サブカル 語る。

サブカルチャーなどについての雑談

赤松健の「ムリ」発言は表現の自由戦士の敗北を表すものである

こんにちは。

 

 今月もなんだかんだで月一の更新でございます。このブログはアニメや漫画、ゲームその他諸々の「なんだコリャ?」な情報やモノを紹介することで、それらの持っている「くだらなさ」「発想の奇抜さ」「時代を先取りしすぎた先駆性」など独特な味わいを楽しみたくて始めたものだったんだけど、気づいたら「オタク叩きの急先鋒」みたいな扱いをうけることの極めて多いブログになっていました。別にいいけどさ。私ゃただ、社会的な常識とやらを持たない人たちに対して「社会性をもってオタク趣味を楽しもうぜ。そうでないとそのうち社会からそっぽ向かれることになるぞ」と言い続けているだけなんだけどもな。まぁその主張もわかる人にはわかるだろうし、わざわざ声高に言わなくてもオタクはそのうち否応なく、社会との対話や常識の照合を突き付けられて醜く狼狽することでしょう。

 

 さて、本題。本日のブログのテーマは漫画家「赤松建」さんのこの発言

 

 

 この人、何に対して「ムリ!」といっているのかというと大阪府の出した「表現ガイドライン」の女性キャラ描写について。さて、大阪府はどんな「ムリ」なことをいっているのか見てみましょう。

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※女性を描く時は外見(若さや性的側面など)のみを切り離さずに

 人格を持った多様な姿で描きましょう。

 

なんや、うるさい輩どもがまた「このブログの野郎はいっちょかみしやがる」って吠えたそうな面してやがるな。・・・だったらそんなことをいわれないためにも、このガイドラインを熟読してからブログを書こう。なになにタイトルは

 

「考えてみよう その表現

興味を引くためだけに、女性を使っていませんか」

 

そんでもって、本文。

「安易に女性をアイキャッチャーとして起用するのではなく『伝えたい内容が何か』を考え、広報内容に合った表現方法を心がけましょう」

 

…なんだろう、見覚えあるなぁ。

 

 

それはオタクが「女性の肉体が好き」であり、現実社会においても女性の水着やセミヌードのポスター、グラビアが乱立しまくっていることから『オタクっていうか世間の男は女性の肉体が大好きであり、昔も今も女性の肉体の写真やデフォルメした女性の記号を衆目集めやモノを売るために利用してきた』という身も蓋もない現実」です。

女体だーい好き!こそオタクとこの社会の本音である! - サブカル 語る。

 

 

 日頃から偉そうに表現の自由について能書き垂れているんだったら教えてくれよオタク共。お前らが表現の自由と口にして守りたがっているエロの文法で伝えたい町おこしや選挙候補者の魅力ってなんなんだ?

ホリエモン新党も宇崎ちゃんのポスターも根本的に全く同類である - サブカル 語る。

 

 

 

そうだ、そうだ。どっかで見たと思ったら数年前の俺のブログで書いたことだったわ。数年前なのか。「オタク叩きでのブログのアクセス稼ぎ」「いっちょかみ」。そうかもね。だけども、数年前からこのブログでは最新の大阪のガイドラインと同じこと書いていたのか。範馬勇次郎だったら数年前からの主張を目を通しておっそろしくほほえんで

「そいつぁ資格が大アリだぜ!!」とかいって褒めてくれそうだな。と、まぁダラダラ書いてきたけど、別に行政の言い分と一致して答え合わせしたり、俺のブログは正しかったろ?とかいいたいんではありません。ただこういった見解みたいなものがいずれ行政などの公的機関から出てくるだろうということは普通の社会人だったら誰でも想像できるはずだとはいわせていただきます。

 

