュースを読むと日本は少子化やその他の理由で自衛隊が人材不足に陥っており、おそらくその打開策で萌えイラストをポスターに使って若い世代からの支持を集めたいという思惑があるのでしょう。

 

jp.reuters.com

 

「国の勇ましさ、誇り」という物語の賞味期限

 従来とは異なり、街中でよく目につくようになった萌えイラストに高感度アップを頼っているという有様も非常に情けないとは思いますけれども、これは「国防」というもののオプションだった「カッコよさ」「勇ましさ」などの物語が効力を失っている。ということの現れだろうと僕は思っています。90年代後半に出版された小林よしのりの「戦争論」という漫画によってこの国ではかつての戦争を肯定するだけではなく、周辺国の危機をやたら煽って日本の勇ましさをどうにか取り戻したい。堂々と軍隊を持って国の誇りと自信を手にしたいという人たちの声が大きくなってきていました。そこから卒業できない人たちがいわゆるネトウヨというやつです。周辺国が日本を狙っている。だからこそ軍備増強を!憲法改正を!っていう物語の構造は単純化されていて実に分かりやすい。

 

 ただそれは多くの人にとって(ネトウヨ含め)はどこまでいっても単なる「物語」でしかなかった。要するに「国」をめぐる勇ましさの物語はバブル以降の低迷で自信を失った日本人にとって小腹を満たせる程度のものであり、殆どの人たちはそれを「リアリズム」としては受け取っていなかった。さらにその物語はすでに消費期限も切れており、それを貪っているのもネトウヨだけというだけのことです。だからこそ誰も自衛官募集に応じない。国の防衛についてうるさいネトウヨこそ真っ先に手をあげそうなものなのに、そんな自称保守な奴らさえ集まらない。奴らにとっても周辺国の危機なんて所詮、絵空事なんでしょう。

 

 こんな風に消費され尽くした「国防」と「国の誇り」「周辺国の危機に抗う勇ましさ」という物語は、どれだけ策を労してもリアリズムとして国民に伝わらなかった。つまり、敗北しています。その敗北を補うためにみっともなく足掻き続け、ポピュリズムを求めて萌えイラストにすがりつく様のなんと惨めなことか。

 

 

lite-ra.com

 

  憲法の改正は安倍総理のなんとしても達成したい願いとのこと。そんな賞味期限切れで敗北している物語は安倍とその周囲のネトウヨだけで食っていて貰えないかね?国民も、そろそろ愛想尽きるぞ。

 

 

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オタクの被害者意識に「エロ」の言い訳で使われる「表現の自由」

こんにちは。

 本日のテーマはアニメやライトノベルラノベ)におけるエロ表現について。以前、書いた記事の補強版!っていうかリライトになります。このテーマの記事を書こうと思ったきっかけになったのはツイッターでふと目にしたこのつぶやきでした。

 

 

萌えは所詮、物語の販促品 

 ツイッター主の娘さんが女性の胸やお尻などの、性的シンボリックな部位を強調した表紙をつけた大量の本を並べている書店の光景を見て不快感を示したそうな。僕自身も娘を持つ未熟な父親ですが、この記事では「父親」という立場でなく、アニメ作りに携わっていた「元制作進行」の立場から語らせてもらうとコレははっきりいってもう「物語の敗北」といっていい現象です。本の表紙というのはいうまでもなくユーザーに購入を促すための「訴求」という要素を担っています。つまりユーザーに表紙で買わせるためこういった表紙を使っているということは身も蓋もない言い方をさせてもらうと出版社が「本の物語が面白いと自信を持てないので、エロ絵に群がるオタクを相手にアコギな商売をやっています」といっているようなものだと思います。

 

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 この20年でアニメ、マンガ、ラノベなどのサブカルにおけるエロのモラルというか、基準がえらく下がっているな。というのは僕があるアニメ制作会社で制作をやっていた頃から感じており、同時に憂いてもいた事象でした。こんな風にエロ表現を先鋭化させることでオタクを集めることはできるだろう。だけど、この先日本で少子化により人口が減っていく中、それらを支持するオタクもやがて当然減る。結局、エロ表現のエスカレートは単なる消費の先食いであっていつかは飽きられる。その時、オタクたちを喜ばせるためだけの表現は社会に叩かれて業界そのもののニーズは縮小ということになりかねない。と思っていたからです。