 よく考えてみ?政治、経済、文化の中で従来の女性軽視的な言動、行動などが世界的な潮流になっている男女平等コンプライアスのアップデートに従って改められていく中で旧態依然な「女体だーいすき」的なエロ価値観を反映させた表現だけがスルーされる筈ないのよ。どこからがエロくて、どこからがエロくないのかという程度の話ではなく行政ははっきり「女性を衆目集めに使ってきたこの日本社会の風潮。」そのものに異を唱えている。その苦言について表現のあり方を考えるならまだしも「ムリ!」。だったらずっと全裸や半裸で照れ笑いを見せながら温泉にザボーンと飛び込む女性キャラだけ描きつづけなさい。まさに表現の自由だ。ただ、その結果、社会からはそっぽ向かれるだろうから。僕らオタクもこのガイドラインをオタク的、エロゲーな価値観と社会との対話の機会と捉えて積極的に社会の常識というやつと対話するべき。さもなきゃエロは更にキツイ状況に置かれるぞ。表現の自由戦士がどれだけ「エロ弾圧は表現の自由の侵害」と怒鳴っても社会はすでにそれは「エロに対して負い目を持っている奴らの言い訳」だととっくに見抜いている。クライアント(行政)からの意見に「いや、俺エロしか描けないっすから!」としかいわない漫画家に付き合ってもいいことないぞマジで!

 

 


 

 

まんだらけの「禁書房」はオタクのキモさを周囲に知らしめる絶好の機会

こんにちは。

 

 今月もブログの更新数を増やすこともなく、サボりにさぼりまくり最低限の月一更新になりました。今回のテーマは「まんだらけ」。オタクだったら誰でも知っている漫画、アニメ、同人誌などの関連グッズなどを多く取り扱っている「オタク御用達の古書店」です。

 

まんだらけ | トップページ | MANDARAKE

 

 ちなみにこの店を知ったきっかけはオタクの口コミやアニメ関連雑誌などではなく、小劇団の専門雑誌誌「演劇ぶっく」の特集「街中の演劇を探せ」でした。その特集でこのまんだらけの店員が昭和の戦隊ヒーロー「超電子バイオマン」の「ブルースリー」のコスプレをして商品を並べている写真が掲載されており、驚いたのを覚えています。

 

 いつもどおり本題について語る前のどうでもいい話はこの辺で。さて本題。このまんだらけ中野ブロードウェイの一角に、アダルトビデオやエロDVDなど大量エロ商品を専門に扱う「まんだらけ禁書房」なる店をこのほどオープンさせたそうな。

 

 

 さらにその店舗の正面にはティーンや子ども向けのファンシーショップがあるため、ツイッター上では下記のハッシュタグが作られたとのこと。

#まんだらけ禁書房撤退しろ 

 

 ツイッターをみると「ファンシーショップへの嫌がらせ」「ファンシーショップとそのお客であるこどもたちを守ろう」「経済の自由に則ってエロ商品専門店を営業して何の問題がある!」みたいな声が溢れており、それらを見ていて、正直言って僕はただ困惑させられたのでした。その困惑を一言でいうと

 

「これはマーケティングの結果なの?単なるオタク潰しなの?」

  

 企業というのは何らかのサービスを顧客に提供することで利潤を得るのが目的でありそのためにマーケティングを行います。エログッズ専門のお店だって顧客のニーズというものがあり、普通に考えたらお客さんはきますよそりゃ。ただ、出店立地条件である
若い女の子の多く集まるお店の前。」というのを考えてみた時に「そもそも、自らの性癖を周囲(しかも女性)に晒すことになる店なんぞに客はやってくるのだろうか?」という考えはなかったのだろうか?いやいや、おそらくあったのでしょう。ということはむしろ「女性たちに自分の性癖を晒すことになる」のが大前提であり、それこそこのお店の最大の「ウリ」と判断したのだと考えるほうが自然。だけどそんなものを「店舗のメリット」にされたところで一般的な形で社会にコミットしているエロ好きオタクや非オタクな社会人の皆さんはそんな環境を「キモい」と思うでしょう。社会にコミットできているエロ好きオタクにとって迷惑このうえありません。

 

 だから僕はこの出店を「まんだらけのオタク潰し」と思っています。社会というものについて深く考えることもできず、ただ性欲をダラダラと人目を憚らず周囲に垂れ流すだけの節度のない「オタク」ははっきりいって「ジャマ」。だって、そんなのを放っておいたら会社のコンプライアンスを疑われたって文句などいえません。だからこそ今回
あえて「若い女性の集まる」前にゴキブリホイホイみたいな店舗を立ててそのゴキブリを集め「社会に対応できない非常識なオタク」を社会に晒して駆除を試みるというのが目的なのではないか?と、勝手に僕は思ってる。

 

 いやもちろん妄想だよこんなの。だけど、そうでも思わなきゃやってらんない。この数日間で常識のないオタクが店に集まり、周囲から大ヒンシュク。そしてまんだらけ
そのヒンシュクに対して頭を下げ、この店舗そのものをアングラな場所に移動させて営業を続ける。現在シャッターを下ろし続けているファンシーショップはめでたく営業を再開。後に残ったものは社会性のないオタクどもへの罵詈雑言だけという。ご都合主義だけどそんな展開をとても期待している。

 

 


 

 

※何度も何度も言い飽きたけどさ、俺は別にゾーニングを守ってさえいればどんな妄想だって性欲だって否定しない。ただそれを周囲に晒すなっていうだけ。

 

今週のお題「サボる」

ゲーム音楽がオリンピックで使われたことは素直に喜びたく思う

こんにちは。

 

毎月一度の更新さえも先月はサボり、気まずさを感じながらの今月のブログ更新。こんなにもマイナーなブログも地味に読者は増えているので、まぁこちらも気長に続けさせていただきましょうかね。

 

 ってなことで本題。先日より東京オリンピック開催ってことで今後2週間前後は猫も杓子も「この国はいくつメダルを手にできるだろうか?」といった「他人の褌で相撲を取る」を地でいくどうでもいい優越感、劣等感が大勢の関心事になるのかな?とか考えたりもする今日、この頃。基本的にこのオリンピックについては最初から反対の意見を述べてはいたものの、決定以降に数えきれないほどのトラブルを起こしまくっただけでなく開会式前日になってもそのトラブル連鎖を続けるグダグダっぷりでも見てやろうと思ってテレビの前にいましたが、アスリート入場前後の場面でドラクエの「ロトのテーマ」がかかると同時にひどく不愉快になったのでベッドにもぐりこみました。

 

 ここでドラクエのBGMを手がけてきた作曲家「すぎやまこういち」について述べると
テーマがブレそうになるので、ここでは語りません。このブログで僕のいいたいことは
ゲームの音楽がオリンピックみたいな「世界」と深く関わるイベントで使われたという事象の背景を、僕らオタクはどういう文脈で考えるべきなのかということです。ゲームミュージックや日本の漫画のフキダシを思わせるアスリート紹介のプラカードが会場を覆っているのを見た「オタク」が

 

「ゲームやマンガが国際的に認められたぞ!」

「これらサブカルやオタクは日本の文化だ!」

 

そんなことをツイッターなどで声高に叫んでいるのを見て、その気持ちは分からなくもないと思う反面、ちょっとまてお前ら!と背中を叩いて呼び止めて、こういいたくもなりました。


国のあらゆる世論調査で大多数が「反対」を突きつけたイベントで使われて嬉しいか?

 

 その意見について「それでも嬉しい!」「余計なこというな!」とか思う人だったらそれ以上語る言葉はありません。どうぞお好きに。ただ、選手入場の場面で流れ続けるゲーム音楽に何か違和感などを抱いた人だったらもう少々このおっさんオタクの駄文にお付き合いいただきたい。

 

 話を続けます。さっき述べた通り、この東京オリンピックは多くの理由から日本人の多くが望んでいないイベントとなっておりました。誘致に使ったお金の不透明さや問題発言の多さ、素行の酷さに呆れるばかりな委員会関係者やお偉いさん。世界的な規模で問題なコロナウイルスの流行にまともな対応もできていない運営。そういった「ごみのごった煮」みたいなものが次々に溢れ返り、国内外で多くの人がドン引き。そんな中でもこの国は強引に開催へ突っ走ったというわけです。そんな顰蹙ものの国際的なイベントで使われるゲームミュージックとマンガのフキダシにはどんな意味が付随するか。もし、今回のオリンピックにおけるゲーム音楽の利用に言い表せない感情を抱いたオタクの人がいたら「背景」を読んで、それについて考えてみてもらえたらと思います。リオにおける「安倍のマリオコスプレ」に始まり、ゲーム音楽を使う開会式にたどりついたこの東京オリンピック。ちなみに下記の記事ではファンを含むゲーム関係者が「オリンピックという舞台での音楽利用を喜び、この大会を巡る多くの諸問題における多くの指摘を考慮せず、ただ無邪気に喜んでいる有り様をみて「(ゲームが)国威発揚に都合よく利用されることは認められていることとは全く違う」というゲームのポピュリズム利用ほか、政府や関係者たちの抱えている負のイメージ払しょく利用に苦言を呈しています。