80年代でもテレビアニメのエロ表現はありました。だけどそれらはあくまで作品のファンに対するちょっとしたサービスカット程度のものであって、エロ表現を全面的に出していたのはフェアリーダストの作る「くりぃむレモン」等の18禁アニメビデオというきっちりした区分みたいなものがあったのです。現在は、女の子のセミヌードなど婉曲的なエロ表現がオープニング映像や本編に多用される作品が増え、それらの直接的に近い間接的なエロ表現がDVDの売り上げや視聴率などにも関わっているという現状。僕が制作に携わった作品もDVDを売るために女の子の裸のシルエットに街のネオンを当て、身体のラインを曖昧にし、かつ肌色ではない色に変更して規制はセーフ!みたいな表現を多用したりしていました。そんなことをやるんだったら、最初からデスラー総統でも脱がせりゃいいのに。とかたまに思う。

泣きゲーなんて所詮、エロゲーを買えなかった奴のいいわけ - サブカル 語る。

 

  ちなみに下の写真はツイート主が「自分の子どもの頃のラノベ表紙はこんなもんだった」という20~30年ほど前のラノベの表紙と、同時期に大学で「漫画におけるエロ描写の表現と世相」についての研究のため、司書房などのアダルトコミック雑誌をある時期毎月買っていたころの表紙。

 

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20年ほど前のラノベの表紙

 

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20年ほど前のアダルトコミック雑誌の表紙

 

 当時はこういうのに興味をもってなかった。というのは大ウソで研究のためとはいえ興味アリアリだったけど、コレを本屋さんのカウンターに持っていくのが本当にイヤでイヤで当時は本屋の中を右往左往する挙動不審なお客になっていました。この20数年前の写真と比べると、一般的なエロの基準がひどく下がっているというのが一目瞭然。お姉さんの半裸アニメ絵の本を買うのが「恥」だった頃のアダルトコミックの表紙と同様のクオリティー、いやモノによってはそれより過激な表紙のラノベを皆さんホイホイと買っているんですよ。これを時代の変化とも呼べるけども、この現状は表現の進歩なのか退化なのかは、皆さんもどうかよく考えてみてもらいたい。というところです。

 

エロは社会のつまはじき者だと自覚的だった時代

 僕もこういうエロな絵に性的な興奮を抱くこともあるので、こういったエロな表現を全部否定するつもりはありません。それらを異常な趣味とも思わない。ただやっぱり、エロ表現というのはどんなに理屈をつけても「日陰者」であり、市民権を得ているものじゃないんだということは認識しておくべきなんだろうとは思う。女性の半裸を表紙に描いたラノベや漫画が世に出回り、売れたっていい。だけど、そういう表現はこちら。

 

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 街角にひっそり置いてあるエロ本の自動販売機で周囲をキョロキョロ見回しながら手の震えをこらえて小銭を入れて本を選び、下の取り出し口からいそいそ本を取った後脱兎のごとく撤退。その時間は数秒にも満たない。そのエロな本を抱えながら「俺はエロいアニメ絵を心底愛している日陰者だ!だがこの日陰な趣味に人から文句を言われる筋合いなどどこにもない!」といって90年代のとんねるずの名曲「情けねぇ!」の歌詞のように芝居じみた正義の拳を振り上げる。っていうのが昔のオタクの美学でもあり、作法でした。

 

 その頃を思いながらただ「昭和と平成は遠くになりけり」と僕は今日も呟いてブログで愚痴るのみ。エロイラストのラノベも漫画も大いに結構。だけど、そういうのは本屋の角でひっそり売ってろ。それらが人気を博してアニメ化!いいね!!だけどそういうのは有料エロ専門チャンネルで金を払って観ろ。エロ表現の基準低下でそれらを簡単に享受できる世間に甘え、昔みたいな精神的、経済的なコストを払って手にするエロがどれだけ極上かを知らない人たちを気の毒だなと、僕は心から思っています。

 

 そういやアニメ制作だった時代に監督から「AMは現在のアニメのエロ表現をどう思う?」と質問されたこともあり、そういう表現に頼らなきゃ作品が売れないんだとしたらはっきりいって表現の敗北と答えたこともありました。その時に監督は怒らずただ「そのお前の言い方にはムカつくけど、これ程適切な分析もない」と、ため息をついたのを、僕は今でも覚えています。

 