 

www.gamespark.jp

 

 

 それに同意すると同時に僕は、オリンピックでのゲーム音楽利用とそれを「認められた!」と大声で喜ぶ関係者たちの態度を見ていて「ゲームに関わる多くの人がこんなにも潜在的に『社会に認められたがっていた』。つまり、こんなにも多くの人が「自分たちの愛するゲームは『一般社会で認められていないんだ』というコンプレックスを抱いていたんだ。」ということを強く強く感じました。これもまた背景を読むっていうやつです。だけど、まぁ社会における多くの事象の背景をどう読むべきか背景から何を読み取り考えるべきかについてはその人の感性や教養とかも絡むので一概にどうこういえませんけど。

 

 だけどそんなコンプレックスを抱えて多くの人たちがゲームに関わっていたのだとしたら。そのゲーム関係者たちの長年抱えてきた劣等感を払拭してくれたきっかけが大多数の人から顰蹙を買いまくりだった東京オリンピックだったのだとしたらこれほど惨めなものってあるかな。別に他人から認められようともそうでなくてもゲームを愛することはできるだろうに。

 

 あーなんかこれ図星だったら気の毒だな。だから僕も喜んでおこう

 

 

「オリンピックにゲームやマンガが使われたぞー!国際的に認められたぞー!」

「ゲームや漫画は日本の誇りだー!」

 

 

 


 

 

※多くの日本人が「NO」を突き付けた東京オリンピック。その中で開催となったこの大会についてどう考えるべきか。これは関係者や出場選手だけでなく、僕みたいな反対論者や賛成論者含めて突き付けられた大きな宿題だと思う。

キチガイなのは僕らかオリンピックの関係者かどちらだろう?

こんにちは。

 目前に迫った東京オリンピック。実際やるの?やらないの?と僕を含め世界各国で、多くの人々がテレビ、新聞などの報道を眺め「どうなることやら」と、お思いになっているかと思います。ただまぁ最近の世論調査を見てみると「どうなるんだ?」っていう疑問より「コロナで大騒ぎの時にわざわざオリンピックなんてやるな!」「IOC、日本政府のお偉さん方はオリンピックをやる気なの?何を考えているの?」っていう非難が日に日に大きくなり、オリンピックを望んでいない国民の不安を聞くどころか逆に煽ることを語る姿勢に怒りと諦めの嘆息が巷に溢れているのを感じたりもする今日この頃。

 

東京オリンピック「中止」「再延期」が6割超 毎日新聞世論調査 | 毎日新聞

 

 普通に考えて人が大勢集まったらダメよ!って時にオリンピックなんてムリ!中止!百歩ゆずって延期だろ!って声が多数なのにこういう発言しちゃうお偉方。

 

五輪実現のため「犠牲払わなければ」 バッハ会長が発言 - 東京オリンピック:朝日新聞デジタル

 

jp.reuters.com

 

 そりゃ、やりたいだろうね。お金がムダになるもんね。お金をドブに捨てたくはないイベント屋連中どもはまぁそう言うでしょう。頭にくるけれど、理解はできます。ただ今はオリンピックやスポーツ競技の試合観戦から得る「感動」も否定までしないけれどそれはいらない。だからそこで「希望」「平和の祭典」みたいな無神経かつ、お気楽な「感動」ポジティブワードを見聞きさせられるとついイラっとさせられます。

 

 そういやオリンピックについてはこのブログでも何度かテーマで思うことをつらつら述べさせていただいています。その中で反響があった記事がこちら。

 

 

arrow1953.hatenablog.com

 

 

「日本人はメダルきちがい」

 

強烈なセンテンス部分を抽出しているので、改めて発言を紹介。 「そんなにメダル、メダルというなら自分で泳げばいいじゃないですか!日本人は、メダルキチガイですよ!」 この発言は僕と同い年の女性スイマー「千葉すず」さんの放った名言です。

オリンピックに興味ない自分にとっての名言「日本人はメダルきちがい」 - サブカル 語る。

 

 オリンピックなどの世界的な大会で、選手にメダルへの過度で無神経な期待をかける国民に言い放った、僕の中では数あるオリンピックに関わる発言で最も名言ではないだろうか?と思っている発言です。

 

 これは僕の感覚だけど、この国ではいつ頃からか、オリンピックを「感動」という発言で覆い包むような、なんとも奇妙な空気がずっと漂い続けていました。たぶんそれは選手と国民の双方にある「メダルへの渇望」をごまかす大義名分みたいなものをみんな必要としていたためではないかと僕は思っています。国民はアスリートのメダル獲得で「ささやかなナショナリズム」を満たし、選手はメダルを手に名声や財、権力を得る。政治もその「平和の祭典」に相乗りして、国からメダリストを輩出できたりしたら国の威信みたいなものを手にできる。そんな身も蓋もない、生々しくてグロテスクな渇望が、ずっとこの国を覆っていた。その生々しさを直視しないために普及したのが「スポーツで得られる感動」だったんではないだろうか。だけど、コロナウィルスという直接的な危機を前に、多くの人は「ささやかなナショナリズムなんていらねーわ」となっちゃった。それでもアスリートたちは(全員ではないと思うが)メダルやオリンピック出場権の付属品としてついてくるお金や名声が欲しい。国もオリンピックという非暴力的戦争で勝利することで周囲国などにスゴイ!と思われたい。開催国で得られる利権で、多額の金を手にしたい!

 こんなふうに、三者の利害が分断されてしまった。だからこそもう「感動」っていうオブラートも国民には通用しない。それを多くの関係者は分かっていないので、国民でなくなんとしてでもオリンピックを開催すると語る関係者サイドが「キチガイ」となっているのでしょう。

 

 こうなったら選手も関係者らも「感動」を語らず、正直に「ぶっちゃけオリンピックに出場してメダルと金、名声を手にできたらサイコー!」「感動なんてどうでもいい!!今手を引いたらかけてきた多額の金がムダになる!」っていえばまだ人々はその正直さを認めてくれるかもしれない。スポーツ関係者はやっぱり潔くて正直な人たちだな」と多くの国民の尊敬を集めるかもなぁ。いや、マジで。

 

 


 

 

 

 

 

「うっせぇわ」はたぶん、今後も語られ続ける曲にはなりえない

こんにちは。

 

 世間はゴールデンウィークですけど、仕事が休みの時までわざわざ人ごみにでかけることもなかろう。行政のいいなりになるっていうのも癪だが、ステイホームでのんびり家族団らんを満喫しようかな?と考えている今日この頃です。

 

 さて本題。

 

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   今回は先月のブログで書いたオウムとうっせぇわの共通点なんぞについて考えてみたく思っています。

 

この歌の怒鳴りたてる世界みたいな、狭くて暗い閉塞感に覆われた現在の日本を作りあげた老害のひとりである、僕の戯言なんぞ「うっせえわ」っていいたくもなるでしょうけど、それでもいわせてもらうとその「うっせぇわ」な世界観の先にあったのはかつての「オウム」的な、さらなる閉塞した世界ではなかっただろうか?と90年代に青春真っ只中だったおじさんとしては注意喚起でもしておこうと思います。よく考えてみたら「うっせぇ、うっせぇ!」と「ショーコーショーコー」ってフレーズの繰り返しにはなにか通ずるものがあるな。この曲と対比するべきはかつての大人社会への反発ソングではなく「尊師マーチ」なのかもしれません。

うっせぇわの歌詞に対して共感どころかストレスを感じるあなたに - サブカル 語る。

  話は前後するんだけど、今回丸々一ヶ月記事の更新をせずにいたのは、この曲が話題になっているのはあとどの程度の期間かを見極めたく思ったからです。後だしジャンケンみたいになってイヤですが、僕は4月下旬ごろには誰も話題にしなくなり、人々の記憶から消えているだろうと思っていました。え?皆さんもそう思っていた?だよねー!って思っていたら今週の週刊少年ジャンプで「うっせぇわ」の特集。今更この曲の特集を組むっていうセンスのなさは、もうこの雑誌の凋落ぶりをまざまざ読者に見せつけた印象さえあります。数年前は「再び黄金時代の到来?」みたいなブログ記事を書いたんだけどなぁ。

 

arrow1953.hatenablog.com

 