エロに頼らなきゃ売れない物語 

 ラノベの表紙にエロ絵を使うことの是非やら、表現の自由やら、性的要素を含むことを考慮してゾーニング(子どもたちの目が届かない所で売る)やら、多くのファクターが絡み合ってややこしい話になっている印象ですが、僕のいいたいことをまとめると、「小説や漫画の表紙にエロ絵を使う必然性は何?」っていうだけです。物語というコンテンツだけで売れないからエロ絵でオタクを引き付けて売る。というアコギな商売は結局のところ物語に魅力が足りないと販売元が公言しているも同じで、僕はそれを「物語の敗北」と呼んでいるっていう話であり、そんな商売を続けていたら結果的に小説も漫画も「物語る力」を衰退させていくだけなんじゃないか?という元アニメの制作進行だった男からの問題提起でしかありません。だけど、同時にこういうエロ絵の独特なエロチシズムについて理解もしています。

 

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表現の自由」はオタク共の被害者意識そのもの

 上記イラストは大学のゼミ研究(だったんだが興味なかったとはいわない)で買った90年代のエロ漫画の表紙ですが、この男性の性欲を満たす目的で出版されたエロ漫画の表紙と上記ラノベ表紙を比べたらドン引きする人はいるでしょう。

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 記事にこのラノベは特別な作品で、他のラノベはそんな過激じゃない!とかいう人もいたので調べてみたところ。

 

togetter.com

 

 ブログの質を落としたくないのでリンク先の画像は引用しません。まぁこれも一部のラノベのみであって実際には、エロ絵に頼ることのない作品も多いのかもしれません。ただ、上記リンクのイラストを掲載している作品は常識的にこちらの領域だよな。どう考えても。

 

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 エロ絵に抱く性欲自体を否定したりしませんが、どこまでいってもそれらは一般的な常識とは交わることのないものだというのは自覚をしておけ。そして現代のオタクらがそんなエロ絵ばっかりに食いついている状況は長い目で見るとラノベや漫画の「物語る力」を削いでいくことになり、サブカルはその結果衰退をしていくぞ。という話なんだけど僕のツイッターには「境界線上のホライゾン(上記画像の作品)を読んでいないくせに否定するな!」とか「表現の自由を奪うな!」みたいなコメントなども多く、ゲンナリさせられております。いっておきますけど表現の自由は公共の福祉に反さないかぎりという前提ありき。いくらエロ絵好きでも、それを不快に思うという人たちがいたら両者の権利の対立が発生する。そこで互いに妥協案を模索するっていうのが小・中学校で習うこの社会のルールという基本を理解できてない大人たちが多いことに、驚きでした。
  

公共の福祉とは「お互いの自由と人権の公平性を保つための原理」も含んでいます。 もしも、この公共の福祉が公益のみを意味するものだったらどうなるか。例えばあるコミュニティーで僕がヘビースモーカーだとします。20歳を超えた成人だったら僕にはタバコを吸う権利がありますが、その一方で僕の周辺には「タバコのにおいや煙がイヤなので、私の近くで吸わないでもらいたい」っていう人たちが大勢いて、僕みたいな喫煙派が少数だとする。公共の福祉が公益だったら僕のタバコを吸う権利が認められません。この場合、喫煙という行為は「大勢の利益に反するから」です。それとは逆に嫌煙家が少数派でヘビースモーカーが大勢な状況なら「タバコ吸われるのはイヤなのでやめてほしい」といえません。この場合「喫煙できる環境」こそ公益となるためです。 このように両者の(幸せを求める権利)が対立する場合には、お互いの持つ権利を最大限尊重して解決策を模索する。上記のケースならオフィスに「分煙室」をつくるという妥協案あたりが現実的な解決策になるでしょう。

自民の改憲漫画が、あまりにも酷い - サブカル 語る。

 確かに何をもって「エロ表現」っていうのかは異なります。なので、そういう人たちは多分何の負い目もないでしょうから堂々と職場でこれらのイラストを同僚たちに見せてみたらどうでしょう。自分の判断基準だけに頼らず、第三者の客観的な判断を加味して物事の是非を吟味する。コレ、社会人の常識なので。

 

 ちなみに社会はこういった萌え系のエロイラストをどう認識するのでしょうか?そのヒントは以下PDFにあります。

 

https://www.hataraku.metro.tokyo.jp/sodan/siryo/24koyoubyodoGB_01.pdf

 