 まぁ、いいや。話に戻るべ。このうっせえわとオウムの共通点。それは先述している「うっせぇわ」と「ショーコーショーコー」という単調な歌詞のリピートにあるのではありません。この二つを並べたうえで注目すべきは、どちらも「複数の異なる世界観をパッチワークみたいに張り合わせることで作られた『つぎはぎ』な光景をユーザーに見せている」という点にあります。オウムはノストラダムスの大予言的な世界の終末論やSF、超能力に神話の世界などから引っ張ってきた、実に多くの断片的な世界観を張り合わせてひとつの大きな『オウム」という世界観をでっちあげた。そのため、その「オウム」を構成する細かく小さいパーツをていねいに見ていくとその内容の薄っぺらさ、陳腐さに驚かされます。僕がうっせぇわを聞き、曲の歌詞を読んでいて感じたのはその「使い古されまくった感の強く漂う陳腐さ」「うすっぺらさ」でした。経済の動向把握を当然としているサラリーマンや飲み会で焼き鳥の串を外す気配り社会人、そういうものをルールとしているこの社会。それを歌で語られても「ステレオタイプ」でベタな写真を見せられているようで、正直「なんだかなぁ」「こんなにもステレオタイプ且つベタで断片的な風景の写真にみんな共感させられちゃうのかなぁ」という印象だったし、何より歌に「物語がない」ことに正直言って困惑させられたというのが本音です。

 

 物語。もう少しそれを具体的に言わせてもらうと「曲に出てくる人物のストーリー」です。その「経済動向把握と飲み会の焼き鳥の串外し」を求めてくる社会で、主人公はどう生きているか。というのが、あまりにもベタな風景描写だけで受け手の想像力を掻き立てるものがまったくないっていう点であまりにも物足りない。このブログでわざわざいうほどのことでもありませんが、僕と同じような印象を多くの人が抱いたからこそそのブームも長続きせずあっさり消えたんだろうね。何度も述べた通り、パッチワーク的手法で「独自っぽい世界観」をでっちあげて瞬間風速的な勢いで消費させた後は何も残らない、残さない。この『読み終わったら持ち帰られることもなく、電車の網棚に捨てられるだけの漫画雑誌』みたいな消費のありかたはサブカルの本質っていう観点でいうと極めてまっとうともいえます。

 

 そうはいっても所詮このブログは40超えたおっさんの価値観によるもの。うっせぇわに対する共感を否定するつもりもまったくありませんし、それが流行するなら、現在の世相そのものがそれを求めているということ。うっせぇわの流行、おおいに結構。っていうところ。いやマジで。ただ、この「消費」の後に何が残るのだろうか?ってのは、割合大きな問題だよなとも思ったりしています。この曲を語るために、よく引き合いに出されていた「尾崎豊」などの曲もあらためて考えるとこれまた「ステレオタイプな描写」でしかないんだけども、ある一定の世代においては自分の心境を語るための「リアリズムを伴った言葉」だったというのは確かなのです。だからこそ半分ネタであっても尾崎豊について語る人は今もいる。だけどもこの「うっせぇわ」を数年、数十年後に、誰かが語ったりするだろうか?っていうと、僕は分からない。どうなんだろう?って、首を傾げているところで、本日はこれにて。

 

 

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 ※何に共感しても自由だし尊重もするけどこの曲やオウムみたく「深い中身がありそうでいて、実は何の意味もない空っぽなモノ」に対する無自覚な共感っていうのはやはり危うい。皆さんもどうぞお気をつけて。

うっせぇわの歌詞に対して共感どころかストレスを感じるあなたに

こんにちは。

ブログを書こう書こうとかいいながら、毎月1度の更新がデフォルトになってきている今日、この頃。書きたいことは山ほどあれども、日々の日常生活の更新が手いっぱいで疲労困憊な僕の心身。転職後の業務に早く慣れなきゃ何も出来ねーなー。などといった
どうでもいい愚痴を呟きつつ、おんぼろなパソコンのキーボードを叩いております。

 

 そんな冗長な近況はこの辺にして本題。本日は少々時期を逃した感もありますけど、この曲の雑感なんぞについてでも語らせていただこうかな。

 

www.youtube.com

 

news.yahoo.co.jp

 