行政の定義からエロ絵の「表現の自由」を考える

 リンク先のPDFによると東京労働局が平成23年度の男女雇用機会均等法に関する相談を受けた3450件のうちセクシャルハラスメント(セクハラ)に関わるものがおよそ1900件。その結果を受け、同局はセクハラを「相手方の意に反する性的な言動」と定義して、それを幾つかのパターンに分類しています。萌え系のエロイラストは下記の「環境型」に該当する可能性があります。

 

⑵ 環境型
 職場において行われる労働者の意に反する性的な言動により、就業環境が不快なものとなったため、能力の発揮に重大な悪影響が生じるなど、その労働者が就業する上で看過できない程度の支障が生じるものが「環境型」です。

<ex>
・事務所内で事業主が従業員の肩・腰などにたびたび触ったため、その従業員が苦痛に感じる「身体接触型」
・同僚が取引先に「性的にふしだらである」などの噂を流したため、従業員が苦痛に感じる「発言型」
・事務所内にヌードポスターを掲示しているため、従業員が苦痛に感じる「視覚型」

 

 国家公務員に基づき設立された人事院の「人事院規則10-10」で定める指針では、セクハラになりうる言動についてこのように述べています。以下引用。

⑵ 性的な行動関係
ア 性的な関心、欲求に基づくもの
①ヌードポスター等を職場に貼ること。
②雑誌等の卑猥な写真・記事等をわざと見せたり、読んだりすること。
③身体を執拗に眺め回すこと。
④食事やデートにしつこく誘うこと。
⑤性的な内容の電話をかけたり性的な内容の手紙・Eメールを送ること。
⑥身体に不必要に接触すること。
⑦浴室や更衣室等をのぞき見すること。

出典:職場におけるセクシャルハラスメント ー東京都ー

 

 僕の会社でもこのようなガイドラインに基づいて、人権啓発の一環でセクハラ対策に取り組んでいます。いうまでもなく「企業」「職場」というのは大勢の人が集う公的な空間。このため僕が職場にアニメの女性キャラクターがセミヌードとなっているグッズを持ち込んだらセクハラ認定により一発懲戒モンです。アニメだろうが実写だろうが内面の自由を語ろうが、他者を不快にさせる行為を企業は許さない。

 

 さて。ここからはそのパブリックスペースにおいて行政がこういった見解を示していることをどう捉えるべきなのかを考えてみましょう。おそらく職場にエロ系のイラストを持ち込むのと、店舗でエロ絵グッズを売るのは異なる話だ。それは議論のすり替えだ!という人たちもいるかも知れません。

 

 確かに職場におけるセクハラガイドラインとエロ絵の是非には直接的な関係は薄いでしょう。だけどこの両者は「公的空間」であることに変わりはありません。店に来るのはエロ絵大好きなオタクだけでなく、それらを嫌う女性や子どももいます。そのエロ絵を嫌う人たちに卑猥なイラストを見せるような環境は果たしてどうなのか?誰でも閲覧できるインターネットという公的空間で番組の公式サイトが萌え系エログッズをプロモーションするのはどうなのか?という想像力をエロ絵大好きオタクが持てるかどうかが重要なんだけど「表現の自由」を声高に叫ぶ人にはそれが欠けています。

 

 今の話を分かりやすく例えると、職場の中で大声を発してワーワー騒いでいる人がいたとします。当然、周囲はその人をうるさくて迷惑だと思うでしょう。それは職場だけではなくて別の公共空間でも同じ。たとえば電車でもしもワーワー大声で騒いでいる人たちがいたら、周囲もまた職場のケースと同じく迷惑だと捉えることでしょう。それは職場も電車も他人と自分とが同じ時間を過ごす「公的空間」だからであって、その場で他人に対して迷惑をかける言動や振る舞いなどは迷惑、との「常識」があるためです。従って、職場のセクハラに定義されエログラビアに嫌悪の感情を抱いている人がゾーニングを行っていないお店でエロ系萌えグッズなどを扱っているのを見た時、行政の示したセクハラの定義にあるモノとみなすこともおおいにありうることであり、もしも仮にそう思われたとしても、その他者の認識は軽んじられるものでもありません。

 

日本国憲法を通じてエロ絵を考える

 日本国憲法第3章には「国民の権利及び義務」についてこう書かれています。

 

第11条
国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。

第12条
この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。

第13条
すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

手前味噌ではありますが、これらを僕なりに翻訳します。

 

皆さんは独立した思想や考えを持っている『個人』であり、公共の福祉に反しない限りその個性は最大限尊重されるべきです。

※他の個性の考えている『幸せ』と衝突した時には議論によって、両者の落としどころを探しましょう。その個性を暴力や権力などで捻じ曲げるようなことがあってはいけません。

自民の改憲漫画が、あまりにも酷い - サブカル 語る。

  

 簡単に「表現の自由」を語ってエロ絵を正当化したがっている人も多いけども、それを見たくないという人の「人権」を考えると、そんな簡単なものじゃありません。もちろん萌え系エロが好きで欲する人たちの人権もあり、それについても尊重されるべき。そのためにもう一度オタクや業界はサブカルにおけるエロ表現について考えろと僕はいっているのです。

 

 表現の自由なんていう言葉で言い訳をせず、それを欲する自分とそれらを嫌う他者について考えろ。そのうえでエロの基準やその商品流通の在り方(それこそグリッドマン抱き枕から、キズナアイなどを含め全般の)ゾーニングやプライベート空間のみの所有など社会と折り合いをつけながらお互いの納得できる妥協点を探すべきだと、何度も訴えているのです。分からない奴らが多くて、イヤになるけど。

 

また、それは逆に言うと

「公共の福祉の考えに基づき、萌え系エロを女性の性的消費であると捉えて嫌がる人に配慮できないような奴に『表現の自由』なんてあると思うな!」ということでもあるとこの場ではっきりいわせてもらいます。

 

オタクとして社会に生きるということ

 メディアなどで「オタク文化」が取り上げられる機会が90年代以降に増えたためかカン違いしている人を最近、多く見るけど僕にいわせりゃオタクなんて社会から嫌われてナンボ。最初にオタクなるものが認識された70年代~90年代の前半にかけてアニメやマンガ、TVゲームなどのサブカル表現は子どものモノであるというのが一般的認識でありその認識とかけ離れた僕たちオタクという存在は世間から見たら嘲笑の対象でした。

 

 それでもそれらを手放せない大人たちはプライベートな領域の「個」の空間と社会的領域の「公」の空間を使い分け、その趣味を「個」の空間だけで楽しむことで世間との折り合いをつけていた。それは僕らオタクたちの処世術であり、作法ともいえるものでした。

 

 それを考える時にいつも思い出すのが、高校時代のある同級生です。その娘もご多分に漏れず子どもの頃からアニメやゲームが大好きで、その趣味が高じてコスプレに興じるようになっていました。その娘とは隣の席だったのお互いにとりとめのない話を交わす程度の仲になっていました。

 

 そんなある日。彼女は「AMはこういうのどう思う?」といいながら一枚の写真を見せました。そこには彼女がドラクエⅣのアリーナになりきっている姿が写っていました。どう思うも何もその頃にアニメージュアニメディアニュータイプなどを購読していたのでコスプレについてはある程度知識もあった僕は(当時はクラス40人として「コスプレ」っていう単語が分かるのはせいぜい一人か二人。そんな時代だったんだよね)「コスプレか。僕はやらんけどおもしろそうだな」と、率直な感想をいいました。彼女はそれを聞いて「AMだったらたぶんそういってくれると思った」と安堵の息を漏らして嬉しそうに笑いました。学校で自分の趣味やすきなことの話を周りにしてみたい。だけどもコスプレなんて周りも知らないし、教えてもクラスメートにバカにされるかも。という葛藤を抱えていた彼女はその頃からアニメや特撮の雑談を周囲と楽しんでいた僕に目をつけ「AMだったらたぶん私の趣味を分かってくれるかも!」という想いを抱いて、周囲に言えなかったコスプレ趣味を教えたくなったそうです。

 

 コスプレは今でこそ多くの人に認知される趣味となってきていますが、30年前は人から理解されるどころか嘲笑されてあたりまえのものでした。ツイッターやインスタグラムで誰かがアップするコスプレ写真を見る度に、僕はあの娘が見せた安堵と喜び混じりな笑顔を思い出します。

 