  このネット記事もそうなんだけど、この曲の歌詞を皆さん深読みしすぎじゃないかと僕、思っているんですよ。なんや知らんけれども、チェッカーズの「ギザギザハートの子守唄」のオマージュだの、尾崎豊との対比だの、どれもまぁ語る語る。そんなことをわざわざしなくても、たぶんこの曲は歌詞のフレーズ以上の意味などありません。義務教育の範囲内で培った国語の読解力で読んでいくだけで、本質はわかると思う。ってなことで、その僕なりの義務教育の成果を発揮して歌詞に補足を加えながら意訳をしてみましょう。あ、引用はJASRACあたりがうっせーのでやりません。

 

  ♪ 小さな頃から優等生で(何も考えることもなく、周囲のいうこと聞いて無批判にいい子演じていて)いつのまにか気づいたら大人に自分はなっていた。(周囲のいうことしか聞いていなかったため)ナイフみたいな(鋭い)思考回路をまったく持ってない(つまり自分で物事を考えられない)ため、(他者や外界の刺激を受けるだけの受動的な)遊びに飢え続けており、そうなったのは周りのせいだと(責任転嫁しかできず)思っている。

 

以下、サビの部分まで中略

 

社会の同調圧力に「うるせぇ!お前が思うよりは健康だ」、つまり『自分も大なり小なり病んでいるっていう自覚』を持っていてそのうえで周囲を自分を理解できない凡庸な奴らだとただ見下すだけの人生だけど、それで問題なし!♪

 

 だいたい、こんな感じかな?共感っていうのは人の価値観そのものであり、それ自体否定できないけど、この曲の歌詞に共感した人たちの作る『未来』っていうのはさぞや暗いだろうなぁって思います。

 

 若者の社会への反発っていうのは古今東西、多くの表現をつうじて語られ続けている普遍のテーマともいえます。僕もまたそういった誰もが心に抱える「社会への反発」を多くの表現により代弁してもらい、気づいたら大人になっていました。ただ、その頃の「反発ソング」とこの「うっせえわ」を比べると後者のほうが圧倒的に世界観が閉塞的で息苦しく思えます。
 

 窓ガラスを割ったり、盗んだバイクで走ったりっていうのも後に待っているのは高額な弁償と周囲への謝罪、警察の書類送検であることを考えるとあんまりクレバーではありません。ノートに書き留めた「革命」っていう単語に心躍らせた中学生が集まり「七日間戦うよ!」とか歌ってみても、実際にそんなことやったら内申書でひどい評価をつけられて高校進学も苦労する羽目になるっていうのが関の山。現実なんてそんなもん。

 

 だけど。それでもそれらの表現に書かれていた言葉は僕らを共感させた。現実的とはいえないフィクションを通じて声高に叫ばれていたものは「居場所をつくる、守るため現実で行動を起こそうよ」というメッセージだったように思うのです。実際に行動を起こすかどうかについては別のこととして。

 

 「うっせえわ」が描くのはそれらと逆の世界です。「正しさとは何か見せつけてやる!なんて大見得を切っておきながら、やっていることは周囲を遮断することで自らを正当化して、周りの人々をただ、凡庸だと見下すだけで何も行動できない弱者の単なる愚痴」っていうだけの暗く狭い世界でしかなく、どこにも救いや希望なんてない。まぁ「窓ガラス割り」や「バイク」に共感した僕らおっさんが、今のこの日本をどんな状態にしているのか?といわれたら何も言い返せないけど。

 

 この歌の怒鳴りたてる世界みたいな、狭くて暗い閉塞感に覆われた現在の日本を作りあげた老害のひとりである、僕の戯言なんぞ「うっせえわ」っていいたくもなるでしょうけど、それでもいわせてもらうとその「うっせぇわ」な世界観の先にあったのはかつての「オウム」的な、さらなる閉塞した世界ではなかっただろうか?と90年代に青春真っ只中だったおじさんとしては注意喚起でもしておこうと思います。よく考えてみたら「うっせぇ、うっせぇ!」と「ショーコーショーコー」ってフレーズの繰り返しにはなにか通ずるものがあるな。この曲と対比するべきはかつての大人社会への反発ソングではなく「尊師マーチ」なのかもしれません。

 

 うっせぇわとオウムの尊師マーチの対比関係。ふざけるな!と怒る人もいるでしょう。だけど、これ結構マジメに述べています。それは曲のフレーズの連続による中毒性とかに共通性を見い出していっているのではでなくて、この文章を書きながら「うっせぇわ」も「オウム」もサブカル的文法に則った構造になっていることに気付いたからです。っていうところで話も長くなってきたのでこの辺についてはまた次回。この話、続くのでよかったらお付き合いを。

 

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 ※このブログで自分のことを「おっさん」「老害」って書いているけど、サブカルという観点で考えると「うっせぇわ」の歌詞に共感できる人、できない人の分岐点って多分だけど「世代」ではないな。次回その辺についてゆっくり語ってみるかね。

 

「遊郭ってなーに?」っていう素朴な疑問に答えてくれる作品について

こんにちは。

 

 お久しぶりです。相変わらず日々の仕事に追われまくっており、このブログも脚本も書けておりません。かといってその業務は大変かというと、疲労感はハンパじゃありませんけどもめちゃくちゃやりがいのあるものなので、それなりに満足をしてもいたりする。そんな毎日ですかね。あ、話は前後するけど昨年転職して長年いたIT業界をフェードアウト。そのきっかけについても改めて後日、ブログで書いてみたく思っています。いやーほんとマジでひどい目にあった。うつ病直前まで追い詰められたから。そんな僕を見かねた知人の誘いを受け、IT業界を離れて辿り着いた業界はっていうと・・・っていうところで本題。今回のテーマは「鬼滅の刃 遊郭編」について。

 

 

 

遊郭ってなーに?どんな所?」

 今や老若男女を問わず、この国で最も話題となっているアニメであり、わざわざこのブログで話題にするまでもないと思っていたのですが、今年から放映予定の「遊郭」を舞台にした続編「遊郭編」をめぐって「子どもに遊郭をどう説明したらいいのか?」といった議論が巷であったそうな。

 作品の是非や、「遊郭」が舞台になった背景の解釈などをこのブログでどうのこうの語るつもりなど全くもってございません。ただ、子どもに実際「遊郭ってなーに?」と質問されたら、この作品を見せたらいいんじゃないの?という漫画をここで紹介させていただきます。

 

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中沢啓治:ゲキの河

 

遊郭というものの本質を言い切った漫画「ゲキの河」 

 何の反論もできません。これは「はだしのゲン」で有名な中沢啓治さんによる戦争漫画の短編。舞台は昭和10年。軍部の暴走で日本がだんだん戦争へ向かおうとする最中、戦争反対を訴えている父を持つ少年「ゲキ」の物語です。父親は特高警察に捕まり、親戚に騙されて兄妹を満州や沖縄へ売られたゲキは家族を取り戻すため、単独で大陸を渡り満州渡航。その船の中で遊郭に行くことになった少女「ユキ」と出会い、二人で人買いから脱走を試みる。その場面のセリフです。

 作品やその時代背景などを別にしても、これほど「遊郭」というものの本質を的確に言い表しているセリフを僕は知りません。遊郭、今でいう風俗に置き換えても「女性の肉体を男たちが自由にもてあそぶところ」って説明されたら「風俗や遊郭は貧困のセーフティネット」なんてしょうもない能書き垂れている人はどう反論するんですかね?逆に遊郭を擁護する人たちは堂々と「経済の原理に沿ってお金を払い、男性が女性の身体を好き勝手にもてあそぶ所」ってドヤ顔!ってのもアリかも知れません。だって経済「お金で欲するサービスを得る」って原則的には正しいんだから。むしろ威張るところでしょう。

 

風俗は女性のセーフティネットではない

 僕はこの作品を中学生の頃に読み「男性が女性の身体を自由にもてあそぶ」という表現のエグさにかなりショックを受けた記憶があります。正直にいえば僕自身、そういう状況の官能小説やエロアニメなどに欲情しないわけではありません。だけど現実的には今も昔も貧困のため「性」を売っている女性は日本や世界各国に多くいる。そういった性欲を否定はできないけど、同時にその性欲によって自己決定権を奪われた人は多い。ということを忘れたり、そんな現実や自分自身の性欲から目を背けて「風俗はセーフティネットだ!」みたいなことを軽々しく口にしてはいけないのでは?と僕は思います。

 

 

 

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※人から見たらこういうふざけたことばっかりしていたのも僕なりの「社会への反発」だったんだろうなぁ。