被害者意識に苛まれて社会に適応できないオタク

 先述したとおり、そんなアニメやオタク文化も90年代の後半になって、攻殻機動隊の海外ヒットやエヴァンゲリオンのブームをきっかけにそれらは「ジャパニメーション」という括りで呼ばれるようになり、アニメやマンガ、ゲームは日本の誇るべき文化とかいう論調が多くなっていきました。その結果「オタク文化」といわれているものがある程度市民権を得たというのは、僕を含めオタクたちにとっては今までの息苦しさを解消させる可能性のある喜ばしいものだったことは皆さんも想像つくでしょう。

 

 だけど。多くの人に認知される。市民権を得るっていうことは同時に社会へのコミット能力や異文化としてのオタクの在り方を伝えるためのコミュニケーション力も求められていた。それをオタクは理解できていなかったのです。いってみれば社会はオタク文化の側面を認識しただけであり、それをオタクは「自分たちの趣味は社会に認められた」と勘違いした。そこからオタクは自分たちの趣味や振る舞いなど公私を区別せずに垂れ流したため、オタク文化の負の側面に対しての批判も集まるようになってきた。その批判がなぜ寄せられているかを理解できず狼狽したり、社会的なコンセンサスと照らし合わせて異議を唱える人たちに怯えて噛みついているのが現在のオタクの実情なのだろうと僕は思います。所詮オタクなんて社会から嫌われて、疎まれてナンボ。それを、「自分たちは社会から迫害されている」なんて被害者意識をみっともなく振り回すな。っていうだけのこと。

 

 結局のところ、現在のオタクっていうのは自分の好きな作品が他者に肯定されたか、否定されたかだけが大事でありその作品の背後にある「社会」っていうものをまったく見ていないということが今回の件でよく分かりました。だから前回の記事みたく自分の好きなものについて、否定的だと思えるような声などには自らの「楽しさ」を守るためだけに文脈を読まずやたら噛みついてくる。そういう意味でナイーブであるともいえるけど、そのメンタルの弱さを情けなくも思います。それは以下のブログ記事に多く寄せられたコメントを読んで思ったことでもあるけど。

 

arrow1953.hatenablog.com

 

 今回についていえばアニメ業界やオタクたちが「抱き枕カバーやラノベのエロ絵は、表現の自由」といくら訴えても、もしも社会が「エロ認定」したらそれは「エロ」です。それをエロじゃないと社会に認めさせたいなら苦言に背を向けたり牙をむいたりせずに対峙して積極的にコミットする中で双方納得できる「エロ」基準やそれを楽しむルールなどを構築する以外ありません。

 

 フェミニズムが性的な搾取の辛さを訴えるならオタクも「迷惑かけない範囲でキャラのエロを楽しむ」権利を主張する。そのうえで両者の納得できる妥協点はないか模索する。その折り合いは簡単ではないけど、少なくとも現在の異議についてなんでもかんでも敵意をむき出しにして言葉の暴力で殴ったり噛みついたりする態度よりも誠実ではあります。フェミニズムの人もそこを言っているのです。「私たちの辛さを訴える声を聴いて!表現の自由という言葉で耳をふさがないでよ!」と。

 

 また、フェミニズム云々とは別の観点から僕は注意を促してもいます。財務大臣の麻生や自治体、自衛隊などがポピュリズムを得るためオタク文化にすり寄っている現状がありオタクたちも調子に乗っていますが「オタク文化の奴らは誰とも対話できない」とのことになり、人々も飽きてその発信力も賞味期限切れともなれば「利用価値なし!」として社会はオタク文化を躊躇わず切り捨てる。確実に。話の通じない奴はどの集団にいたって邪魔でしょ?だからこそ僕はこのブログで「表現の自由という単語に甘えて閉じこもらず社会と対話しろ!それこそオタクの文化を守るために重要なことなんだぞ!お前らいい加減に理解しろ!」と怒鳴り続けているのです。

 

 

 追記:こういうのを見ていると、もう被害者意識全開なオタクはオウムと変わらないな。

 

togetter.com

  

arrow1953.hatenablog.com

 

※手前勝手な物語(妄想)に引きこもって外界に目を背けるという意味でネトウヨとも同じメンタリティーもっているんだろうな。俺の中ではオタク=オウム=ネトウヨだ。

※俺は優しいからいってやるけどオタクが「表現の自由!!」とか叫んで守ろうとしているのものは所詮、アニメキャラの萌え系エロ抱き枕やラノベの表紙程度のものだっていうことのみっともなさに気づいた方がいいよマジで。